第421話 女の子を助けるために

 薄暗い空間を、携帯電話の明かりがぼんやりと照らし出していた。

 吸い殻まみれの灰皿に、転がった空き缶。

 ゴミだらけの床に、彼女は周辺のものと同じように座り込んでいる。


「……」


 瞳は死んだように動かない。

 呼吸すらしていないように傍目には感じられた。

 壁に背を預け、長い髪を顔と身体に張り付かせた様は本当に死体――もしくは、人形めいている。

 ぴくりとも動かない身体は生気を感じさせない。この部屋で『生きている』ことを感じさせるのは皮肉なことに、携帯電話の明かりだけだった。

 そして、その光の中からこぼれてきたのは、彼女の――



 ###



豊浦とようら先輩と連絡がつかない、かあ。なるほどねえ」


 湊鍵太郎みなとけんたろうが相談を持ち掛けると、ひとつ上の先輩である高久広美たかくひろみは首を傾げてそう言ってきた。

 卒業生である広美や、他のOBOGを交えた合同練習の日。

 そんな日に、さらに上の世代であるトランペットの先輩はいなかった。

 ただ来られないだけであるなら、特に鍵太郎も気にしていなかっただろう。しかし事態は、もう少し深刻そうな匂いを発している。

 直接会えるのをこれ幸いと、鍵太郎は広美に事情を打ち明けていた。


「はい、滝田たきた先輩が色々やってくれてますけど、どうにも進展がないみたいで。先輩ならどうするかなって思ったんです」

「えー。あたしが出張ったところで、その件についてどうにかできる気はしないけどなあ」

「いいからつべこべ言わすキリキリ働け。このぐうたら師匠」


 昔と変わらずスーダラな態度を崩さない広美に、鍵太郎はぴしゃりと言い放つ。

 かつてはこの先輩を師匠と呼んで慕って(?)いたものだが、今でもその関係性には変わりない。

 能ある鷹は爪を隠すを身をもって表現しているような人なのだ、彼女は――ときに未来を予測しているのではないかとすら思える観察眼は、この部活の中でも特に異彩を放っている。

 その特異性がゆえに表舞台からは引っ込みがちな広美であるが、やはり頼りになるときは頼りになるのだ。

 そんな彼女は、しかしやはり肩をすくめて言ってくる。


「つーてもさ。前にも言ったじゃん。あたしが関われるのはあくまで、自分が認識してる範囲だけだって。しばらく会ってない先輩のことなんて、どうなってるのか予測もつかないよ」

「確かにそうですけど……」

「まあ、過去にあったデータからある程度の見当はつけられるけど」

「だったらとっととやれや、もったいぶるんじゃねえ黒魔女」


 再度すごんでみるが、広美はどうにも乗り気でないようだった。

 それは、なぜか――鍵太郎の二つ上、広美のひとつ上の、先輩について。

 語るのは少々ためらわれるようで、魔女はほおをかきつつ言う。


「湊っちは二個離れてるから知らないだろうけどさあ――豊浦先輩だって、別に昔からあんなハイテンションだったわけじゃないよ。あたしが一年生の時なんかは、いつも何かに悩んでるような、ちょっと気難しい人だったさ」

「……そうなんですか?」

「そーだよ。色々あって、ネジが外れてああなっちゃったけど。元々はわりと、神経質な方だったと思うよ」


 トランペットの一番なんて、ちょっとぶっ飛んでないとやってられないだろうからねえ、と広美は過去のことを思い出していたのだろう。短く息をつく。

 鍵太郎が出会ったときは豊浦奏恵とようらかなえという先輩は既に、目をキラキラさせて物事に突っ込んでいく、暴走機関車のような人だった。

 それが、違っていた時期もあったというのか。知らない先輩像に鍵太郎が眉を寄せると、広美はやはりもう一度ため息をついた。

 ということは、つまり彼女は『先輩のあまり表ざたにしたくなかった面』を。

 後輩に語ることに抵抗があったということだ――この先は、あまり聞かせたくなかったのだと。

 暗に言っているようなものである。そう悟って鍵太郎が密かに覚悟を決めると、弟子の様子に師匠も覚悟を決めたのだろう。

 いつもの人を食ったような口調を引っ込め、広美は語る。


「豊浦先輩は、とても楽器を吹くことが好きな人だったね。それは間違いないと思う。けれど――同時に、『』でもあった。それは、分かるね?」


 思い当たる節がないでもなかった。

 去年のコンクールのとき、楽器を吹いていないと言っていた奏恵は、確かにあまり顔色はよくなかった。

 演奏をすることで心の澱みをぬぐっていた。

 そういった部分は鍵太郎にもあるので、うなずく。誰しも大なり小なり抱えているストレスを、あの先輩は部活で発散していたということだ。

 なら、もし。

 そんな人が楽器を吹かなくなったなら――?


「あの人がそうなった経緯は割愛するけどさ。まあ、気になったら滝田先輩にでも聞いておくれ――で、まあ前提があれば答えは導きやすいよね。豊浦先輩は発揮してたハイテンションの分、まるまるそっくり反動で、自分の中に抱え込むことになる」


 明るく元気な人ほど本当は暗い、と言うけれど。

 あの先輩のそんな顔など、鍵太郎には想像がつかなかった。

 いや――考えたくなかった、というべきか。先輩は先輩で、かっこいい存在でいてほしくて、いつまでも尊敬できる人であってほしかったというか。

 そんな願望込みで、彼女を見ていたことになる。そうでない可能性を無視してしまっていたというか――理想の先輩像を、押し付けてしまっていた。

 そのような後輩の下に、どうして顔を出せようか。

 彼女が未だ連絡を寄こさないのも、そのせいなのだろうか――そう思って、鍵太郎がうつむくと。

 広美は肩をすくめ、続けて言ってきた。


「マイナス思考のあたしが言うと、全部不吉な予言に聞こえるかもしれないけどさ。まあ、当たらずとも遠からずって感じだと思うよ。で、その上で訊くけど――湊っちはそれでも、豊浦先輩に来てほしいと思う?」

「思います」


 だけど、その意志だけは決然と。

 断固として。譲れないもので、鍵太郎は先輩の問いに即答した。


「楽器を吹かないとおかしくなるっていうんなら、なおさら来てほしいと思います。どんな顔してても、すごい先輩を演じられなくなってもいいから、姿を現してほしいと思います。今さらそんなんで逃げ出すもんか――幻滅なんてするもんか。こっちがどれほど、先輩たちがいなくなってから大変だったと思ってるんですか」


 下を向きながらも、目だけはにらみつけるように上を見て。

 挑むように、外に向かってただ吼える。

 自分が勝手に作った理想に敗れるなんて真似、ずいぶん昔から経験してきた。

 あの人のこと、理想の部活運営、テーマパークでの表裏――その他にも、色々。

 傷ついたことはたくさんあったのだ。けれどもそのたびに、どうにかしてきた。

 なんとかやってきたのだ――今回だって、受け止めてみせる。

 自分とも、他人への怒りともつかない。そんな感情を込めて広美を見ていると、彼女は「だから言ったろ、あたしの出る幕じゃないんだって」と肩をすくめた。


「もうとっくに心なんか決まってて、演奏を送ったりなんだり手を尽くしてるんじゃないか。だったらあたしにできることなんて、そうそうないよ」

「……そこまで予想しながら動くんだから、やっぱり化け物だよなこの人って」

「基本後見というか、見守り役だからね、あたしは。でもま――もしものときのあたしらの代への説明は、やってやるさ。事情は察した。起こりうる未来も予測できた」


 あとは準備をして、運を天に任せるだけさ――と、相談した甲斐はあったということだろう。広美は最低限の役割は引き受けてくれるようだった。

 昔の彼女だったら、見捨てるという選択肢もあったろうに。

 こうして手を貸してくれるようになっただけ、懐が深くなったということなのかもしれない。あるいは予想外の事態が起こり過ぎて、さすがの魔女の演算機能もぶっ壊れたということか。

 それほどに濃い日々だったのだ、自分たちが過ごしてきたのは――その記憶の中の大多数が集っている音楽室を見渡し、広美は言う。


「……やっぱり、きみはずっとがんばってきたんだね、湊っち」


 それはOBOGへ連絡を取った際と、同じセリフだった。

 再会が楽しみだよ、と電話越しに言ったときと。


「これほどの人間が集まって好きにやっているっていうのは、間違いなくきみのおかげだと思う。それは素直に感謝するよ。……優のことも受け入れてくれて、ありがとう」


 先日、現役生のコーチにと、学校の出入りを特別に許可した前部長。

 つまりは同い年を見て、彼女はぽつりと言った。

 広美とは現役の頃、あまり仲の良くなかった元部長だが。

 先日は今ならもう少しマトモに過ごせそうだと、笑っていた。それを思い出して、あと師匠の突然のデレに照れたというのもある。

 鍵太郎は気まずそうに視線を逸らし、広美に軽口を叩いた。


「……気持ち悪いから止めてください。お礼を言う先輩とか、ちょっとまだ慣れないです」

「東関東大会が終わったときは、傷ついた犬っころみたいな声を出してたのに。まさかこんなにたくましく成長してるとはねえ……」

「オウしんみりとディスるっていう新たなスキルを身につけやがったな師匠」


 油断したところをかましてくるとか、この人も本当タチが悪い。

 けれど、彼女の言っていることは真実なのだ。なので、広美と同じものを見つめ鍵太郎も、ぽつりと言う。


「……東関東大会が終わってからも、考えてたんです。俺にできることはないのかって」


 全てが燃え尽きたと思えたコンクールの後も、残されていたものはあった。

 それはいつの間にか上がっていた演奏レベルであったり、自分たちに影響されて誰かが行動を起こした事件であったりした。あるいは、同い年たちの次へと向かう志であったりも。

 体育館が取り壊されると聞き、何かできないかという思いはより強くなった。

 そして、先輩のひとりが困難にぶち当たっているのではないかという問題に際して――


「力になれることはないかって。思っていました。そうしたら、疲れたなんて言ってられなくなっちゃって。そう思わせてくれたみんなには、感謝してますよ」


 手を伸ばしたいという気持ちだけは、変わらなかった。

 周りの気持ちを受けてそう考えたのだ。相変わらず、エネルギーが他人頼みだとは自分でも思う。

 けれどもこうしてみなが集まる光景を前にして、よかったなあと感じることは誤魔化しようがない感情なのだった。


「好きなものは好きだからしょうがないんです。だったら俺はそれに従って行動するまでですよ」

「……きみのその精神性だって十分に化け物だと、あたしは思うけどねえ」

「これだけ人が集まるんだったら、俺の知ってる代だけじゃなくて、もっと上の代も呼んでよかったかなあと思って――」

「それはやめなさい。ものすごい化け物が来るから。きみが思ってる以上にとんでもない人たちが、上の代にはわんさかいるから」


 のほほんと思いついたことを言ってみたら、広美はなぜか必死になって止めに入ってきた。

 彼女がここまではっきりと物申すのは珍しい。そんなに自分の知らない世代の先輩たちは、とんでもない人が多いのか。

 きょとんとしていると、師匠は「あの人ときみの仲介に入るとか、あたしが苦労しそうだから止めてほしいんだよ……」と半眼で言った。どうもこれ以上範囲を広げると、奏恵の話以上に厄介事が増えるらしい。

 間に挟まれて奔走する広美というのも見てみたい気がするが、それはいつかまた今度、機会が廻ってきてからにしよう。

 とにもかくにも、今は連絡がつかないOGに対する行動が優先だ。

 そう伝えると広美は気を取り直したようで、元の調子で言ってくる。


「一年生の頃だったらともかく、今のきみだったら大抵の荒波には対処できる。それは今日会話をして改めて計測をしたあたしが保証しよう」


 最後の最後には笑うことになるのさ、と言っていた先輩は、もう一度宣言してきた。

 この場に集まる現役生やOBOGたち、多くが集まる光景を見つめて――


「今のきみに敵はない。これまでたくさんのことを乗り越えてきた湊っちだ――女の子の一人や二人、とっとと助けておいで」



 ###



 流れてきたのは耳に馴染んだ、トランペットの音。

 深く淀んだ海に浮かぶひとつの光源。

 そこから聞こえてきた、声と演奏に。


「……――」


 豊浦奏恵は死んだように沈黙していた指を、ぴくりと動かした。



第27幕 その旗の下に再び集え〜了

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