第395話 トンネルを抜けたら

 東関東大会の誘導係の女の子は、品行方正な優等生といった感じの子だった。


「どうぞよろしくお願いいたします」


 そう言ってぺこりと一礼する彼女を、湊鍵太郎みなとけんたろうは列の一番前で眺めていた。

 リハーサル室への誘導は、基本的に大きくて重い楽器が先になる。

 それのルールは、支部大会になっても変わりないらしい。いつもと変わらない形式にちょっとほっとしつつ、鍵太郎は誘導係の女の子についていった。


「どこまで行くんだろうね」

「初めて来るホールの舞台裏って、マジでわかんないからな。窓がないから方向もよくわからんし」


 近くにいた同じく大きな楽器を持つ、宝木咲耶たからぎさくやの言葉にそう応える。

 行く先はもちろん、リハーサル室なのだけれども――その部屋がどこにあるか、この五階席のオペラホールを抱える会場からは想像がつかなかった。

 地下三階にあると言われたらそうだろうとも思うし、七階にあると言われても疑わない。

 とにかく県大会のときとは規模が違いすぎて、戸惑いつつも従うしかないというのが現状だ。そう思いつつ鍵太郎は、誘導係の女の子の背中を見ていた。


「わー、なんか通路まで洗練されてる感じがしますねえ」

「改めて、立派な会場ですよね、ここ……」


 そんな風に部員たちがささやき合う中、彼女は早すぎず遅すぎず、常に理想と思われるペースで看板を持ち進んでいる。

 まさに役目を果たしている、といった感じだ。県大会のときと同じで、きっとこの子も、ここの近所のどこかの有名校の生徒なのだろう。

 そして、その学校はきっと、自分の県の強豪と言われているところより上手いのだろう――そんなことを誘導係の生徒の立ち振る舞いから考えながら、鍵太郎は歩いていた。

 迷子になどなったらシャレにならない。まあ、この子ならそんなことしないし、させないのだろうけど。

 それでも、どこかで『ついていかねばならない』といった、焦りのようなものに突き動かされているのは事実だ。

 正しい方向に、誘導されていることは確かだ――そのことに多少の息苦しさを感じつつ、歩いているうちに。

 リハーサル室に到着した。


「こちらで音出しになります。時間の五分前になりましら、一度声をかけさせていただきます」


 では、どうぞ――と言われ、中に入る。

 ちょうど前の学校の音出しが終わったところのようで、もうひとつある出口からは、知らない制服の生徒たちが出ていっていた。

 その人たちが出ていって、誘導係の生徒も出ていって。

 自分たちだけになったところで、どこかほっとしたような空気が流れる。


「うん、じゃあ音出しはじめよっか」


 そんな中、指揮者の先生の優しく仕切り直すような声が響いた。

 もう他の人はいないから、安心して自分たちを出していいよ――と言われたような気がして、段々と声が聞こえ始める。

 徐々に音出しが始まっていく。

 初めての会場の、未知の本番だけど。

 けれどもやっぱり、踏み出してみるしかないのだ。

 とりあえずは――これまでの成果を。練習してきたことを。


「ここまで来たら、やれることをやるしかないんだよ。音程を隣の人と合わせたり、歌ってリズム感を確認してみたり」


 そういうものの積み重ね――と、そう言う先生を、鍵太郎は眺めていた。確かにそのとおりなのだろう。

 気持ちだけではなく、そういった技術的なものの積み重ね。

 それは県大会が終わってから、今まで心がけてきたものだ。おかげで、あの頃とは比べ物にならないほど演奏は整えられた。

 綺麗なコードによく鳴る構成。

 それはコンクール用に調整された、自分たちの音だ。

 オペラホールに普段着で来るわけにもいかない。それが暗黙の了解で、ドレスコードというもの。


「……」


 けれど、どうしてだろう。

 やっぱりそこに、どうしても違和感を覚える自分がいるのは。

 聞こえる音も、人工物めいているように感じる。少しは、匂いもするけど――金属の中に木が生えたような、そんな根付いたものを感じるけど。

 認められるためには、上に行くためには。

 そういうものも、呑み込まなければならないのだけれど――なぜだろう。嚥下えんかできない自分がいる。

 先の大会に行きたいはずなのに。

 そう思って取った手段だったのに、土壇場になんて飛び込むのをためらっている。

 それは、あのお菓子の城を見てしまったせいだろうか。

 あの夢のような合宿の夜。

 どこか、理想を目指すことの虚しさを知ってしまったからだろうか――そんなことを思っていると。


「湊くん」


 咲耶が。

 スッと、あまりにも自然に声をかけてきた。


「大丈夫だよ。私たちはずっと、湊くんの傍にいるから」


 どんなことになっても、何があっても。

 みんな一緒だから、大丈夫だよ――と、強くも弱くもない調子で言ってくる同い年は。

 一年半前、選抜バンドで見たのと、似たような顔をしていた。

 いや、そのときよりももっと、芯の太さは増しているだろうか。

 あれから様々なことを経験してきて、より鮮明な眼差しになった彼女は。

 既に覚悟を決めて、この場所に立っている。


「……そうだな。あれから何もしてなかったわけじゃない、俺たちだって」


 現実と戦って、傷だらけになりながらもここまでやってきた。

 あのときの、衝撃に打ちひしがれて途方に暮れるだけだった頃とは違う。

 ちゃんと自分で選んで、自分たちの音でここまでやってきた。

 その結果が、どう転ぶか分からないけれど。


「信じてやるしかないんだ。ごめんね宝木さん、心配かけて。ありがとう」

「ううん、いいんだよ。ここまで来たら、やるしかない。本当だよね――結果は仏様のみぞ知る」

「神様、って言わないところがやっぱり宝木さんだよねえ」


 咲耶の久しぶりの仏教ギャグに思わず噴き出しつつ、そう言う。今のはわざとだろう。こちらの心をほぐすためにやってくれた、彼女なりの気遣いだ。

 そう――ここまで来たら、いつもどおり。

 原点に戻って、素直な気持ちでやればいい。

 いかに機械のガワを被ろうと、その奥にはいつも炎が宿っている。

 はじまりの火が。失えない光が。

 たからものが。


「よし、チューニングチューニング。今のうちにいっぱい息を吸い込んで、奥底にためておこう。なんていうかこう、丹田エンジンを動かす感じで」

「例えたものについてはよく分からないけど、とりあえず身体が緊張でこわばってるから、ほぐしておこうって話だってことは分かるよ」


 ものの形は通じなかったが、それでも伝わりはしたらしい。

 こちらも冗談が出てきたことに笑って、咲耶は自らも音出しに戻っていった。こういった、精神的に不安定になったときの彼女の気遣いは、とてもありがたい。

 それに何度救われてきたか知れない。信じるものは飛び越えて、そしてそっと近くにいるのだ。

 それだけで、いろんなものがどうにかなってきた。


「……よし、もう少しだ、もう少し」


 呑み下せなくても、それでも音はすぐ傍にある。

 こうなったら、もうそれに従うしかない。腹の底まで息を吸い込んで、楽器にたっぷり吹き込んで。

 振動で満たしたら、あとは周りの人とちょっと合わせてみればいい。

 その繰り返しだ。シンプルな循環。それが最も強い。

 慣れない場所にやってきて、自分の持っているものが通用するか、少し不安になってしまった。でも大丈夫。

 みんな、傍にいる。

 音出しをして。チューニングをして。少し合わせたらあっという間に時間になって。

 定刻です、の声と共に鍵太郎たちは部屋の外に出た。

 あとはもう、舞台に行くだけだ。

 相変わらずの迷路のような道を、誘導係の女の子について歩いていく。

 窓がなく、ひたすらに白い壁が続く。

 綺麗なのにどこか閉塞感を覚えるそれは、鍵太郎に長いトンネルを思わせた。


「トンネルを抜けると、そこは雪国だった――って、なればいいんだけどな……」


 東関東大会の先、東日本大会は北海道だ。

 この長いトンネルの先に、それがあればいいのだが。まあその有名な一文の指している雪国というのは、実は北海道ではなく新潟なのだとか、そういう話はさて置いて。

 気分的には、まさにそんな感じだった。

 色のない旅路の果て。窮屈な洞窟。

 今歩いている道は、県大会からこれまでの道のりそのもののように思える。

 するとこちらの言葉に、咲耶が返してきた。


「『トンネルを抜けると、そこは雪国だった。夜の底が白くなった』」

「夜の底?」

「あの文の続き。確かそんな感じだったと思う」

「そうなんだ……」


 あまりに最初の文だけをよく聞くので、その次の文までは意識していなかった。

 夜の底――あの運命の選択をしてから、聞こえてくる音は色あせて、まるで夜闇の中にいるようだったのだけれど。

 それが明けるのだろうか。

 太陽が差し込むように、真っ暗なものは晴れるのだろうか。


「――けれど少なくとも今は、あの子についていくしかない、か」


 真っ白い闇のようなこの空間の中で、背中を見せる誘導係の女の子を見る。

 彼女が持つ学校の名前が書かれた看板は、とてもはっきりと掲げられていて。

 まるで洞窟の中で炎を灯したランプを頼りに歩いているような、そんな感覚におちいった。

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