第426話 それが愛ならば

「愛、ですか……。宝木たからぎ先輩は、相変わらず難しいことを言いますね……」


 同い年と話したことを、湊鍵太郎みなとけんたろう大月芽衣おおつきめいに話すと。

 一年生の後輩は、微妙な顔をした。戸惑ったような呆れたような。確かに、途中の内容をすっ飛ばして結論だけ口にすると、どうにも怪しい話に思えるけれども。

 別にそこまで考え込むようなことではないのだ。

 芽衣にやってもらうことはひとつしかない。それを改めて鍵太郎は、同じ楽器の後輩に伝える。


「そんな難しく考えなくても、大月さんは俺が引退した後、部活でがんばってもらえれば大丈夫だよ。あとできれば、宮本みやもとさんをサポートしてあげてほしいかな」


 最後のステージも間近に迫り、鍵太郎たち三年生の引退もすぐそこに見えてきた。

 もう少しでこの部活を去らなければならないと思うと、胸の奥がずしりと重くなる。

 そんなどうしようもない気持ちを解消する方法は、後輩を育てることではないかと、先日同い年と話し合った。

 自分たちはいなくなるけど、その後を任せられる人間がいれば心配はいらない。

 だから存分にやってほしいのだ――そう言うと、芽衣は困ったように眉根を寄せる。


「まあ、それはやぶさかではないですが」

「だろ? 次の部長もなかなか大変な子だけど、宝木さんの言う『誰かに何かをしてあげたい気持ち』があれば、なんとかなるってもんさ」


 同い年曰く、それが愛なんじゃないか、ということだったが。

 いうなれば思いやりといったところだろう。誰かに何かをしてあげたい気持ち。

 広い意味でも狭い意味でも使われそうな言葉だが、後輩たちがお互いをサポートしあっていけるのだったら、それはとてもいいことなのだと思う。

 自分たちがいなくなっても、その先の未来は安泰なのだと思える――つまりは、肩の荷を下ろすことができる。

 このしっかりした後輩が自分の持っていたものを引き継いでくれるのなら、なおさらだ。

 そう思って、この一年生には『愛』などというあやふやなものを話した。言われなくても真面目な後輩である、ちゃんとやってくれそうな気がしたが――まあ、改めて言葉で伝えておく方がいいのではないかと判断したのだ。

 もう本当に、最後なのだから。

 少し寂しいけれど、芽衣にもそのつもりで接しなければならない。すると、後輩は「誰かに何かをしてあげたい気持ち、ですか……」と、複雑な表情をしながらも、うなずいてきた。


「分かりました。今後の部活のことに関しては、元よりそのつもりでしたので。がんばっていこうと思います」

「うん。ありがとう」


 入部の経緯が経緯だっただけに、どこかで彼女が部活の輪の中に踏み込んでいかないのではないかと、心配はしていた。

 けれども、もうそんな考えは杞憂のようだった。この調子なら、芽衣はこれからも部活の一員としてやっていけることだろう。

 めでたしめでたし。一件落着――


 ――本当に?


「――」


 と、そこで。

 妙な違和感を覚えて、鍵太郎は沈黙した。

 三年生として、部長として。

 引継ぎを終えたら万事解決。そう思っていたけれども。

 どうも、それだけでは済まないらしい。そして、そのちぐはぐさは芽衣も感じ取っていたのだろう。

 だからこそ、彼女はずっと眉間にしわを寄せていたのかもしれない。

 後輩は、鍵太郎自身も明確に分かっていなかったことを、言ってくる。


「いいです。これからのことに関してはいいんです。

 けれど問題は――が、それでいいのかってことですよ」

「……俺が?」


 一年生の指摘に、胸に手を当てて考える。

 後輩からの物言いのため分かりにくいが、彼女の言い方は、まるで――


「私が宮本先輩をお助けすれば、先輩は自由になれるんですか? 学校祭でがんばって演奏すれば、満足なんですか? この先の部活を支えられれば、先輩は心から楽しく笑えるのでしょうか」


 部長ではない、湊鍵太郎自身が。

 本当に幸せなのかと問うているようだった。

 同じ楽器の後輩だからこそ、芽衣は隣にいた先輩のことをよく見ている。

 以前に、どこか遠くを見ているようだと彼女に訊かれたときもそうだったが。

 根本的に、いつもそうだ――部長としての考え方に、自分自身の気持ちは入っていない。

 それでいいのかと芽衣は訊いている。

 それで本当に、心から楽しく笑えるのかと。

 鍵太郎が口ごもっていると、後輩は前と同じ、怒ったような口調で続けてきた。


「ほら。だから言ったんです、うさんくさいって。自分のことを棚に上げて、借りてきた言葉ばっかり使うから嘘くさいんです」


 いい加減、人のやりたいことだけじゃなくて。

『自分やりたいこと』を、自分自身に問え――部長ではなく、湊鍵太郎個人として。

 満足できるハッピーエンドはどこにある?


「――」


 その問いかけは胸にぽっかり空いた穴に吸い込まれて、はっきりとした答えを浮かべてはくれなかった。

 真っ黒で、底の知れない穴。

 部長になってから、ずっとずっと無視してきた空間――それどころではないと、封じてきた虚無感。

 それが今、久しぶりに顔をのぞかせている。


 何を言っても、どうせ無駄。

 どれほど言っても、伝わらない。


『みたされないきもち』。

 ひと目見ただけで分かる。この大穴が、引退を前にした胸のしこりの正体だ。

 部長としての虚しさなんて、せいぜいこの氷山の一角に過ぎない。


「私に何かできることはないですか。先輩のために、何かできることはないですか」


 誰かに何かをしてあげたい気持ちが愛だというのなら。

 後輩の言葉は、確かに愛に満ちたものではあったのだろう――ただ、彼女の存在は小さすぎて。

 その穴を埋めるには、全く足りなかった。あるいは小石を投げ入れるくらいの役には立ったろうが――依然として。

 見ている自分が呆然とするくらいの暗闇は、晴れることがなかった。

 自分自身がどうしたいのか。

 長らく人を守り、人の願いを叶えることに徹してきた自分は、見失って久しい。

 口を開きかけては言葉が出ず、声にならない声をあげるこちらに、芽衣は見切りをつけたのだろう。

「……分かりました」と言って、口をへの字に曲げる。


「OBOGの先輩方のことのことを言えませんよ。先輩だって十分、どうしようもないです」



 ###



 けれども。

 誰かに何かをしてあげたい気持ちが、愛であるというのなら――


千渡せんど先輩。お話があります」


 難しいことだけど、できるだけのことはやってみよう。

 そう考えて、芽衣は三年生の千渡光莉せんどひかりに話しかけていた。

 自分と同じ楽器の先輩とずっと一緒にいて、そして似たような立場の先輩。

 そして、こちらと同じ歯噛みするような思いを、ずっとし続けてきた人――で、あるならば。

 必ずこちらの言葉に耳を傾けてくれる。少し怖いけれど、でも、勇気を出して。


「三年生のみなさん、OGの『あの人』に湊先輩を会わせることに抵抗があるようですけど。それでも学校祭当日、気兼ねなく会わせてあげてほしいんです」


 自分はその卒業生のことを知らない。

 だからこそ、こんな無謀なことが言えるのかもしれない。

 かつて好きだった人と今の部長を引き合わせるような、そんな真似――


「私じゃ駄目なんです」


 けれども、この場にいる全員でも駄目なのだ。

 彼自身でも取れなくなってしまった部長という仮面を引きはがせるのは、もう話に聞くあの人しかいない。

 まったく先輩も後輩も、そろいもそろって本当にどうしようもない。

 だけど誰かに何かをしてあげることが、愛だというのなら。

 自分にできることは、もうその人に会わせてあげることだけ――。


「湊先輩を本当に助けてあげられるのは、春日かすが先輩という人しかいないんです」

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