第416話 ケツイの理由

 あんたはどこまでいっても部長なのね、と言われたら。

 この後輩の言っていたことも、前提からくつがえることになる。


「アルヴァマー序曲、好きなんです」


 そう言って練習をする野中恵那のなかえなを、湊鍵太郎みなとけんたろうは無言で見つめた。

 瞳にかかるくらい伸ばした前髪に、おずおずとした態度。

 恥ずかしげに、けれどはっきりと好きと言ってくるのは以前と変わっておらず――去年こちらに告白してきたときと、さほど変わっていないように見える。

 控えめに見えて、案外と中身は大胆なのだ。

 実に芸術家っぽい――そんな恵那がせわしなく指を動かす様子を、鍵太郎は彼女がかつて言っていたことを思い出して眺める。


『引退して部長を辞めたら、彼女を作ってもいいってことですよね』――

 そのときの生き生きとした声と、今の後輩の流麗な旋律が。


 同時に頭の中で聞こえてきて、しかし応えるすべを持たずうつむくしかない。

 骨のずいまで部長じゃないか、と言われて否定できなかった自分は、恵那の言葉を肯定することもできないのだ。

 別に約束をしたわけでもないけれど、大手を振って彼女になれるチャンスを待ちわびた彼女からしてみれば、こうなったことは明確な裏切りに見えるだろう。

 後輩を傷つけることに、なるのだろう――好意を告げられたときと同じく、はっきりと断ることにとてつもない抵抗感を覚える。

 身内に刃を向けるのがとんでもなく苦手なのだ、自分は。幾度となく周りから指摘され、自らも分かっていたことであるが、こうも痛感することになるとは思わなかった。

 しかしそれでも、言わなくなくてはならない。

『引退したとしても、きみと付き合えるかどうかは分からない』――と。

 我ながらどんなダメ男のセリフだと思うが、本当にそうだから仕方ないのだ。前にも訊いたのだが、なんでこの後輩は、こんな自分のことを好きになってしまったのか。

 そんなことを考えつつ、鍵太郎は重い口を開く。


「……野中さん、あのさ」

「わたしがこの曲を好きなのって、理由は色々あるんですけど」


 しかし恵那は、そんなこちらのことをさえぎって言ってきた。

 聞きたくない話だという雰囲気を察したからか、そもそも人の話を聞いていないのか――彼女ならば両方の可能性があるのだが、どちらなのだろうか。

 判断しかねていると、後輩は続ける。


「ひとつはこの最後に出てくるメロディーの裏の、クラリネットの旋律がとっても好きなこと――すごく忙しいですけど、滝から水が落ちるみたいで、それが周りの景色と重なるとすごく綺麗に見えるから」


 恵那が先ほどから練習しているのは、彼女が今好きだと言った後半に出てくる裏のメロディーだ。

 忙しい、と連符にやりがいを感じるこの後輩が口にしたくらい、楽譜には大量のおたまじゃくしが並んでいる。

 いつもどおり、譜面は真っ黒だった。

 けれどもこの裏メロが聞こえてきたとき、涙が出そうになるくらい心が動かされることがある。

 それは、なぜなのか――答えを知っているようで、恵那は言う。


「もうひとつは、作曲家さん自身が『この曲は、この部分のクラリネットが吹けるテンポでやること』と、明確に言い切ったからです」

「……それって」

「はい。たまにものすごく速いテンポで演奏してるところがありますけど、それって作曲家さんの本来の意図とは違うみたいで」


 アルヴァマー序曲という曲は昔の名曲というだけあって、様々な学校や団体がいたるところで演奏している。

 そして、それだけの参考音源がネットでもCDでも聞ける。中には技術力を見せるためか時間の関係上か、とんでもない速さで演奏しているものもあった。

 最初はいいが、しかし超速スピードでやった分だけ、最後のクラリネットは大忙しということになる。そうならないよう、作曲者はこの後輩の楽器に配慮したのだろうか。

 それとも、速いテンポだと曲想に合わないからという意味で発言したのだろうか。これも、両方かもしれない。

 人間的な気遣いと音楽的な気高さ。双方があるからこそ響くものがある。

 光と闇が合わさって最強に見える――二つの旋律の交じる部分の楽譜を見て鍵太郎がそう思っていると、恵那はくすくす笑いながら言った。


「ものすごく速いテンポでやった曲が収録されたCDを、ごみ箱に投げ入れたこともあるそうですよ、作曲者さん。きっとすごく心外だったんでしょうね」

「自分の作った曲をせっかくやってもらったのに、それをキレてごみ箱にぶち込むって、作曲家ってある意味すごいよね……。まあ、海外の人だからかもしれないけど」

「でもその作曲者さん、チューバの人だそうなんですよ」

「――」


 ふいに出てきた新情報に、言葉を詰まらせる。

 自分と同じ楽器の人間がそんなことをしたのかと思う気持ちもあり、また同じ楽器の人間であればやりかねないという、妙な確信もあり――渋い顔をしていると、後輩は微笑みながら言う。


「わたしがこの曲を好きな最後の理由は、それです――『作曲者がチューバ奏者だから』。先輩と一緒ですね」

「……俺は作ってもらったものを怒って捨てるような真似は、たぶんしないけど」

「はい。でも、誰かのために本気で怒ってくれはしますよね。わたしの過去にも怒ってくれたみたいに」


 実際に、恵那が中学時代に受けた仕打ちには理不尽なものがあったので、聞いた時は本気で怒った。

 その顔を見たとき、この後輩自身もおびえるくらいに――それは、何かに憤慨してとんでもない行動に出る、同じ楽器の人間に通じるものがあるかもしれない。


「そういう先輩だから、わたしは好きになったんです。前に言いましたよね? ダメなことをちゃんとダメって言ってくれて、ちゃんと怒ってくれて嘘をつかない人だから、わたしは先輩を好きになったんだって」

「……野中さん、それは」


 けれども、違うのだ。

 彼女は作曲者の人間的な配慮と音楽的な気高さを、こちらと混同している。

 思いやり。同じ楽器。

 守ってくれて、助けてくれたこと。

『好きな理由』が境界線を越えてぐちゃぐちゃになっている――それこそが野中恵那という人物なのかもしれないが、やはりもう一度言わなければならないのかもしれなかった。

 恩義と愛情をはき違えてはいけない。

 いくら傷ついていたところを救われたと感じたとはいえ、根本的にその二つは別のものだ。

 かつては、自分も勘違いしていたけれど――そして今も、間違い続けているのかもしれないけれど。

 それでも以前と同じように、辛抱強く繰り返さなくてはならないのだ――「それは違うよ」と。

 関係性は変わらず、全くもって進歩がない。そのことに自分でも嫌気がさしつつ、鍵太郎が口を開こうとしたそのとき。


「えい」


 恵那が。

 顔にかかる長い前髪を、二つに分けた。


「……⁉」

「あの……変、ですか?」


 急に現れた後輩のおでこに、絶句する。

 普段は隠れていた視線が、むき出しでこちらを向いている。本人も相当恥ずかしいのだろう。顔が真っ赤に染まって、瞳は潤んでいた。

 前髪だけで、こんなに印象が変わるのか。別人のように見える恵那を固まって見続けていると、当人も慌てたように言ってきた。


「あ、あの……! 合宿のとき、朝実あさみちゃんにも言われたんですけど、こうした方がいいかなって……! だ、だめですか……⁉ こういうわたしは、嫌いですか……⁉」

「い、いや⁉ いい! すごくいい! あの失言大王、いい仕事するじゃないか!」

「そうですか。よかったあ」


 泣き出しそうな後輩にこちらも慌てて返したら、彼女は心底安心したといった様子で息をついた。

 さすがは野中恵那、控えめに見えて案外大胆――やろうと思ったことには一気に手を出してくる、油断ならない後輩である。

 それに何度、驚かされてきたことか。り橋効果でも狙っているのだろうか。そんなことまで考えて鍵太郎がドキドキする胸を押さえていると、前髪をピンで留めて、恵那は言ってくる。


「安心しました。朝実ちゃんには大丈夫って言われてたけど、気持ち悪がられたらどうしよう、嫌われちゃったらどうしようってずっと思ってたので」

「そんなことないよ。前も言ったけど、野中さんはもっと自分に自信をもっていいと思う」

「ですよね。きっとそう言ってくれるって信じてました」


 だから、本当のわたしをもうちょっと、出していいかなと思ったんです――そう言ってはにかんで、後輩は続ける。


「そう思えるだけの勇気を、先輩はわたしにくれました。勘違いだ、独りよがりだって言われても構いません。だってそれは事実だから――わたしが先輩のことを好きなのは、本当だから」

「……野中さん」

「すごく恥ずかしいけれど、これからはこの髪型でいこうかなと思ってます。決意の証、です」


 副部長になること。

 誰かを好きでいられる自分でいること。

 両方のケツイをみなぎらせるため、恵那は自らを変えることにした。

 その姿はまぶしくて――決してその案外広いおでこがまぶしいということではなくて、心意気の話で。

 鍵太郎が見とれていると、後輩は言う。


「ねえ、先輩」

「なに?」

「何があったからとか、こういう立場だからとか、結局そんなの全部後付けなんです」


 理由なんて構わない。

 どんなことがあったかなんて、関係ない。

 まだ慣れないのか、くすぐったそうに、しかし真っすぐにこちらを見て恵那は言ってきた。

 自分がどうなっても、相手がどうなっても――。


「この曲が好きなように。部長だろうがなんだろうが――わたしが先輩を好きなことに、変わりはないんですから」

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