第441話 うつむく花に

 二つ上のOGは、湊鍵太郎みなとけんたろうの覚えている姿とだいぶ違っていた。

 ストレートの長い髪、短めのホットパンツ。そういった外見的な特徴は変わっていない。

 だからこそ、彼女が彼女であると分かったのだが――表情が。

 そして、身にまとう雰囲気が、豊浦奏恵とようらかなえの印象を、百八十度変えていた。


「豊浦先輩……!」


 目のくまは濃く、こけた頬は青白い。

 月明りの下、彼女の姿は幽鬼のようで――生気にあふれていた頃しか知らなかった鍵太郎は、あまりの落差にゾッとした。

 連絡を寄こさないことから、何かあったのは知っていたけれども。

 それでも、かつて尊敬していた人がこんな姿になって現れるというのは、衝撃的なものなのだ――あまりのショックにどこか他人事のように、そう考えていると。

 奏恵はこちらを見て、薄く微笑んだ。


「ああ……湊くんに光莉ひかりちゃんだあ」


 煙草の匂いと共に届くセリフに、鍵太郎の後ろにいた千渡光莉せんどひかりが息を呑むのが聞こえる。

 光莉にとって、奏恵は同じ楽器の先輩だ。一年生のときの三年生。それだけに、OGの様子に受けるショックは大きい。

 彼女は口元を押さえ、言葉もなく震えていた。

 そんな光莉に、鍵太郎は急いで指示を出す。


「千渡、滝田たきた先輩たち呼んできてくれ」

「で、でも……」

「早く!」


 うろたえる同い年に、強く言い放つ。

 ここで二人で突っ立っていても、奏恵はどうにもできないのだ。この場は自分たちにはどうにもならない。

 そう判断して、とにかく動き出さねばとあえて鋭い声を出す。

 その甲斐あってか、光莉は一度ビクリと震えながらもうなずいて、体育館に向かって走り出した。あそこには、ずっと連絡を寄こさなかった奏恵を、心配していた人たちが集まっているのだ。

 必ず力になってくれる。それだけは確信して、鍵太郎は座り込む奏恵に近づいた。

 何があったのかは分からないが、今の彼女はとても弱っているように見える。

 なら、保護が優先だ。何が出てくるのか分からなくて、怖いけれども――副部長の動揺する様子は、こちらが部長としてしっかりしなければならないということを思い出させてくれた。

 放ってはおけない。

 その一念で、鍵太郎は力なく笑うOGに話しかける。


「どうしたんですか先輩、大丈夫ですか」

「んー……。ちょっと、ヤバいかなあ……」


 こちらの呼びかけにゆらゆらと答え、奏恵は手に持った煙草を口にし、吐き出す。

 慣れない煙に鍵太郎は思わず、咳き込んだ。「なんで、煙草なんて……」と楽器吹きとして思わず口にするが、それに対して先輩は乾いた笑いを浮かべる。


「なんでって、そりゃああたしだって二十歳ハタチになったんだ……煙草くらい吸うよ」

「そうかもしれませんけど……楽器を吹くのに支障が出るんじゃないですか。先輩は、楽器を吹くために来たんじゃないですか」


 煙と演奏についての関係はよく分からないが、少なくともこの状態が、奏恵にとって良くないということはよく分かる。

 か細い手足は、トランペットという強い楽器を吹くのに耐えられるか。

 けれどもここに来たということは、リハーサルの場に来たということは――少なくともこの先輩は、再び演奏することを望んでいるはずなのだ。

 同い年の呼びかけに応えられないほど、弱っていたとしても。

 ここに来るまでに何があったかは知らないけれども――その意思だけは、真実だった。


「そうだ、楽器……先輩、楽器は吹いてたんですか? 去年の学校祭のときは、またどこかで吹きたいって言ってましたけど」

「んん……色々あってさ。結局吹いてない」


 その答えは予想していた。

 ここまで憔悴しょうすいしている時点で、分かり切っていたことではあった。

 生きられないわけではないけれど、楽器がなければ心が死んでいく――そんな先輩であったからこそ、自分たちは彼女を待ち続けていたのだから。


「気分が……よくなくてさ。けど、がんばりたいなって思って。吹けそうなとこ、探したの。でも、そのとき言われたんだ」

「何を……」

「『いつまでそんなことやってるの?』って」

「……っ」


 その言葉は、引退を目前にした鍵太郎にも刺さるものではあった。

 いつまでそんなことやってるのかって――こんな夢みたいなこといつまでも続けてるんじゃないよ、って。

 自分もどこかで、思い続けていたから。

 でも、終わりが見えているけど、もっともっとあがけば引き延ばせるのではないか。そんな、夢物語のようなことも考えていて。

 けれど、先に奏恵の方がギロチンを下ろされたのだ。結果、彼女はこうして屍のようになっていて――

 手に持った煙草を地面に押し付け、潰し、また新しい火を点けて。

 そこから上る煙をくゆらせ、先輩は言う。


「なんかね。すごく疲れちゃったんだ。大事な部分が全然動かなくなっちゃって……どうしようもなくて。だから、今回みんなで演奏しようって連絡が来たときは、嬉しくて」


 でも不安で――と、それが体育館に入って来られなかった理由なのだろう。

 奏恵は学校の片隅で、膝を抱えて座っていた。

 見知った顔たちの、キラキラした音を聞きながら。

 あの中に、入れるのだろうかと――こんな自分が、ここにいていいのだろうかと。

 怖がりながら、求めているから去れずにいた。


「演奏が送られてきたときも、ここでリハーサルを聞いてたのも……嬉しくて。みんなとまた演奏できたらいいなって、ずっと思ってた。声かけてくれて、湊くん、ありがと。ありがとね……」

「そんなこと言わないでください! 先輩も一緒にやるんでしょ!」


 感情が高ぶってきたのか、涙ぐんで支離滅裂になってきた奏恵に、鍵太郎は呼びかける。

 見つけられてよかった。このまま放っておいたら、この人はどこか遠くへ行ってしまいそうだったから。

 二度と、会えないような気がしたから――けれども、うかつにどこにも動かせないまま。

 鍵太郎が涙を流す奏恵に、必死で寄り添っていると。



「やっと来てくれましたね、かなちゃん」



 彼女と同い年の。

 そして自分と同じ楽器の先輩の、優しい声がした。


「心配してました。でももう、大丈夫ですよ」

春日かすが先輩!」


 振り向けば、体育館から出てきたのだろう。春日美里かすがみさとと彼女の代のOBOGがいる。

 光莉が呼んできてくれたのだ。目くばせしてくる打楽器の男の先輩にうなずいて、鍵太郎はその場を美里に譲った。

 同い年であり、友達でもあった奏恵と美里なら、話も通じやすい。

 ただ、今はやはり彼女を落ち着けるしかないようで――ゆっくりと奏恵の背中を撫でつつ、美里は言う。


「湊くん。かなちゃんのこと、わたしたちに任せてもらえませんか」

「え、でも……」

「平気です。重い話し合いができない仲ではないですし――それに、こんなになるまで気づかなかったわたしたちの責任もありますし」


 そう言う彼女は、かつて一緒に吹いていたというフルートの同い年のことを、思い出していたのかもしれない。

 自分は知らないけれど、途中で辞めていなくなってしまったという、この場にも呼べなかった人。

 悲しげに目を伏せた美里は、自嘲気味に笑う。


「わたしたちは、一度大変な過ちを犯しましたが」


 その先輩との間にあった事情を、鍵太郎は知らない。

 けれども顔を上げた先輩が、いつものような――いや、それ以上に強い光を持った眼差しを向けてきたので、その出来事が彼女にとって大きな転機であったことは分かる。


「だからこそわたしたちは、もう誰も置いていったりはしないのです。二度と、ね」

「……分かりました。豊浦先輩については、先輩方にお任せします」

「ありがとうございます」


 にこり、と笑う先輩は頼もしいというか安心できるというか、そう感じさせるだけのものがあった。

 信頼に足ることは、鍵太郎自身の経験からも明らかである。こと癒すことにかけては美里の右に出る者はいない。たとえどんな傷であれ、今以上に悪くならないことは目に見えている。

 ただ――


「……先輩、大丈夫かしら」

「……平気だろ。けど問題は、この後のことだ」


 美里たちを呼んできた、光莉が心配そうに言ってくる。

 そう、奏恵をつなぎ止められたまではいいが、この先彼女をどうするか、それが決められていない。

 先日、バスクラリネットの先輩に『救っておいで』と言われたものの、奏恵を本当に復活させる方法は未だに思い浮かばなかった。


「どうする……?」


 夜も更け、暗がりからのぞく月を見ながら考える。

 どうするのが一番いい結末なのかと。

 何が全員にとっての、最高のハッピーエンドなのかと――。



 《学校祭一日目終了~二日目に続く》

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る