第427話 夢の国において低音は悪役

「ああもう、どうしろっていうのよー!」


 と、合奏のさなか千渡光莉せんどひかりは憤慨していた。

 理由はふたつ。今やっているディズニー・プリンセス・メドレーの演奏がどうもうまくいかないこと。

 そして視界の端に映る、同い年のことである。


 湊鍵太郎みなとけんたろう

 部長である彼は、光莉の吹くトランペットとは対照的に、低音楽器のチューバを吹いている。

 あの楽器の人間の性なのか、自分のトラブルのみならず、他人の厄介事にまで首を突っ込むお人よしというやつで。

 光莉にとってはなんというか――そう、放っておけない人間、というやつだった。


 そんな同い年が、自らの力だけではどうにもならない事態に直面している。

 ずっとずっと好きだった人と、再会するにあたってどんな顔をしていいか分からない、というふざけた悩みだ。

 でも、考えてみればそうなのだ。

 部長になってからは特に、彼は自分の気持ちをないがしろにしてまで、周囲がうまくいくように取り計らってきた。

 だから久しぶりにその想い人と――卒業した先輩と会うにあたって、自分の感情が素直に引き出せなくなっている。

 そんなの知っている。ずっと見てきたから、知っている。


「どうしろっていうのよ……」


 もう一度つぶやいて、光莉は肩を落とした。

 そんなのは分かっていた。だからずっと迷ってきたのだ。

 かのOGと彼を、どんな風に引き合わせるかについて。

 あの同い年がそんな面倒な性格になってしまったのは、間違いなくあの卒業生が原因である。どこか自らを無視した考え方。優しすぎるといっていいくらいの、他人に対して甘い性格。

 けれども、だからこそ直接対面すれば、状況は改善に向かうはずだった。

 どこかであの人の影を追いかけていたのなら、久しぶりに本人を見れば彼の精神状態にはなんらかの変化があるはずである。そのまま勢いで告白して、さらに付き合うとかいう、とんでもなくふざけた事態にならなければ。

 光莉や周りの人間はそれが心配で、県大会から今まで、ずっとハラハラしっぱなしだったのだ。

 なのに。


「……あの子は強いのね。本当に……」


 誰もがどう動くか迷っていた状況で、ひとりの後輩が光莉の下にやってきた。

 大月芽衣おおつきめい

 彼と同じ、チューバを吹く一年生である。先日その意志の強そうな太めの眉を吊り上げ、彼女は光莉に言ってきた。

「湊先輩を、春日かすが先輩に会わせてあげてください」――そんな、下手をすればこれまで築き上げてきた全てを破壊しかねない言葉を。


 芽衣の言うとおりにすれば、確かにあの同い年は救われるのだろう。しかし引き換えに、こちら側は彼と手をつなぐ機会を永遠に失う――かもしれないのだ。

 多大なリスクを承知の上で、それでも後輩は同じ楽器の先輩のためを願った。

 いくらあの卒業生のことを知らないとはいえ、すごいことだと光莉は思う。自分は未だに迷っている――奪われるのが怖くて、みっともなくしがみついている。

『渡したくない』という心の叫びに。

 そんな自らの汚らしさから目を背けるため、光莉はいったん同い年と後輩から視線を切って楽譜を見た。


 目の前にある譜面は、学校祭でやる『ディズニー・プリンセス・メドレー』。

 しかし今しがたの合奏でも思ったが、この曲には少し問題がある。それは――


「ミュート、間に合わないんだけど……」


 曲の後半。

 アラジンに入った辺りで、ミュートを取り外しするのだが、それが時間的にどうしても間に合わないのである。

 朝顔状のベルの中に差し込んで、出す音を変化させるミュート。

 効果音的にたまに使うそれだが、どう考えても付け外しの時間が足りない。

 たった二小節でどうしろというのか。まごついていると、顧問の先生から「おいトランペット、どうした」と質問された。


「叫んだりジタバタしたり、さっきから忙しいな。なにやってんだ」

「先生、アラジンのところミュート間に合わないんですけど……」

「そんなもんはまたに挟め」


 助け舟を出してもらえると思ったら、なんだかひどいことを言われた。

 股に挟めとか言われた。仮にもどころか正真正銘可憐な乙女なのに、股に挟めとか言われた。

 まあ確かに、床に置けないのなら膝に置く、もしくは転げ落ちてしまわないように身体で押さえておくのはひとつの方法としてありだろう。

 ただ、ミニサイズのカップラーメンほどもある筒状の物体を、足を広げてそこに挟んで演奏するというのは、乙女的に抵抗があるということだ。

 絵面もわりとひどい気がする。そう思って光莉が渋面でいると、先生は何を今さらといった風にあっさりと言ってきた。


「ミュート間に合わねえときにトランペット奏者がやるのは、大体股に挟んでおくことだぞ。もしくは膝の裏かな。こっちの方が慣れないと大変みたいだけど」

「で、でも。そーいうのってちょっと乱暴っていうか、ワイルドすぎるっていうか……」

「女を捨てろー、こういうときは。でないと吹けるもんも吹けねえぞ」


 今どき女を捨てろ、とは発信者によってはセクハラと訴えられそうな発言だったが、あいにくと顧問の先生は女性である。

 こんな口調ながらも。そしてこの先生が言うのだったら、その股に挟む奏法とやらは一般的なのだろう。個人的にどう感じるかはさて置いて。

 顔を引きつらせて光莉が床に置いたミュートとにらめっこしていると、ふと、左前の方から視線を感じた。

 反射的にそちらを向いてみれば――

 芽衣が。

 先日、こちらに『彼』のことについて進言してきた後輩が、じっとこちらを見ていた。


「どうするんですか」と言わんばかりに。


「う……」


 その眼差しの強さに、光莉は一瞬言葉に詰まる。

 仏頂面の後輩はまるでこちらを責めているようで、この間彼女の呼びかけを保留してしまった光莉としては、グサグサと心に突き刺さるものがあった。

 他からしたらちっぽけなものだけど、自分からしたら大事なもの。

 それを放り投げなければ、望むものは得られない。

 恥を捨てなければ、ミュートは曲中で間に合わなさそうだし。

 卒業生に会わせてあげなければ、恐らく彼はそのことをずっと引きずる。

 それは分かっている。だから、決断しないといけなくて――

 促してくる芽衣に。


「……あー! もう、分かったわよ!」


 光莉は半ばヤケクソでミュートを手に取って、足の間に挟んだ。

 女を捨てろ――それを二重の意味で、実行したことになる。

 頭をバリバリとかきむしりたいが、あいにく楽器を持っているのでそれも叶わなかった。このムシャクシャした気持ちは合奏が終わった後、彼を殴ることで解消しようと思う。


「邪魔しないで会わせてあげるわよ、その代わりね……!」


 ギリギリと歯を食いしばりつつ、喉の奥でそう唸る。

 分かっていた。ずっと分かっていて見ない振りをしてきたのだ。

 彼が自分たちを気遣うあまり、どこかで言いたいことを言えなかったことも。

 それに甘えていたからこそ、こんな状況になってしまったことも。

 分かっていて、都合が悪いから黙ってきた。だからこんなややこしいことになったのも、ある意味では自分たちのせいで――責任は取らなければならない、とも思う。


「あんたの心を救えるのが、あの人しかいないっていうんなら。私たちは、せめて演奏で役に立つしかないじゃない……!」


 このくらいしないと、割に合わない。

 ずっとずっと、部長だとか唯一の男子部員とか。

 大変な思いをさせておいて悪かったなあ、という気持ちはどこかにあったのだ。

 だったら受け取ってきた優しさを、今度はこちらが返す番だった。たとえその結果が、どうなるか分からなくても――今やらなければ、もう機会はやってこない。

 彼を支えることは。

 ずっとずっと昔に約束した。自分をこの部につなぎ止めた約束。

 それは既に果たされている。舞台に立つことはもうさほど怖くない。

 ソロを吹くのは緊張するけど、この間のコンクールでだって上手くやり切った。なら、今回だってやってみせる。

 あいつのために。そう思ってふと後輩の方を見れば、芽衣は既に自分の楽器を構えていた。

 先輩の決断を、見届けたというところだろうか。ずいぶんと見上げた態度だが、今回は彼女は悪くないのだ。

 むしろ自身の役割を見事に果たしたと、後輩ながら拍手を送りたい。責があるとすれば、ぐだぐだと悩んできた先輩たちの方で――

 などと、考えていたら顧問の先生が「チューバはもっと吹けよー、ディズニーにおいて低音は悪役だからな」と言ってきた。


「……ほんと、マジで悪役だわ、あいつ」


 そのとおりだと思って、やはり彼を殴る決意を光莉は固める。

 芽衣は進んで悪役ヒールを買って出たが、同い年は別だ。無自覚な彼に多少は思い知らせてやりたい。

 トランペットの高音こちらがこの曲において、どれほど正義かということを。

 そして――女心を弄んだ、罪の重さというものを。

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