新月に斬る

和泉茉樹

新月に斬る

     ◆


 俺はゆっくりと夜の街道を歩いていた。提灯は火が消えてしまい、月明かりしかない。いや、月明かりもない。

 真っ暗だ。

 前の宿場で宿を取るはずが、どこかの神社だかへ詣でる連中でごった返して、安い旅籠が満室だった。仕方なく、もう一つ先の宿場、小さい宿場へ行くか、と思ったことも、今になってみれば間違いだ。

 しかしもう明かりも見え始めている。深夜だが、さて、泊めてもらえるだろうか。

 歩を進めていると、前に人影のようなものが見えた。

 不審なのは、街道をこちらへ進んでくるのではないことだ。

 脇道から、街道の方へやってくる。脇道の先は、闇でよく見通せなかった。

 ちょうどその人影と並ぶような格好になる。

 挨拶しないのは、無意識に緊張したからだ。

 血の匂いがする。かすかだが、間違いない。

 相手もこちらに気づいているはずが、しかしやはり挨拶もせず、宿場の方へ進んでいく。

 自然、微妙な間合いで、形では平行して歩くことになった。

「もし」

 こらえきれずに、訊ねていた。

「どこかにお怪我でも?」

 我ながら無難な問いかけだが、人影、俺とほぼ同じ体格の男性は、ちらりとこちらを見るような素振りの後、

「どこにも」

 と、短く返事をした。朴訥とした、どこか掠れたような声だった。年齢は四十代か、と想像できた。

 それにしても、どこにも、か。

 血の匂いを嗅ぎ間違えることはない。

 つまりこの男が、誰かを切ったということだろう。近くにいるので、男の腰に刀があるのはさすがに見えている。

 今日は新月のせいで闇が深いが、その何もかもを飲み込むような漆黒の中でも、刀の影、そして男の歩みにある剣士特有の体運びくらいは見えるのだ。

 ただ、まさか、人を切りましたか? などとは訊けない。

 面倒ごとに首をつっこむだけだろう。

 もう会話も何もなく、宿場にたどり着いた。男はすっとどこか細い道を選んで、俺の前から消えた。

 赤羽屋という旅籠の看板が目に入り、すでに戸締りされているが、その戸を叩いてみた。

 少し待っていると、戸の向こうから「どなたです?」と低い声がする。

「すまないが、泊めてくれないか。こんな時間に、申し訳ない」

 ガタガタと戸が揺れ、開く。

 初老の男がそこにいて、胡散臭そうにこちらを見る。

「お一人で?」

「ああ、そうだ。どうだろう」

「お上りください」

 すまない、ともう一度、謝罪して、俺は赤羽屋の中にどうにか招き入れられた。

 お湯がなくてすみませんね、という言葉とともに出された水で足を洗い、上がり込んだ。

 部屋に案内されると、そこで例の初老の男がこちらをうかがいつつ、訊ねてくる。

「人斬りに会いましたか?」

「人斬り?」

 例の男のことを思い出したが、実際に彼が誰かを切ったところを見たわけではない。当然、切られた相手も見ていない。

「知らないな。辻斬りが出るのか?」

「腕試しですな、あれは」

 老人はそう言って、布団を敷き始めた。

「腕試しとは?」

「この宿場に、ハバというお侍がいまして、この方が大層な使い手だそうです。私などには、よくわかりませんが。そのハバ殿が、もう何年も前になりますが、殿様の武術師範になるように、と請われたそうです。しかしそれを断った。殿様は怒るでもなく、では代わりに誰がふさわしいか、お尋ねになったとか」

「その答えは?」

「自分を切ったものを、武術師範にすればいい。そうおっしゃったそうです」

 それはまた、自信家だな。

「その」男が掛け布団を整えつつ、こちらをちらりと見た。「お侍さんのお名前は?」

「スマ、という」

「どちらから参られたので? 武者修行でしょう?」

「北の方から、流れてきた。武術修行というほど、立派なものでもない」

 左様ですか、と老人が頷く。

 布団を敷き終わった男が、頭を下げ、「ごゆっくり」と言葉を残して、部屋を出て行った。

 一人になり、さっさと旅装を解いて、布団に横になった。

 ハバ、という男には興味が湧いた。

 さっきの人影、血の匂いのした侍がハバなら、彼は今日、人を切ったことになる。

 明日にでも、様子を探るとしよう。

 俺の旅は特別、慌ただしいものでもない。むしろ、こういう剣術絡みの出来事には、興味がある。

 目を閉じると、すぐに眠ってしまった。


     ◆


 赤羽屋の主人は、例の老人だったようだ。

 この旅籠は翌朝になって気づいたが、ほとんど民家のようなもので、一度に泊まれる人数は少ない。そもそもこの宿場が、大勢が利用する宿場でもないようだ。

 老人の奥方の、シワの目立つ女性が粥を出してくれた。米ではない。雑穀の粥で、小さく切った芋が入っている。

「ハバ様のことですか?」

 老婆に訊ねると、嬉しそうに、話したくてたまらないとばかりの態度に変わった。老婆が勢い込んで、次々と言葉が口をついて出てくるのには、さすがに驚いた。

「ハバ様は、かれこれ十五年ほど、この宿場におられますね。普段は子供たちに字などを教えております。剣術の稽古は見たことがないですねぇ。道場に通っているようでもありません」

 自分だけでも稽古が出来る、ということかもしれない。

 一流の使い手になれば、稽古相手がいなくなることを、俺はよく知っている。

「腕試しをされている、と聞いたが。それも挑まれる側だと」

「あの方を切ったものが、武術師範で仕官できますからね」

「それほどの使い手なのですか?」

 知りませんよぉ、と老婆が引きつったように笑う。

 しかしね、と、途端に老婆がちょっと表情を変えた。

「あの方は、夜にしか剣を抜かないのです。それも新月の夜だけ」

「新月?」

 まさに昨日が新月だった。

「どうして月や時間を選ぶのですか?」

「剣を隠すため、だそうですよ。噂ですがね。技を見抜かれて、負けるのが怖いのでしょう」

 そんなことがあるだろうか。

 俺は粥を木の匙でかき混ぜつつ、考えた。

 何を隠したいんだろう? 俺も師匠に剣術を習った時、むやみに筋を悟られるな、とは教わった。手の内を明かさず、相手を確実に仕留める。それが正解なのだ。

 決闘になれば、片方が死ぬか、相打ちで両方が死ぬことが大半だ。逃げるの恥だ。

 死ぬ相手になら、何を悟られてもいいはずだろう。

 死んでしまえば、誰かに教えることや伝えることはできない。

 決闘で人払いをするものは多い。ただ、話を聞くだけでは、ハバという剣士は、異質なほどに何かを隠している。

 老婆が話を続けるのをぼんやりと聞きつつ、匙で粥を口へ運んだ。

「ハバ殿はどちらにお住まいかな?」

 ええ、ええ、と老婆が嬉しそうに説明してくれた。

 食事を終えて、身支度を整え、腰に刀を差し込んで外へ出た。

 朝なのに閑散としている通りを進み、脇道から脇道へ進むと、目的の小屋が見えた。長屋が二棟、並んでいる。

 そのうちの片方の、一番奥。

「もし」

 声をかけると、奥で何かが動き、戸が開いた。

 どこか疲れた表情の男がそこにいる。着ているものはボロボロで、髪も月代を剃らず、総髪だった。

「どなたかな?」

「スマと言います。旅をしております。あなたのお噂を聞いて、お訪ねしました」

「噂は噂です。お引取りを」

「お話だけでも」

 じっとハバがこちらを見据えた。

 瞳もどこか澱んでいた。覇気がない。死人の瞳を連想させる、不穏な光だ。

「すぐに子どもたちが来ます。スマ殿、字は書けるかな?」

「一通りは」

「よし、上がりなさい」

 ハバは俺を中へ入れてくれた。

 壁際に小さな文机が積み重ねられ、部屋には墨の匂いが染み付いていた。

 一番奥、縁側に小さな器があり、ちらっと見ると、何か野菜を煮たもののようだった。あれが朝食か。

「朝食の途中なのです。失礼」

「いえ、こちらこそ、早い時間に申し訳ない」

 縁側にそっとハバが腰掛け、俺はやることもなく、壁に貼ってある半紙を眺めた。

 きれいな字が墨でそこに書かれている。達筆と言っていいだろう。

「どなたに字を習われたのかな?」

 声をかけられて、俺はそちらを見た。ハバは外を向いたままで、こちらに背を向けている。

「剣術の師です。俺の育ての親です」

「ご両親は?」

「飢饉で亡くなった、と聞いています」

 そうですか、とハバが小さな声で呟いた。

「この宿場でも、親のない子は多い。せめて文字が読み書きできれば、と思い、こんなようなことをしています」

「剣術を教えないのですか?」

 少しの沈黙のと、ええ、とハバが返事をして、立ち上がった。

「剣術は教えない。剣術を極めても、それはほとんど、死に向かって飛び込むようなものです」

「あなたを倒すと、剣術師範になれる、と聞いたのですが」

「倒せませんよ」

 さらに何かを続けようとしたが、外に通じる戸が開き、子供たちがそこにいた。

 ワァワァと大騒ぎが始まり、子供達は文机を確保すると、まるで目印があるかのように、規則正しく並べて設置した。次に硯と筆、墨などが用意され、いつの間にかハバも食事を終え、身支度を終えていた。

 いきなり部屋がシンとしたかと思うと、子どもたちの前に立ったハバが、

「では、始めましょう」

 と言う。

 すると、子どもたちが、どこかの学者が考えたらしい標語のようなものを、暗唱し始めた。どこかの大名家の家訓じみている。

 長いそれが終わると、今度は字の勉強が始まった。

 ハバは特に俺を紹介するでもなく、ただ名前だけを子供達に紹介し、それからは俺に指示を出し、俺は早速、子どもたちと向き合った。

 筆を手に取り、文字を書く。ちなみに俺の字は師匠も唸るほど形になっている。筆を使うのは好きだ。

 慌ただしく、騒々しい午前中が終わり、それでこの塾のようなものは終わりらしい。

 子供達は道具を整え、文机も元どおりに壁際に積み重ね、飛び出すように部屋を出て行った。

「食事に行きましょう」

 ハバが俺を誘ってくれた。

「大したものがある宿場でもありませんが」

 外に出るとき、ハバは腰に刀を差し込んだ。一本差しだ。

 二人でゆっくりと通りを進み、どこに行くのかと思ったら、屋台の蕎麦屋だった。

 何が売りか訊くと、山で採れた山菜を載せるものだという。俺はそれを頼んだ。ハバは卵である。俺は卵を生で食べるのは怖いと思っている。何度か食当たりを起こしたことがあった。

 蕎麦を食べている間、俺は自然と店主を見ていて、その店主がハバに畏怖の念を抱いているのは、よくわかった。

 俺がゆっくり食べているのと、ハバが素早く食べたこともあり、ハバは、先に帰ります、と銭を店主に手渡した。

「またお訪ねしていいですか?」

「お好きに」

 ゆっくりとハバは離れていった。足取りに、その技量の高さが覗いている。

「お侍さん、あの方がどなたか、ご存知ですか?」

 完全にハバの姿が消えてから、あ蕎麦屋の店主が、どこか怯えた顔でこちらを見た。

「そのつもりですが?」

「厄介ごとになるから、お気をつけた方がよろしいかと」

「そうですか」

「昨夜も一人、殺されましたよ」

 ふむ、と俺はさりげなく頷いて、遺体はどちらへ? と、自然体で訊いていた。

 蕎麦を食べ終わり、銭を手渡し、俺はハバがいる長屋とは逆の方向へ進んだ。そちらに小さな寺がある、と蕎麦屋に教えてもらっていた。

 寺は塀で囲われているわけでもなく、どことなく寂れて見えた。

 境内に入り、お堂の側面へ回っていく。

「何かご用ですか?」

 そこにいた小僧に声をかけられた。ちょうどいい。昨夜に死んだ侍が見たい、と言うと、小僧は不思議そうな顔で、

「こちらへ」

 と、答えると同時に歩き出した。

 読経の声が聞こえ始め、伽藍に上がり込むと、読経の声の主が見えた。

 そっと腰を下ろし、黙ってお経が終わるのを待った。

「何か用かな、お客人」

 背中を向けていた僧侶がこちらを振り向く。

「遺体を見たい、と思いまして」

「なぜ?」

 なぜ、と言われても、どう答えればいいだろう。

「その方を切ったものが、どういう剣術を使うか、気になるのです」

「遺骸を見て、何がわかる?」

「いえ、それは見ないことには、わかりません」

 はあっとため息をつき、僧侶が俺を祭壇の方へ導いてくれた。

 僧侶が経を唱えていたその目の前に、若い男の遺体が寝かされていた。着物は整えられている。その着物を、苦労して僧侶がわずかに広げた。

「これでよろしいかな?」

 着物の下、右肩から腹の中央まで、切り傷がある。今は縫い合わせられている。かすかに腐臭が漂う。

 じっとそれを眺め、俺は思案していた。

 最初こそ、切り傷に見えたが、剣で切ったとは思えない。そういう傷跡には見えないのだ。

 でも、何で切ったんだ?

「よろしいか?」

「ええ」俺は一歩、下がってから頭を下げた。

「ありがとうございます」

「酷いことです。侍とは、命を命とも思わぬ、愚か者です」

 死体の着物を直しつつ、僧侶が嘆く。

「太平の世になったはずが、なぜこのようなことをするのか」

 答えずにいると、僧侶がこちらを振り返り、

「遺体を見せた見返りを求めてもいいかな?」

 と、力ない笑みを見せた。

「できることなら、させていただきます」

「墓穴を掘ってくだされ。そこにいる小僧だけでは、日が暮れてしまう」

 どうやら小僧は俺を案内した少年しかいないらしい。

 結局、日がだいぶ傾くまで時間をかけて、俺たちは墓穴を掘った。

 例の男の死体をそこに入れて、穴を埋めた。掘るのにだいぶ苦労したのに、埋めるのはあっという間で、これも無常という奴か。

 木の杭が打たれ、また読経。しかし短くて、すぐに終わる。

 僧侶と小僧に礼を言われて、俺はそっと寺を離れた。

 ハバのところへ行くはずが、すっかり遅くなってしまったが、一言、声をかけるべきだろう。赤羽屋に泊まっていることさえ、話していないのだ。

 夕暮れの中で、長屋へ行った。

「もし、スマですが」

 返事はないが、人の気配はする。

「失礼」

 そっと戸を開けた。

 こちらに背を向けて、ハバは文机に向かっていた。筆を持って、それに集中している。

 彼が肩から力を抜くまで、俺はじっとしていた。

 その時が来て、声をかける前に、ハバが振り向いた。

「気を使わせてしまいましたね」

 俺はそっと上がり、彼がたった今まで書いていた書を眺めた。

 達筆どころではなく、書家の筆と聞いても、頷けそうだ。

「午後はどちらへ?」

 わずかに首を捻りつつ、ハバが訊ねてくる。

「少し、宿場の様子を見て、茶屋の娘に引き止められまして」

 まるっきりの嘘だったが、ハバはあまり詮索するつもりもないようで、そうですか、という返事だった。

「俺は赤羽屋という旅籠に部屋を取っています」

「それを私に伝える理由とは? この宿場に見るべきものがありましたか?」

「ええ、まあ、一つだけ」

 真剣な顔で、ハバが俺を見据えた。俺も堂々と視線を返し、宣言した。

「あなたの剣術に、興味がある」

「まさか、あなたが武術師範の座を狙うわけですか?」

「そんなことはどうでもいいのです。あなたの剣に、俺は興味を持った」

 愚かしいことだ、とハバが囁くように呟いた。

 俺は思わず笑っていた。

「愚かでも構いません。俺は剣士なんですよ」

「死ぬことが怖くないのですか?」

「そうらしい。それもまた、剣士です」

 諦めたように、ハバは俺から顔を背けた。

「新月の夜に、剣を合わせる。それでよろしいかな」

「それは譲れないのですね?」

「そうです」

「良いでしょう。月が巡るまで、ここで子供に字を教えますよ。いけませんか?」

 こちらを振り向いたハバが、不思議なお方だ、と力なく笑った。


     ◆


 一ヶ月はあっという間に過ぎ去った。

 その日も長屋の一室で午前中は子供達に字を教えた。ハバも普段通りで、これから俺たちが決闘をするとは、誰も気づかなかっただろう。

 昼食を二人で食べ、別れる。次に会う時は、剣を向け合う時だ。

 俺は赤羽屋の部屋に戻り、研ぎに出した刀の状態を確認した。

 綺麗に研ぎ上がっている。

 ハバの剣術については、やはりまだわからない。しかし、策はある。

 小手先の詐術が、わずかには意味があるはずだ。

 俺は夕暮れの時間帯に旅籠を出て、通りを進んだ。提灯は持っていない。これが策とも言えない、策なのだ。

 宿場からやや外れ、街道から脇道へ。そこに指定された、元は畑だったらしい空き地がある。

 目印になる木の根元に腰を下ろし、目を閉じた。

 こういう時、師匠に教わった精神を研ぎ澄ませる瞑想は、格好の時間潰しになる。

 瞑想を時間潰しなどと考えるから、俺は放り出されるわけだが。

 目を閉じ、じっと動きを止める。呼吸を整え、雑念を追い払う。

 どこかで人の足音がする。

「お待たせしました」

 ハバの声だ。俺は瞼を上げず、まだ姿勢さえも変えず、少しだけ呼吸を変えた。

「もう始めますか?」

 こちらから訊ねると、

「早く終わらせましょう」

 と、ハバの返事があった。

 俺は目を閉じたまま立ち上がり、集中した。

 相手が息を吹いた音は、提灯の火を消した音か。

 目を開いた。

 いつの間にか、闇が周囲を黒く染め上げていた。

 夜の闇の中に、ハバが見える。両足をわずかに開き、腰の左にある鞘に手を添え、右手は今にも柄に触れそうだ。

 俺はゆっくりと刀を抜いた。

 わずかも光が反射されないほどの、深い闇の中で、向かい合う。

 一瞬だった。

 ハバが地を蹴り、こちらに肉薄する。同時に居合が来る。

 俺の刀がそれを受けるように動いたのは、無意識の動き。

 手応えが、ない。

 真の闇の中で、ハバの刀が光を放った気がした。

 切っ先が俺の胸元を薙ぎ払う。浅い。

 転げるように下がる俺に、ハバの二の太刀。

 受けようとするが、瞬間の判断で回避を選ぶ。

 見えた。

 頭上からの、唐竹割りの一撃。

 胸元を今度はまっすぐに切り下ろされる。

 きわどい一瞬。

 まるで伸びるように、ハバの剣が胸に吸い込まれる。

 だが、やはり、浅い。

 一瞬でハバが刀を鞘へ戻し、俺も刀を構え直す。

「なぜ、見えたのですか?」

 ハバの声は強張っている。俺はやや呼吸を乱していたから、会話の時間はありがたい。

「目を、闇に慣らした」

「そうか、なるほど、そんな工夫が」

 俺はジリッと間合いを詰めた。

 ハバの剣術、というよりその剣はもう、俺にはよくわかった。

 斬れる。

 だから、ハバが身を引くことを俺は願った。

 この男を切るのは、惜しい。余計なことかもしれないが、子供たちの顔が浮かぶ。

 しかし結局、ハバは身を引かなかった。

 居合の構えで、再びこちらへ飛び込んでくる。

 高速の一撃。

 俺は今度こそ、ピタリとその一撃を受けることができた。

 刀同士がぶつかり、甲高い音と、火花、そして何かが宙に飛んだ。

 さらに踏み込み、ハバが頭上から一撃。

 しかしそれを振り下ろす前に、俺の一撃が、彼の左腕を切り飛ばし、同時に間合いを詰めて、柄頭の一撃で腓腹を打ち据えている。

 短い呻き声の後、よろめいたハバが、倒れこんだ。

 勝った。

 殺さずに、勝てた。

 俺は刀を鞘に戻し、ハバの手からこぼれた彼の刀を手に取った。

 刀身は半ばから折れているが、刀身と呼べるような代物ではない。

 極端に細い刀で、刀というよりは太い針のようでもある。

 しかもそれがかなり、しなるようになっている。

 そのしなりが、受けの瞬間を微妙にずらし、受けたはずが受けられず、まずれこちらの刀をすり抜けるようになる。

 前にハバが切った遺体の、その傷口を見たときの不自然さもここから来るのだ。

 剣というより鞭なのだった。

 ハバが新月の夜を選ぶ理由も、はっきりした。

 日の光のもとでは、この鞭のような刀は、すぐに相手に悟られるし、見られてしまえば受けられる。

 細いが故に、刀と衝突すると、折れてしまう。

 俺はハバの腰の鞘を引っこ抜き、折れた刀をそこに戻した。

 彼の左腕の断面を手早く止血し、体を抱え上げる。

 そのまま宿場に戻り、医者を訪ねた。高齢の医者は眠っているところを起こされたからか、うんざりした顔で出てきたが、しかし傷の重さを見ると血相を変えて、仕事に取りかかった。

「あんたの傷はいいのか?」

 明かりを前にして、やっと俺は自分の体に注意が向いた。痛みも何も感じなかったのだ。

 着物が十字に切り裂かれ、血に染まっている。ちらりと傷口を見るが、皮膚が切れている程度だ。

「後でいい。それほどでもないから」

「これで傷口を押さえておけ」

 布を突き出されて、俺はそれで強く胸を押さえた。

 みるみる布が、赤く染まった。


     ◆


 赤羽屋を引き払うとき、ちょっと多めに銭を払うと、「またこちらへ来たときは、是非」と店主が言ってくれた。こういうことが、地味に嬉しいものだ。

 一ヶ月半ほど滞在した宿場を出る前に、長屋へ顔を出した。

 すでに塾は再開していて、ハバも筆をとっている。

 彼の左腕がなくなったことを、子供達はもう気にもしていない。

 昼過ぎになって子供達が帰ってから、ここのところハバの身の回りの世話をするために雇った娘がやってくる。

 彼女が料理をする背中を眺めつつ、俺は別れを告げた。

「仕官することもできるはずですが、旅を続けるのですか?」

「それが俺には合っています」

 そうですか、と穏やかにハバが笑った。彼は左腕を失うのと同時に、どこか憑き物が落ちたように、柔らかい雰囲気を滲ませるようになった。

「興味本位での質問をよろしいですか?」

 俺の問いかけに、ハバが頷く。

「ええ、なんでも」

「お殿様の前で、あの剣術を見せたのですか?」

「まさか」

 ハバが小さく笑った。

「もう十五年も前のことです。あの頃の私は、正当な剣術を使いました」

「ではなぜ、あの鞭を?」

「鞭が前提ではないのです。前提は、闇です」

 闇?

「お殿様は、私に勝ったものを武術師範とする、と確かにおっしゃいました。ですが、私は、人が見ている前で人を切りたくなかった。だから夜に、誰もいないところで、人を切ると決めました。その中で、闇を利用した武器、という形で、鞭を選んだのです」

「闇討ちと言われそうですが?」

「そういう見方もできますね」

 とにかく、とハバが微笑む。

「私は衰え、正しい剣術、正しい戦い方では、相手を倒せなくなった。その衰えが自然なものだったのか、それとも鞭などというものを使ったがための衰えだったのかは、わかりませんが」

 ご飯ですよ、と娘が声をかけ、小さな膳を運んできた。

「俺はこれで、失礼します」

「そうですか、またいつか、お会いしたい」

 俺が立ち上がると、ハバも立ち上がり、見送ってくれた。

「左腕だけで済ませてくれたことには、感謝しかありません」

「命がけでしたよ」

 俺が本音を口にすると、ハバが苦味を含んだ笑みを口元に浮かべる。

「命をかけるなど、馬鹿げたことでしたね、それが今は前より、はっきりとわかる」

「馬鹿げていてもそれを続ける、そんな俺は本当に愚かなのでしょう」

 ハバが頷く。

「しかし誰も通らなかった道を選ぶ人間は、ほとんどの人間からは愚か者に見えるでしょう。闇に好んで分け入るものは、珍しい」

「褒めてもらえている、応援されている、と受け取っておきます」

「そうしてください」

 俺は頭を下げ、長屋を離れた。

 宿場を出て、例の空き地が意外に近くに見えたので、脇道にそれ、そこに立ってみた。

 あの夜、精神を研ぎ澄ますために俺が腰掛けた木は、思っていたよりも小さかった。

 何気なく空き地を歩いていて、それを見つけた。

 太い針のような金属の棒。

 ハバの刀の折れた先だと、すぐわかった。

 手に取ってみると、思ったよりも硬い。折れているせいで、実際のしなりは再現できないが、果たして、完全な状態でどれほど、しなったのか。

 もしかしたら、ハバの剣術は詐術ではなく、歴とした、技だったのかもしれない。

 しかしもうそれを確認することはもうできない。

 消えてしまった剣技、消してしまった剣技。

 金属の棒を投げ捨てて、俺はその場を離れた。

 一ヶ月半の滞在で、だいぶ気候も変わってしまった。

 季節の風の中を、俺はゆっくりと歩を進めて行った。



(了)

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