第417話 そして時は動き出す
「来るなら来るって言ってくださいよ、先輩」
「別にいいではないですか、減るものでもないし」
いきなり部活にやってきた
貝島優。
鍵太郎の前の部長であり、打楽器の扱いにおいては部の関係者の中でも最高レベルを誇るOGである。
現在は大学一年生ということもあり、コンクールの打楽器運びに顔を出すくらいだったが――まさか学校に直接やって来るとは。
OBOGのための練習日は、ちゃんと設定しているのに。相変わらず予想もしないことをしでかす先輩だった。
技術の向上のためなら、ときに人の心の機微を無視してしまうことがある――そんな優には、去年頭を悩ませたものだけれども。
まさか、卒業してもそうだとは。そんな困った先輩に、鍵太郎は額に手を当てて言う。
「せめて連絡くらいはくださいよ、こっちもそれなりに準備とかありますし」
「
「よ、よろしくお願いします! 貝島先輩!」
そこで割り込んできた声の主の方を、鍵太郎は改めて見る。
今年入ってきた一年生で、初心者がゆえにコンクールには出られなかった部員である。
スティックを持ってやる気満々といった奈々を、鍵太郎は顔を引きつらせて見つめた。この後輩はこれまでクラリネットを吹いていたのだが、どういうわけか打楽器に移ると言い出したのだ。
それもこれも、優が関わっているらしい。一体、どういう経緯でそうなったのか――どうも先日の東関東大会で優と奈々が会った際、そういう話になったらしいのだが、詳しくは聞いていない。
そして、その流れを止めるつもりもない。違う楽器からコンバートして、上手くいった例はいくらでもある。
というか、まさに自分がそうなのだ。だから奈々の移籍はむしろ歓迎すべきもので、この偉大なるOGが彼女に協力してくれるなら、申し分ないはずだった。
いきなり部活にやってくるとかいう、心の準備ができない行動をしてくることを除けば。そんなわけで後輩に教えだす優を、鍵太郎は苦笑いで見つめた。
卒業生と一年生。かぶっていない学年のこの二人が同じ空間にいるというのが、そもそも不思議な光景ではある。
どういう立ち位置にいればいいのか分からない、新鮮な違和感がある――そう思って視界に映る先輩と後輩を眺めていると、とりあえず最初に言うべきことは言ったのだろう。
優がトコトコと、こちらに近づいてきた。
「彼女はあの双子姉妹と違って素直で真面目ですし、ちゃんと教えれば必ず上手くなります。一年生の秋にパート移動ということになりますが、その遅れは私が責任を持ってカバーしましょう」
「はあ。ということは、先輩はこれからもちょくちょく、部活に顔を出すということになりますか?」
「当然です。変な癖がつかないよう、継続的に指導していかねば」
「大学生って、そんなにヒマなんですか……?」
妙に情熱的な前部長を、鍵太郎は冷や汗をかきつつ見つめた。
これからなる予定の身分なのでよく分からないが、そんなにちょくちょく母校に顔を出せるほど彼女は時間的な余裕があるのだろうか。
それとも、また違った目的があるのだろうか――首を傾げて訊くと、優は「……まあ、色々ありましてね」と珍しく、歯切れ悪く言ってきた。
「ひとつは、時間を前に進めたいと思ったからです。……今日来て、改めて感じましたけど」
そこで言葉を切って、元部長は現役生の方をチラリと見る。
そこには、これまでの長い前髪を上げて、視線を隠さなくなった後輩がいた。
この先輩がかつて、取り返しのつかない傷をつけてしまいそうになった人物――
「……あの子はもう、先に行ってしまっているのですね」
それこそ色々あって、彼女はそこで笑っているけれど。
去年の自分の行動について、優自身も思うところはあったのだろう。
後輩を見つつ、OGはため息をついて言う。
「……私はかつて、間違いを犯しました。最終的に帳尻は合った――合わせてもらったのかもしれませんが、それでも十分とは言えません」
部長として、責任を果たせたとは言えません――と、生真面目な彼女は手にしたスティックを握った。
周囲の協力があって創部初の金賞という成果は出せたものの、自分の中ではまだまだ納得がいっていない。
それは県大会の結果が出た直後に、優自身が言っていたことだった。彼女の現役生としての挑戦は、そこで終わったが――その先にも道が続いていることに、この先輩は気づいたのだ。
「……もう一度。やり直せたらと思ったんです。人を育てるっていうことを、もう一度」
やり残したことはまだたくさんあった。
間違えてしまったこともたくさんあった。
本来は、それを悔いたまま終わるのが常なのかもしれないが――そうでないと思えそうな可能性が、目の前に現れたのだ。
奈々という後輩が。
「……
部長としては失格だったのかもしれない。
プレイヤーとしても、技術だけを追い求めすぎたのかもしれない。
けれども、卒業した今なら――ようやく、部活のために動けそうではある。
肩の力を抜いて、周りと接することができそうではある――今度こそ。
「ようやく私は誰かの役に立てるのかもしれないと。そんな風に思いました」
「なんだ。俺はてっきり、
「……」
「痛い痛い痛い! 無言で殴らないでください!」
グーで殴ってくる先輩に、一応悲鳴をあげておく。
どうも図星を指してしまったらしい。まあ、ポコスカと叩いてくるその様からは、まるで敵意など感じなかったのだけど。
動作とは裏腹に、表情は唇を尖らせた可愛らしいものだったけれど――そこまで指摘するのは野暮というものだろう。
なので、痛みを甘んじて受け入れる。部長として、優の背負ってきたものや抱えてきた気持ちは分からないでもない。
だからこの先輩の意向は、なるべく
「分かりましたよ、先輩。これからも部活に教えに来てください。ただし、そのときはちゃんと連絡をお願いしますね」
再び立ち上がろうとする彼女を、止める理由など、どこにもなかった。
以前のように妙な迷惑さえかけないでいてくれれば、自由にしてもらって構わないのだ。それが次世代へのプラスになるなら、なおさら――そう思って言うと、優は「……恩に着ます」と先ほど話題に出した、打楽器の男の先輩と同じセリフを口にした。
それがおかしくて、また殴られないようにこっそりと笑う。まあ、本当はそんな場合ではないのだけど。
彼女と同じく、過ちもやり残したこともたくさんあって。
自分の気持ちとどう向き合っていいか未だに分からないのだけれども――学校祭が終わったら。
全部の区切りがついたら。
部長としても、個人としても、優のように望むがままに振る舞えるのだろうか。そんなことを考えていたら。
「貝島先輩! 湊先輩! こ、こんな感じですか? ちゃんとできてますか⁉」
しばらく練習をしていた奈々が、腕を動かしながら必死な様子でこちらに向かって訊いてきた。
言われたとおりのことを愚直に繰り返していたようで、その甲斐あってかスティックさばきは段々様になってきている。
この調子なら優の指導があれば、彼女もすぐに一人前として合奏に参加できるようになるだろう。最初はつまずきがちだが、その分失敗を糧にして成長していくこの後輩らしい、成長の仕方だと思う。
そんな奈々の性質を、そういえば先輩にも伝えておかねばならない。するとそれより先に、優の方が後輩に言った。
「そうそう、そんな感じです。少し休憩したら、次は違う練習方法もお教えしましょう」
「わーい! わかりましたー!」
と、諸手を上げて喜んだからだろうか。
勢いよく振り上げた手から、スティックがすっぽ抜けて――音楽室の端から端まで、綺麗な放物線を描いて飛んでいく。
宙を舞う木の棒を、三人で呆然と見つめる。スローモションにすら感じる時を経て、奈々の持っていたスティックは――
置いてあったティンパニの皮の部分に直撃し、派手な音をたてた。
「ぎゃああああああ⁉ すみませえええええん⁉」
泣きそうな顔で、後輩はすっ飛ばしたスティックを拾いに行った。
その光景を見てゆっくりと再び額を押さえ、鍵太郎は言う。
「……先輩」
「……なんですか?」
「……あの子、たまにああしてとんでもないことをしでかすので、心の準備をお願いします。特に初回。本人にその気がなくとも。起こるときには起こるので」
「……了解しました」
「よろしく、お願いします……」
頭の痛い後輩を、最後までフォローしようと、先輩に対して言葉を紡ぐ。
奈々の行く末までは見守れないが、こうして頼りになる元部長に彼女を託せるのだ。これほど願ったり叶ったり、幸せなことも他にないだろう。
優と一緒に、必死に走る奈々の姿を見送る。現部長と元部長。この二人に見守られた彼女は。
一年後、この部活の部長になるのだが、それはまた別の話である。
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