第439話 夜空の彼方に浮かぶ星
「ううー、落ち着け、落ち着け俺……」
体育館の外の水道で。
明日のOBOGとの演奏のため、卒業した同じ楽器の先輩と、再会したまではよかったのだが。
久しぶりに顔を合わせたため、考えていた以上に浮き立って、ロクに話もできなくなってしまったのである。
憧れと思慕と尊敬と。
色々なものが噴き出してきて、顔面が沸騰してしまった。
とりあえずいったん落ち着こうと、体育館から出た次第である。十月末ということもあり、学校に吹き下ろす風は冷たくて気持ちいい。熱くなった身体にはちょうどよくて、鍵太郎はしばらく体育館から漏れてくる音を聞きながら風に当たることにした。
学校祭二日目の明日に備えて、集まったOBOGたちは音出しを行っている。
そこにはもちろん、卒業以来会えていなかった、同じ楽器の先輩もいる。
一緒に吹くのは二年ぶり。直にしゃべるのだって二年ぶり――緊張しないわけがない。
これから現役生とOBOGを交えてのリハーサルが行われるわけだが、隣でちゃんと演奏できるかどうか、かなりの不安がある。
でも、やらなければならないのだ。
今度こそあの人と一緒に胸を張って吹けるよう、動かなくてはならない。
二年前できなかったこと。
それができてようやく、自分は納得ができるのだ――そう考えて、鍵太郎は意を決し顔を上げた。
「――よし」
校舎に掲げられた、『祝! 吹奏楽部 東関東大会出場!』という垂れ幕を見て、大きく息をつく。
一年生のあのときとは違う。
先輩がいなくなってからこれまで、たくさんのものを積み重ねてきた。
それらを思い出していけば、きっと大丈夫。
自分だってやれる。外に出て新鮮な空気を吸って、多少冷えた頭はそう判断してくれた。荒れ狂う熱は身体の中で制御され、動く力に変わっている。
外に出てきた甲斐があった。そう思って、体育館に戻ろうとしたとき――
「……ん?」
ふと、誰かがそこにいたように感じて鍵太郎は立ち止まった。
体育館と校舎をつなぐ、吹きさらしの通路。
横を向けば校庭と、それに連なる暮れかけた空が見える。
学校祭の一日目もそろそろ終わり。
日は傾き、辺りは段々と暗くなってきていた。
一番星が出るくらいの頃合いだ。ああ、もうそんな時間か――と思うが、OBOGの集合時刻は夕方にしていたので、空の具合はこんなものだろう。
初日の本番が終わった後、最もみなが集まりやすい時間帯。
だからこそ今、体育館には明日の演奏への参加を表明した卒業生たちが全員、顔をそろえているのだから。
「……気のせいか?」
しばらく辺りを見回しても、目立った発見がなかったので鍵太郎はその場を去った。
ただ――うっすらと漂ってきた煙草の匂いが、妙に心をざわつかせた。
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「おかえりなさい、湊くん」
「はい、ただいまです……」
体育館に戻ってきて、いきなり鍵太郎の自信が揺らぐ。
にこやかに出迎えてくれたのは
二年前に卒業した、同じ楽器の先輩である。
綺麗で優しく、のんびりとしたお姉さん。それが現役のときと全然変わっていなくて、何もできなかった入部当時のように、全力で寄りかかりたい衝動にかられた。
けれども、違うのだ。
今やるべきことは甘えることではなく、立ち向かうことである。ぐらつきかけた身体と心を立て直して、鍵太郎は美里の隣に座った。
「もうそろそろ、合奏を始めるそうですよ。チューニングしましょう」
「分かりました」
先輩の傍らにあるのは、学校のものではなく、彼女の入っている社会人バンドから持ってきた楽器だ。
大学生になってからも演奏を続けてきた美里は、特にブランクなどないのだろう。
チューニングも済ませているようで、のんびりと楽譜の準備をしている。
その楽器から出る音を、鍵太郎ははっきりと覚えていた。
温かく伸びやかで、綺麗に響く彼女の音。
扱う楽器が多少変わったところで、出てくる音は変わらない。
不思議なことに、だ。音にはその人そのものが出る――そう言ったのは美里自身で、彼女はそれを『たからもの』と称した。
その音はあなたにしか出せない、特別なものだと。
大事にしてくださいと言われたことは、昨日のことのように思い出せる。
だったらそれを、今から発揮しよう。
これまで積み重ねてきたものを、この先輩に示そう――そう思って、鍵太郎は楽器を持ち上げた。
大丈夫。一年生の頃から力はつけてきたし、楽典の勉強だってした。
それに今日の本番の演奏だって大成功だったのだ。
たくさんの拍手と、よかったよという声に押されてここまでやってきた。
果てなく当てもない海を、夜空に輝く星を頼りに進んできたようなもので。
たどり着くのは『宝島』――それぞれがそれぞれのものを持ち寄って、作り上げる最終地点。
陽気なアゴゴベルが遠くから聞こえ、出番が迫る。
合奏が始まった。待ちきれないとばかりにアルトサックスの断片が聞こえ、エッジの効いた変わらぬ先輩の音に、鍵太郎は顔をほころばせる。
これだ。これを待っていた。
考え得る最高のメンバーでする合奏。
懐かしくて、でも記憶以上のものが出てくる予感にワクワクする。
この人たちのことだ、きっとこっちが考える以上のことをやってのけて――
「――って、え?」
途端、隣から聞こえてきた美里の音に、鍵太郎は思わす声をあげた。
卒業以来、久しぶりに聞くOGの演奏。
芯にあるものは変わっていない。彼女の音は優しくてよく響いて、吹いていて楽しいのがこちらにまで伝わってくる。
ただ――力強さと表現の幅が、圧倒的に増えていた。
単なる四分音符ひとつにも、指向性を感じる。ぼんやりとしていた粒立ちがはっきりして、明確な線を描いている。
正確なリズムは全体の基盤になり、周囲に吹きやすさと余裕を与えていた。この人の音はまるで魔法のようだと思ったことがあるが、今やっているのは杖から光を出すようなレベルではない。
もっと巨大な――いうなればステージ全体に魔方陣を描いているようなものだった。
それを以前と同じく、鼻歌でも歌いそうな気軽さで。
鍵太郎も全力でやっているが、スケールの大きさはまるで美里に及ばない。間違いない。彼女は上手くなっている。
らしさを失わず。記憶にあるよりはるかに。
先輩がいなくなって二年。自分なりに相当がんばってきたはずだが、彼女はそれを上回ってきた。
なぜ――と思って、OGの持った重厚な楽器に気づく。
卒業してから入った、一般バンドから持ってきたそれ。
ということはつまり――こちらが、周りにもまれて上達してきたのと同じように。
美里もまた、
「は、ははははは……」
気負っていた自分が馬鹿らしくなって、鍵太郎は声を出して笑った。
考えてみれば当然なのだ。時間は止まってなどいない。
自分が上手くなっていたのなら、相手だって上手くなっているはずだ――生きているのだから。
こちらが勝手に妄想していた彼女ではなく、目の前の美里は今も、煌めく音を出し続けている。
きっと、記憶の中の先輩とは肩を並べて吹けたのだろうけど――そんなものはもう、関係ない。
肝心なのは、この場でこの人と一緒に吹くことだ。
そう思って出した音は、これまでで一番、自分の中でしっくりいった。
勝手に背負っていた憑き物が落ちたようだった。上手くならなきゃ、がんばらなきゃ――そう焦っていた気持ちが解けて、本当に自分のために吹けたような気がする。
あの日以来ずっと追い立てられてきたものから、ようやく解放された。
そのことに、鍵太郎が清々しくも寂しい気持ちでいると――合奏が終わって、美里が不思議そうに訊いてくる。
「どうしたんですか? 湊くん、そんなに笑って」
「なんでもないですよ」
先輩に対してそう返しつつ、鍵太郎はもう一度声を出して笑った。
夜空の彼方に浮かぶ星。
決して手の届かない天の極にある輝きを、それでも見上げながら――
「ただ――先輩はいつまでも、俺の手の届かない目標でいてほしいなって。そう思っただけです」
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