第436話 誰かを喜ばせるために

 かつて、何者でもなかった自分はどうやって舞台に臨んでいたのだろう。

 学校祭、一日目。

 本番の会場となる体育館に帰ってきた湊鍵太郎みなとけんたろうは、そう考えていた。

 今回のコンサートで部活は引退。それだけに、色々な思いが脳裏をよぎる。

 たとえば、最初の本番となった慰問演奏。

 楽器を始めたばかりの一年生の頃。右も左も分からないままがむしゃらにやって、後でお客さんに声をかけられた。


「ありがとう」

「また来てね」


 たったそれだけだったけど、ものすごくびっくりして、何も言えなくなって。

 湧き上がってくる嬉しさを噛みしめ『良かった』と思った記憶がある。

 自分の他にはもうひとりしか知る者のいない、些細な出来事。

 でもそれは強い光になって、心に刻まれていた。

 楽器を持ち上げて音出しをしていると、体育館の入り口から続々と人が入ってくる。

 パンフレットを持って、それぞれが好きなところに座って。

 曲の解説を読んだり、部員紹介を見たり。これから始まるものを期待して待っている。

 その中には鍵太郎が今日、チラシを渡した人たちもいた。

 同い年のアフロのアホの子が声をかけていた、小さな女の子も。親に手を引かれて会場にやってきていた。来てくれたんだ、と思うと同時に、かつて渡された言葉にできない温かさが、胸に広がっていくのを感じる。

 最初の出来事を思い出して、終わりを前にバラバラになっていた自分がつながっていくのを感じる。

 楽器を始めた頃の自分と。

 これまで歩いてきた自分が重なって。

 本番前の不安なんて、吹き飛ばすくらいの気持ちが満ちていく。周りの部員たちも似たようなもので、楽器から出てくる音が待ちきれないとばかりに会場に渦を巻いていった。

 このところ落ち着かなくてずっとその感覚を忘れていたけれど、これならなんとかなりそうだ。


「湊、本番がんばろーね!」


 と、そこで虹色アフロの同い年がそう言って、こちらの肩を叩いていく。

 返事を聞くこともなく自分の席に駆けていってしまう様は、実に彼女らしい。能天気すぎて頭が爆発したからそうなってるんじゃないかと思うくらいの性格だが、今はその行動力がありがたかった。

 そういえば、演奏ばかりで仮装の準備をしていなかったことに気づく。ハロウィンの時期に行われるこの学校祭は、演奏者も観客も何らかの衣装を凝らしていることが多い。


「よし――」


 用意してあった仮面を拾って、つける。ヒラッヒラのフリフリ――東関東大会のオペラホールにでもいそうだと思った、貴婦人が付けていそうな派手なやつ。

 原点を思い出して、これまでの自分を身につけて。


「やるか!」


 もう一度、誰かに喜んでもらうために。

 これまでの自分をつなぎ合わせて。

 また最初のようにがむしゃらに、目の前の舞台に挑んでいこう。



 ###



 先ほどの小さなお客さんは、お姫様は出てくるのか、と訊いた。

 同い年はその問いかけに出てくるよ、と答えていた。『ディズニー・プリンセス・メドレー』。様々な物語のヒロインたちが、次々と現れる。

 白雪姫、シンデレラ、眠れる森の美女。

 リトルマーメイド、美女と野獣――そして、アラジン。

 キラキラの音たちに紛れて、悪役と呼ばれた低音を吹いていく。パレードのように、多くの人を引きつれて――もっとも自分は、王子様でなくて行列の人々が踏む、地面に等しいのだけど。

 軽やかなステップを踏む、王子つきの従者。

 彼ら彼女らは多くのお宝を持ち寄って、お姫様を迎えに行く。高らかに歌うトランペットは、財を読み上げるようで。

 練習のときは臨時記号フラットを落としがちだったけど、今は取りこぼすことなく立派に動き回っていた。まあなぜだか、鍵太郎にはどことなくヤケクソに聞こえたのだが。

 それでもパレードは、華やかに進む。

 クジャクとダチョウ。象にラクダ――煌びやかな装飾の中で、偽りの王子は遠慮がちに微笑む。

 暴力的なほど豪奢ごうしゃな金色。それと共にたどり着いた先で、プリンセスと出会うわけだが――やはり虚飾は虚飾。お姫様は不審がって、見向きもしない。

 残されたのは魔法のじゅうたんのみ。不器用だけど自分の言葉で。

 本当の心を伝えに行こう。

 さて、ここからが正念場だ――と、鍵太郎は密かに気を引き締め直した。ここからはこのメドレー最後の曲となる『ホールニューワールド』だが、ある意味では一番きついかもしれない。

 楽譜を見ればチューバはほぼ伸ばしの音符のみ。譜面だけ考えれば単純だが、ゆえに誤魔化しのきかない、地力がもろに出るものといえる。

 勢いだけでは押し切れない。

 ならばこそ――と、ギアを切り替える。このモードは、三年生になってからできたものだ。

 そこで指揮を振っている、先生に教えられた音楽の知識。

 自分が知っているものはそのほんの一部だけど、それでも何もやらないよりはマシ。

 全部を活用して誰かを喜ばせると決めたのだから――そう思ったところで、ユーフォニアムのソロが終わった。

 ぽっちゃり女神に微笑まれた気がする。なら大丈夫。

 自信をもって、夜の空に飛び立とう――周りからしたら魔法にしか見えないだろうけど、信じて勇気を出して。

 ほのかに浮かぶじゅうたんを動かす。これまで吹きっぱなし。かなりしんどいけれど、ふわふわしたハーモニーに身体はなんとか応えてくれた。

 高く、低く。お姫様を放り出さないよう、軌道が安定するよう。

 何より綺麗な夜空を満喫できるよう――ゆっくりと、息を吐く。

 舞い上がったじゅうたんは月と星をバックに、二人を乗せて進んでいった。

 お姫様と、偽物の王子。

 なんとか関係を進展させようと、彼は本音を紡いでいく。決して流暢とはいえない、けれども嘘偽りない言葉。

 隠すことない自分の気持ち。それを受けて、徐々に夜空の輝きは近づいていく。

 調が変わった。

 他の楽器が加わってきて、自分ひとりで支えていた和音が一気に軽くなる。さらに高らかに――伸びやかにメロディーが流れていく。

 それはようやく笑ってくれたお姫様の歌声。

 立ち上がって、じゅうたんの上から。

 滝のしぶきを、鳥の舞う花畑を。

 色々な景色を見て、知らなかった世界を見て、彼女は楽しそうに笑う。

 そこに音を重ねて――立派なハーモニーの出来上がり。

 周りの助けがなかったら、絶対に完成しなかった魔法。

 それをうけて――聞いている誰かは、喜んでくれたのだろうか。

 チラシを渡したときと違ってもう離れてしまったので、あの子に直接訊くことはできない。

 けど叶うならば、手元の紙にでも――アンケートにでも、分からない字でいいから書いてくれないか。そう思ったところで。


「ママー! 帰ったらアラジンの絵本かってねー!」


 確かな熱量を伴った声が、会場に響いて。

 曲が終わった途端のセリフに、客席が湧き立ち、そして鍵太郎も噴き出していた。

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