貝島優
「花見にでも行くか」
大学二年生を目前にした春、同じ楽器の先輩にそう言われた。
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車の外を、まだ寒さを残した景色が通り過ぎていく。
乾いた土をさらす畑、空高く舞う鳥の影。
それらを眺めた後に――
高校のときに同じ部活にいた、ひとつ上の先輩である。
大学まではさすがに一緒ではないが、先日後輩がOBOGバンドを設立したため、再び会う機会が多くなった。
今日もその集まりがあって、学校で練習してきたばかりである。窓から見える山に、ちらほらと桜が咲いているのが見えたので、じゃあ行ってみようか――という流れになったのだ。
自分の身体を助手席に収めている、シートベルトを優は意識した。
先ほどから心臓が早鐘を打っているが、これのおかげでなんとか平静を保てているといっても過言ではない。
なんにせよ、身体を抑えているおかげでもう降りますとパニックになって言い出すこともなく、恥ずかしくて頭をかきむしることもなかった。
その点には感謝しつつ、優は先輩にボソリと言う。
「……まさか先輩の車に乗せてもらえるとは、夢にも思いませんでした」
「オレもなんかまだ、実感ねえっていうか変な感じだな。誰かを乗せて運転するっていうのは」
つい先日車を買ったばかりだという先輩は、少しぎごちなくハンドルを操作しながら返事をしてくる。
この辺りは田舎なので、車がなければ生活はできない。なので社会人になる前に、慣れておこうと購入したらしい。
打楽器が積めるものを、ということで、それなりに積載量のある車にしたそうだ。確かに音楽をやっている人間にとって、楽器が乗るか乗らないかは非常に重要な項目である。
その点についてはよく配慮したと、褒めてやらんでもない。もっとも買ったのはこの人の親で、本人はその負債をこれから必死こいて返していくらしいが。
初心者ドライバーではあるものの、聡司の運転は荒くはなかった。
隣に人を乗せているということもあるだろう。ゆっくりと、ルールに従って一時停止をしつつ車は進んでいく。
「山の上に駐車場があるから、そこまで行こうか。売店でなんか買って、のんびり食いながら花見して帰ろうぜ」
「……そうですね」
ああ、そういえばもうそろそろ春だなあ――と、ぼんやりと音楽室の外を見ていたら、後ろから声をかけられたのだ。
「花見にでも行くか」――現役の頃と変わらず、飾らない調子で言われたことが、素直にうなずいてしまうくらい嬉しかった。
後になってからしまったと思ったけれども、軽々しくついてきたことを後悔しないくらいには気持ちも明るい。
空気は寒いけれども、日差しは温かい。
そんな三月独特の不思議な陽気にあおられて、心の置き場が分からなくなっていた。
気を抜くと、何か変なことまで口走ってしまいそうな――そんなふわふわした気分を座席に押し付けつつ、優は言う。
「……先輩も大人になったんですねえ」
「しみじみと言うな⁉ まあ、高校生のときは眺めてるだけだったところに車で行くっていうのは、なんか不思議な感じだけどな」
行動範囲が広がった、っつうか――と、これまで行けなかった領域に向けて、聡司はアクセルを踏み込む。
存在することは知っていたし、どんなところかも聞いてはいたけれども。
実際に足を運ぶのは初めての場所。そこに、二人で向かう。
そうなったのはこの人の気まぐれだろうけど、音楽室にいるだけだった頃とは、明らかに違ってきているのは確かだった。
そりゃあ、こちらも大学二年生になるのだ。
向こうだって三年生になるのだし、車だって買うだろう。
少しずつ、環境は変わってきている――そのことを自覚しつつ、先輩に言う。
「……お酒とか飲んだらダメですよ。飲酒運転は厳禁です」
「しねえよ。そんなしょーもないことで免許取り上げられてたまるか。花見とはいっても――」
と、そこで聡司は、何かに気づいたように後輩の方を向いた。
赤信号で止まったからか、先輩は戦慄した様子でまじまじと、優の顔を見つめる。
まさか、こちらの内心に気づいたわけではあるまい。
けれども、どうしてそんな顔をするのか――「な、なんですか?」と焦る優に、聡司は言う。
「貝島……おまえ、酒が飲める年になるんだな……」
「恐ろしいものを見るような目で見ないでください! なんかショックです!」
そりゃあ確かにもうすぐ二十歳だというのに、ちんちくりんのままで、未だに小学生にみられることだってあるのだけれども。
だからって、そんな顔をすることないではないか。ずっとちびっこ扱いというのは、なかなか本人にとって屈辱である。
特に、この先輩に対しては。
いつまでも小さい子扱いというのは、どうにも我慢ならないのだ――そう思って優はむくれるのだが、外見がアレなので子どもっぽく、あまり説得力というか、威厳はない。
すると、つーんと拗ねる後輩に聡司は言った。
「いやー、おまえが酒飲める年になるなんて、時の流れって怖えなー。年取ったのを実感するわ」
「何じじむさいこと言ってるんですか……。先輩だって、まだ三年生でしょう」
「確かにそうなんだけど、後輩がそういう節目を迎えるんだってことの方が、自分のことよりリアルに感じられてさ。より実感が湧くというか……って、お」
苦笑する先輩が、車を減速させる。
そこでは、それこそ飲酒運転の取り締まりだろうか。パトカーが止まって、こちらに手を振っていた。
山の出入口に陣取って、やってくる運転者に声をかけている――らしい。
にしては、前の車はすんなり通してもらったように見えるのだが――首を傾げて優が、やってくる制服姿の警察官を見ていると。
その警察官は、窓を開けた先輩に、にこやかに言った。
「チャイルドシートは?」
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「ひどくないですか⁉ ひどくないですか⁉ さすがにその年齢に間違われたのは初めてなんですけど!」
「まー、正面から見るとおまえ、フロントガラスから鼻の上しか出てなかったみたいだからなー。遠目には分かんなかっただろうさ」
学生証を見て平謝りする警察官に言って、道を開けてもらい。
山の道路を走る車の中で、優は叫んでいた。
それを聡司は、生暖かい目でなだめる。なんのことはない。高校生のときから
まあ今回は、にしても程度がひどかったのだが。車という乗り物に加え、運転席にいる長身の聡司と比較されたのもあったろう。
元々小柄な優ではあるが、大きいものと比べるとさらに小さく見える。
そういえば、昔は高いところにある小物類を取ってやったりもしたなあ――と、聡司が、高校生の頃を思い出していると。
道が開け、駐車場が見えた。
まだ桜は咲き始めなので、それほど花見客はいない。
ぽつぽつと止まっている車の合間を縫って、聡司は車を止める。わりと慎重に。ゆっくりと。
完全に停車したのを待って、優はシートベルトを外した。
「そんなにふてくされるなって貝島。甘酒でも飲むか?」
「それってソフトドリンクではないですか! 馬鹿にしているのですか⁉」
フォローしているつもりがなってない先輩に向けて、優は叫び返す。そこに立っているのぼりには『甘酒』と、いかにも花見らしい飲み物の文字があるが、今はそれどころではない。
心の中は怒りと悲しみでいっぱいである。まあ、後になって「は……っ⁉ 花見に甘酒というのは、いい感じに大人のチョイスでは……⁉」と彼女は思うのだが、それはもう少し先の話だ。
現時点の優は、先輩が指差したものを手に取る気もない。なので彼女は、ずんずんと展望台に歩いていき――
「お……」
眼下に広がる、先ほどまでいた街の景色と出くわした。
いつの間にか高所まで上がっていたことが、ここまで来ると分かる。手すりの向こう側では、見知った土地が別の角度からの姿をさらしていた。
「あれが学校、ですね……」
つい数十分前までいた校舎も、ここからは小さく見える。
不思議だ――と、その光景を見て優は思った。高校生のときはそこが全てだった学校も、ここに来ると本当に景色のただの一部なのだ。
「なんか
「何をやってるんですかあの子たちは……。どうやったらここに来るまでに迷うのですか?」
後ろから言ってきた先輩に、呆れ顔でそう応じる。
優のひとつ下、聡司のふたつ下のあの元部長は、いつまでも放っておけない可愛い後輩である。
OBOGバンドというとんでもないものを作ったとはいえ、その目線は変わらない。
まあ、そんな彼もこの春であの学校を卒業したわけだが――と、後輩の顔を思い出して、優はひと息ついた。
なるほど。確かに自分より下の世代が節目を迎えると、感慨深い気持ちになる。
自分がそうなったときより、かえって時の流れを実感する――同じく隣で手すりの向こう側を見る、先輩に視線をやり。
彼女は言った。
「……そうなんですよね。あの子たちも、もう卒業ですか」
「ああ、早いもんだ」
オレが三年生のときの一年だから、もう直接知ってる現役生はいないんだな――と聡司は、遠い目でつぶやいた。
本来なら、このまま学校を離れていくものかもしれないが、自分たちはそうではない。
OBOGバンド――散ったメンバーたちをもう一度集められる、花の舞台がそこにはできた。
ぐるぐると季節が廻っても、時の流れを感じても。
あそこに行けば、また変わらぬ面子と、一緒に演奏ができるのだ――そう思って、優はそっと、先輩の袖を握る。
「……先輩」
「んー?」
「……また一緒に、合奏しましょうね」
約束ですよ――と。
それだけ言うのが、精一杯だった。
それ以上のことなど口にできるはずもない。この間、同い年のバスクラリネット吹きにはがんばれ、と言われたけれど、今は無理だ。
本当に無理だ。
今だって、自分は何をやっているんだろうと恥ずかしさで震えているくらいだし――などと、優が内心でのたうち回りつつ考えていると。
聡司が言う。
「そうだな。また一緒にやろうか」
「――~~っ」
屈託のない先輩の返事に、もぞもぞと震える。
そして、やっとの思いでうなずく。やばい。照れる。嬉しい。
たった一言でこの有り様なのだから、全部を伝えられるまであと何千年かかるか分からない。
けれども、今はこれでよかったのだ――同じく嬉しそうに笑う先輩の顔を見ていると、そう思えた。
「さて。じゃあ当初の予定どおり、適当になんか買って花見でもするか」
「そうですね……」
名残惜しいが、その表情を見ているのもここまでだ。
手を離し、回れ右をして食べ物や飲み物を売っている辺りへ向かう。
この山では卵焼きが確か名物だと聞いたが、今日もあるだろうか。あとは飲み物か。何にしよう――などと。
辺りを見回していると、優の視界の斜め上に、淡いピンク色が入ってきた。
「あ……」
ふと見上げれば、末端に桜を咲かせた枝が、こちらに伸びてきている。
長い冬を越え、ようやく開いた花たち。
ぽつぽつとではあるが、久しぶりに間近で見た花弁に、優は無意識に手を伸ばした。
触りたい。
桜の花には特に、そんな気持ちを湧き立たせる何かがある。
だがその手は、虚しく空を切り――そこに。
「なんだ、触ってみたいのか?」
先輩がやってきて。
そのまま、こちらを肩車した。
「え、ちょ……⁉」
「あーこら、あんま暴れるな。落ちるぞ」
「だ、だって、重くはないのですか……⁉」
いくら小学生に間違われるとはいっても、それなりに背丈はある。
それに、中身だってもう少しで大人なのだ――きっと。いい年をして肩車など、恥ずかしいったらない。
けれども、先輩はさも当然のように――その動じなさが女性として見られていないようで
そのあまりに自然な行動と態度に、さすがの優も折れた。
スカートではないし、別に傍目には問題ない。周りの人だって、仲の良い兄妹くらいに思っているに違いない――たぶん。
そう自分を無理やり納得させ、ちょうど目線の高さに来た花びらに手を伸ばす。
ただ、その小さな花に、少しだけ触れられればいい――久しぶりに見た、柔らかい色に。
「――」
その花弁に触れたとき。
心の中に温かいものが流れてきた気がした。
桜の花には不思議な効果があると思う。
他のどんな花よりも、春が来たと告げる穏やかな力がある――そして、その拍子にふと。
昔、この先輩に楽器庫の、高いところにあった備品を取ってもらったのを思い出した。
棒の先に丸い玉の付いた、紐でまとめられた数本のマレット。
まるで、花束のような。
それを渡してもらったとき、自分の心の中で何かが目覚めたのだ。
「ねえ、先輩」
「んー?」
あのときは、一方的に欲しいものを受け取るだけだった。
けれども今は、二人で一緒に。
手を取って、高さを重ねて、できることがある――
「今度また、二人で一緒に桜を見に行きましょうね」
月日は流れ、少しだけ自分たちの周りは変わったから。
こちらだって、変われることがあるはずなのだ。
珍しく、自分の目線より下にいる先輩に向けて――花のつぼみが開くように、優は柔らかく微笑んだ。
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