第440話 あの人はいま

「そういえば他の先輩たちって、明日聞きに来たりするんですか?」


 明日の本番のためのリハーサルが終わって、湊鍵太郎みなとけんたろうはOGの先輩にそう訊いた。

 学校祭二日目のラストには、これまでの卒業生を交えた演奏がある。

 これに参加するOBOGが、今集まっているわけだが――別に吹く方に加わらない者も、聞きにきてもらって構わないのだ。


「例えば、海道かいどう先輩とか。日程の都合で不参加ってことでしたけど、学校には来るんでしょうか」


 残念ながら練習に来られなかった先輩とだって、顔を合わせたい。

 そう考えて鍵太郎が入部した当初、一番初めに教わったホルン先輩の名前を挙げると――

 その人と同い年、二つ上の先輩である春日美里かすがみさとは、あっさりと答えてくる。


「ああ、ゆきちゃんは来られないんですよ」

「そうですか……」

「なにせ海外にいるものですから」

「海外ッ⁉」


 予想以上にぶっ飛んでいた先輩の回答に、叫ぶ。

 確かに当時から優秀な人材であることは分かっていたが、まさか国外に出ているとは。

 留学か何かだろうか。鍵太郎があんぐりと口を開けていると、美里はひとつうなずいて言う。


「将来のためにコネクションを作ったり、見分を広めたりとか、なんとかと言っていました。就職も向こうでする気みたいです。インターナショナルですね!」

「そ、それはまあ……すごすぎて言葉もないですけど。とにかくがんばってください、ですね……」

「でも、すごく悔しがってました。そんな舞台があるなら参加したかった、みんなの顔を見たかった、って」

「そうですか……」


 けれども、そんな優秀な人物でも彼女は、こちらを気にかけてくれていたのだ。

 それが分かって、鍵太郎はほっとひと息ついた。もしかしたら取るに足りないと見捨てられたのかとも考えてしまったけど、海道由貴かいどうゆきに限って、全然そんなことはなかったのだ。

 あの人は今も、誇り高きホルンの才媛としてどこかで活躍し続けている。

 少し寂しいけれど、ならばいいやと思えた。

 間近であの象の遠吠えを聞きたかったが、代わりに自分と同い年のホルン吹きががんばってくれるだろう。

 鍵太郎がそう考えて納得しようとすると、ふいに美里がポンと手を打つ。


「あ、そういうわけでゆきちゃんから預かってきたものがあるんです。忘れずに湊くんに渡しておきませんと」

「預かってきたもの?」


 あの先輩が自分に、ということか。

 全く想像がつかないが、なんだろうか。首を傾げると美里は「はい。預かってきたというか、託されたというか」と言って、鞄の中から小さな箱を取り出した。

 それは。

 一年生の最初の頃、部活が終わった後。

 鍵太郎がかのOGにもらった――楽器と同じ名前の、チョコレート菓子だった。


「……」

「ゆきちゃんに言われて、買ってきました。湊くんに渡せば分かるって言ってましたけど……なんなんでしょうかね?」

「……なんでも、ないですよ」


 それは、目の前のきょとんとする先輩に教わり始める、さらに前の出来事。

 全然音が出なくて楽器を移るように言われたとき、遠い海の向こうにいる先輩に励まされた言葉。

ホルンを、忘れないでね」――ここにいない彼女からそう言われたような気がして、鍵太郎は泣きそうになりながら笑う。


「俺と海道先輩だけの、秘密の話です。でも、なんていうか――昔、あの人にはがんばって上手くなれって言われて。これは、激励なんだと思います」


 懐かしい赤い箱を、そっと抱える。

 鮮やかな手際に、かつて聞いた彼女の音が、もう一度よみがえった。

 キミはまだ、がんばっていますか――と。

 さすが海道由貴だ。いいところでえてくる。

 変わらず不思議そうな顔で美里が見てくるが、こればっかりは彼女も立ち入れない部分だ。

 共有できる相手がいるとしたら――それこそ、ホルンの同い年くらいだろう。

 後で彼女と、このお菓子を一緒に食べよう。そう思って箱をしまうと、美里が言う。


「ゆきちゃんから頼まれてたのは以上ですね。あとわたしが聞いている限りでは、もっと上の代の先輩も顔を出してくれるそうです。神鳥谷ひととのや先輩とか、網戸あじと先輩とか……あ、湊くんはかぶってないんでしたっけ。明日紹介しますね」

「演奏に参加できないOBOGの人も、結構聞きに来てくれるってことですね。嬉しいなあ……!」


 何かの都合があってステージには乗れない人たちも、それぞれ差し入れをしてくれたり、会場に足を運んだりしてくれる。

 それはとても、幸せなことだと思った。色々あったけれど、こうして舞台を通して集まって、つながっているのだ。

 最後の本番が、こういう形になってよかった。

 そう思っていると、美里もまた、嬉しそうに笑う。


「はい! 明日が楽しみですね、湊くん!」



 ###



 すっかり暗くなった体育館の外を、鍵太郎と千渡光莉せんどひかりは二人で歩く。


「あっという間にリハーサル、終わっちゃったわね……」

「意外といい時間になっちゃったな」


 体育館のカギを取りに職員室に行っているわけだが、予定していたよりも遅くなってしまった。

 久しぶりにOBOGと合奏をして、その後もおしゃべりに花を咲かせたりいたせいだ。

 積もる話も多いだろうが、ここから先は明日に持ち越さなければ。

 まあ、会場を閉めるギリギリまで、みなには体育館にいてもらって構わないのだが。先輩たちともっとしゃべりたい気持ちは、鍵太郎にも分かる。

 明日の本番に支障がない程度になら、ファミレスになど行ってもいいか。

 そんなことを考えていると、後ろから光莉が言ってくる。


「……ねえ、どうだったの。春日先輩との再会は。……その。好きだとか、言ったの?」

「いや、言ってねえけど……でもまあ、昔よりだいぶ、スッキリしたかな」


 ずっと溜め込んでいた思いを吐き出して、だいぶ落ち着きはした。

 二年前できなかったことをして。あの人との距離を思い知って。

 手の届かない存在であると、改めて納得したのだ。

 もうそれで、いいんじゃないかと――このまま思い出のひとつとして、そっと閉じてしまってもいいんじゃないかと、考えたりもする。


妄執もうしゅうじみた気持ちが薄れたっていうか。これが失恋ていうのかな。よく分かんねえや」

「そう……」


 言葉少なにうつむいた同い年は、何を思っていたのだろうか。

 吹きさらしの廊下の明かりは小さくて、光莉の表情は読み取れない。

 けれども彼女は、何かを言おうとしたのだろう。顔を上げて――

 そしてその顔は、あるものを見て凍り付く。


「……どうした? 千渡」


 同い年の尋常でない表情に、鍵太郎も眉をひそめた。

 彼女が見ているのは自分の後ろ、校舎の植え込みの前。

 振り返って確認してみれば――


「……豊浦とようら先輩⁉」


 これまでずっと連絡を寄こさなかった豊浦奏恵とようらかなえが。

 煙草をくわえて力なく、座り込んでいた。

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