第438話 再会はハチミツがごとく
体育館の入り口に現れた『その人』を、
女性にしては高い身長と、下ろされた長い髪。
柔らかな弧を描く目元――それらは、記憶の中の彼女とほとんど変わらない。
違いといえば、卒業してから社会人バンドに入ったからだろう。楽器を背負っているくらいだ。
自分と同じ、大きな楽器。
それを軸にして、ずっとつながり続けていた卒業した先輩は。
「あ、湊くん」
こちらを目にして、以前のように温かく微笑んだ。
「お久しぶりです。メガネかけたんですね」
「わ……」
その笑顔を見た瞬間。
今までずっと張り詰めていたものが、音をたてて切れた。
止まっていた足が、ひとりでに動き出す。
あの人に近寄る足が段々早くなって、ついには駆け足になっていく。
何を話そうとか再会したらこうしようとか、ずっと考えてきたものが彼方後ろへと吹っ飛んだ。
心の中で絶叫しながら走る。途中で敷いてあるシートに引っかかって、つんのめって転びそうになった。
ずっとずっと、会いたくても会えなかった人は。
倒れそうになった自分を、いつかのように受け止めてくれた。
「大丈夫ですか? 転びそうになってましたけど」
「う、ぁ……」
言葉が出ない。
夢でも幻でもない感触に、涙がこぼれそうになる。このまま黙って胸に顔をうずめて泣き叫びたい。もう無理だ。助けて。身の丈に合わない重荷を背負い続けてきた反動が、ここに来て一気に噴き出した。
ようやく、抱え続けた
素の自分に帰れることに、とんでもない安心感を覚える――。
「せんぱ、い、先輩……!」
この人の卒業式以来、変わってない自分にうんざりもするけれど。
今はそれ以上に、こうして会えたことが嬉しかった。
だからこそ、これまで誰にも言えなかった心の奥底の思いが口をついて出る。
「ひ、どい、もう、あいつら本当ひどいんです……! 人の言うこと聞かないし、そのくせ自分は好き勝手するし、気に食わないことあると殴ってくるし……!」
「ちょっと、それがあんたの本音⁉」
後ろからトランペットの同い年が怒鳴ってくるが、彼女こそその『ひどいあいつら』の筆頭である。
殴る蹴る暴行を加える。吹奏楽部の
彼女たちを味方につけたはいいものの、集団を引っ張る長となった以上、弱音を吐くことは許されなかった。
強いリーダーを演じなければならなかった。他の人間を守るためにがんばらなくては
そんな状況が苦しくなかったと言われれば、そうではないのだ。
彼女たちは心強い相棒ではあるが、同時に戦友でもあり、頼る対象ではないのである。溺れそうなところに天から糸が垂れてきたら、掴まずにはいられないのと同じように。
かつて救われた人の手を取らずにはいられない。今回などは過去最高に好き放題の連中が集まり過ぎて、ほとほと困っていて――。
情けないとは思いつつ、けれども愚痴が止まらなかった。
この人がいなくなってから、どれだけ辛い思いをしてきたことか。延々と話したいのをこらえるけれども、それでも端からこぼれてきてしまう。
「もうやだ、本当に勘弁してほしい。こっちの気持ちを考えずに厳しさばっかり押し付けてくるのとか、同じ考え方じゃないと金賞取れないとかって圧力とか! 八つ当たりとか止めてくれよ、こっちはただ純粋に音楽をやりたいだけなんだ……!」
「うん、うん。がんばってきましたね、湊くん」
そしてそんな、取り留めのない感情の欠片を。
美里は以前のように、優しく受け止めてくれた。
それだけで、全身が脱力するくらいの安堵感に包まれる。ようやく理解してもらえた――自分の心の声。
結局は『がんばること』を要求されて、自分自身にすら押し潰されていたただの小さな欲求。
認めてもらいたかった。
当然のように走り続けることは、もう限界に達していた。東関東大会が終わってから――燃え尽きてしまった灰の中から、立ち上がることはできたとしても。
ぽっかりと胸に開いた穴は、埋めようがなかった。
それが今、ようやく塞がった気がする。ふわりと抱きしめられ、久しぶりの寄る辺にほっとして身を任せ。
このまま眠ってしまいたいくらいだけど、そうしたらきっと――
「……えーと。ゴホン、湊先輩?」
「……はっ⁉」
脳みそがはちみつ漬けになって溶けてしまうだろうから、起きなければ。
そう思って、頭を撫でていた先輩から身を離す。危なかった。後輩が咳払いして止めてくれなかったら、涙の海の代わりに甘やかしの海で溺れるところだった。
まあ、それもいいかなと思ってしまうくらい、よしよしとされることは甘美でゾクゾクしたのだけど。それに浸りすぎた結果が、一年生のときの失態である。
今度こそ、同じ轍を踏むわけにはいかない。真っ赤になった顔を今年できた同じ楽器の後輩に、ジト目で見られつつ。
鍵太郎は先輩に言った。
「し、失礼しました。あんまり久しぶりで嬉しかったもので、つい……」
「いいのですよー。それだけ湊くんが一生懸命やってきたってことですし。むしろわたしは嬉しいのです」
「ぐっ……なんだろうこの天然ハニートラップ、分かってなければ心から身体から、全部持っていかれる……!」
「そう言いつつ先輩の顔、デレデレですけどね」
何やら後輩の当たりが妙に厳しいが、言い返す余裕はない。
「……なるほど。
昔のようにのほほんと笑う美里の輝きと、そして
異常なほどの多幸感に、緩みそうな頬を必死に抑えて変な顔になる。
まずい。久しぶりすぎて耐性がなくなっている。
なんて、かつてこの先輩が卒業したときと同じことを考える。好きって、こんな気持ちだったっけ――と思うほどの、感情の波が荒れ狂っている。
そして、何より問題なのが――
「さて、これからみんなで合奏ですね。楽しみです!」
そう言ってまぶしく微笑む先輩の隣で。
自分は正常な判断を下し、これまでどおりに楽器を吹けるかということだった。
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