第394話 打楽器の舞台裏
まるで高校時代に戻ったようだ、とOGになった
薄暗い舞台裏。本番前の押し殺した興奮。
それらは、非常になじみがあるものだ。
さらに、自分と一緒に楽器を運んでいる面子も――
「ひゃっほーう! 先輩たちが来てくれたのなら百人力だぜーい!」
「ヒャッハー! 見ろよこの顔ぶれ! テンションが上がるぜーい!」
「おまえら、相変わらずノリが世紀末だなあ」
何も背負うことなく純粋に音楽をやっていた頃、制服姿で部活にいた者たちだった。
そして――OB、
卒業して、もうこんな風に一緒に楽器を運ぶことはないだろうと思っていたメンバーが、ここにはいる。
そのことに内心で首を傾げながら、優はティンパニを転がしていた。こうしていると自分が私服ではなく、まだ制服を着ている気分になるから不思議だ。
あの頃に戻ったのかと思ってしまう。いやまあ、あの頃とはちょっと違って、聡司とはどうにも面と向かっては話しづらいのだけれども。
こちらにも事情というものがあるのだ。事情が――などと。
そんなことを考えて、ひとつ上の先輩から目を逸らして進んでいたからだろうか。
優の視界に、同じくティンパニを運ぶ一年生が入ってきた。
「……む」
彼女の名前は確か、
両耳の下で、分けた髪をしばったおさげ。顔つきも年相応で、大学生になったこちらからするとすごく可愛らしい。
一生懸命大きな楽器を運ぶ様も、なかなかに好感が持てる。この後輩は県大会の予選でも打楽器運びをやっていたため、なんとなく覚えていた。
まあ、前回出会ったときは楽器の持ち方がなってなくて、ゆかりとみのり共々叱り飛ばしたのだけれども。
今回の彼女は、注意した点を踏まえて確実に仕事をこなしている。
そういった子は、今どきなかなかいない。大体が、最初につまずいた時点で投げ出してしまう。
けれどもそれでも食らいついてくる姿勢は、立派なものだと思った。
そう、それこそ今まさに部長をやっている、彼のように――と思って、優は奈々に話しかける。
「根岸さん、といいましたか。そういえば、楽器は何をやっているんですか?」
現役生でここにいるということは、舞台に上がるメンバーからは外れてしまったということだ。
けれどもそこは、彼のことである。メンタルケアもきちんとやっているだろう――そう予測して、そんな話題を振ってみる。
部員たちへの気遣いは現役部長だった頃、自分にはできなかったことだ。
その辺りを改善して、今年この部活は上手くいった。そして、こちらの予測は当たっていたのだろう。
奈々は特に表情に陰りを見せず、答えてくる。
「クラリネットです。でも、人数たくさんいますし。上手い人もたくさんいますし。わたしは初心者で入ったから、今年はみなさんのお手伝いをさせてもらってます」
「殊勝な心掛けですね……」
今まさに、後ろでキャアキャアはしゃいでいる現役の三年生双子に爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。
この一年生のように、素直に言うことを聞く人材は貴重である。こっちはそのことで、何度悩まされてきたことか。
とりあえず一回、ゆかりとみのりを注意して静かにさせる。ここは本番のステージの裏だ。下手に騒ぐと客席まで声が届きかねない。
演奏の邪魔になるようなことは、あってはならないのだ。だから打楽器パートはこの時間、本番に向けてワクワクしながらも、気持ちを抑えて小声になる。
いつものことだ。それがもどかしくもあり、そして楽しくもある。
そんな時間を、高校生の頃はずっと過ごしてきたのだった――と、卒業した今になって改めて思い知り、優はため息をついた。
あの頃には戻れないし、進むしかない。
悲しいけれど、それが現実というものだ。無邪気にはしゃいで楽しんでいた時代は、もう終わった。
だからもう、振り切っていくしかないのだ――そんなことを、相変わらずモヤモヤした気持ちのまま思ったそのとき。
奈々が尋ねてきた。
「貝島先輩は、学校祭のOBOGの演奏には参加されるんですか?」
「え」
後輩が言ったのは、今度の学校祭の企画のひとつだ。
現役生と、連絡がつく限りのOBOGを交えた演奏――それをやってみようという話になり、もちろん前部長である優のところにも知らせは来ている。
ただ、実はまだ返事をしていない。理由は言わずもがな、そこにいるドラムバカ関連で踏ん切りがつかなかったから――どんな顔をして一緒に演奏をしたらいいか、分からなかったからだ。
また楽器をやりたいという気持ちはあるし、このことだってそれこそ、吹っ切っていかねばならないことだと思ってはいる。
ただ、どうすればいいのかと迷ってしまったのだ――複雑な心中を先輩として悟られまいと、優は奈々に「……考え中です」とだけ答えた。
彼女は何も知らないし、知らなくていい。
むしろその気持ちなど永遠に埋もれさせたまま、放置してもいいくらいなのだが――奈々は「そうですかー」と、現部長である彼のようにほわりと笑い、言ってくる。
「
「そ、そうですね……。あなたのようにやる気のある子と一緒にできるなら、それはそれでいいですね……」
――ただ一点、そこにいるOBに対する感情を整理できれば、だが。
そしてその当の本人は、後輩の双子姉妹と仲が良さそうにコソコソおしゃべりなんかしちゃっている。人の気も知らないで。いや、言ってないこちらが悪いのだけれども。
それでも、こっちだけモヤモヤしているというのはなんというか、腹が立つものがないでもない。
振り切って、切り捨てて割り切って。
そうしてしまおうとついさっき決意したのに――そんな冷えた判断を吹き飛ばすくらいに。
『また、あの輪の中に入りたい』なんて気持ちが、こみあげてきたりもする。
なんの気兼ねもなく、こんな風に打楽器パートで、こっそり笑い合うことはできないだろうか――そんなことを立ち止まって、考えていると。
奈々は言う。
「はい、みんなで楽しいことができれば、すごく楽しいことになると思いますので! わたし、やっとみなさんと同じ舞台に立てます、やりたいことができます! だから先輩も、もし迷われているのでしたらやりたいことをやればいいと思います!」
「……」
そんな、何も知らないはずの後輩のセリフに。
優は驚いて、目を見開き彼女を凝視した。
「先輩は、どうしたいですか」――そう言って手を差し伸べてきた『彼』の姿に。
ほんの一瞬、奈々がだぶったように見えたからだ。
一年前、どうすればいいか分からなくて、立ち止まっていた自分に。
『何をしたいか』と訊いてきた現部長は、確かこんな顔をしていた気がする。
「……参りましたねえ」
もう戻れないし、進むしかないとか言っておきながら、立ち止まっていたのは自分だった。
あの頃から、何も変わっていない。どうも、ここが改善すべき自らの思考のクセらしい。
そう苦笑して、楽器運びを再開する。
振り切らなくても、切り捨てなくても。
前には、進めるのだ――そんなことを、またもや後輩に言われて、再確認してしまった。
「打楽器パートはこういった、本番前の孤独な運搬で絆を深めるものなんですけれども。お株を奪われてしまった感じです」
「? 打楽器の扱いに関しては先輩の右に出るものはいないって、湊先輩は言ってましたけど……」
「なんかその言い方だと、人間関係は右に出まくりみたいに聞こえますね。後でシメに行きましょう」
それはもちろん、学校祭に向けた練習の場で。
驚き、そして喜ぶであろう現部長の顔面を、ぶっ叩きにいくのだ――まあ、もちろん言葉のあやというやつだけれども。
前部長として、OGとして、そのくらいはしてもいいかもしれない。
そこにいる、ひとつ上の先輩のことは――まあ、なんとかなるだろう。
彼女が一緒ならば。
「ねえ、根岸さん」
「はい?」
「クラリネットが上手くいかないようなら、打楽器に来ませんか。よければ私、教えますよ」
「え……ええええええええっ⁉」
こちらの提案に、奈々は心底驚いたといった風に叫んだ。
それに、慌てて注意しつつ――すぐに口を結ぶ後輩に、やはり筋が良い、と感心して優は続ける。
「そこまでおかしなことじゃありませんよ。湊くんだって、最初はホルンでしたが途中からチューバになったんです。それであそこまでになったんですから、やってみる価値はあると思いませんか」
「え、ええと……そうかもしれませんけど。それって、入部からすぐの変更でしたよね……? わ、わたしにできるかなあ……」
「大丈夫。私が教えるんです。時期が早かろうが遅かろうが、下手になんかなりようがありません」
打楽器のこういった運搬作業は、他の部員たちとは違うルートをたどることになる。
だったら、彼女だって少しくらい普通とは違った道を歩んでもいいだろう。
入部してから楽器を変えた人間は何人か見てきたが、いずれもなんとかなってきた。
なら、平気だ。
奈々はちゃんと教えれば、必ず上手くなる。そしてその役割は、自分が引き受けてみせる。
「まあ、それが仮に、誰かさんと正面切って話さないため、だったとしてもですよ」
それでこの子が胸を張って舞台に登れるなら、結果的にいいことではないか。
そんな風に考えて、楽器を運ぶ。ステージまでの道のりは長く、そして驚きに満ち溢れている。こういった初めての会場ともなれば、なおさらだ。
いろんな思いを抱えつつ、迷路のごとき搬入経路のちょっとした段差に注意を払って進む。後ろからついてくる部員たちに、ここは気を付けろと呼びかけて――みんな仲良く、その段差を乗り越えた。
もちろん、それは現役生も、卒業した先輩もだ。
振り返ればなじみの顔がいて、前を向けばまだ事態を受け止めきれていない後輩がいる。
自分は高校生のときと何も変わっていないのではないか、なんて考えもしたけれど。
彼女の存在が、時は進んでいるのだと思わせてくれた。
「……なるほど。
楽器を介して誰かと関わり。
そして何かを変えていく。
卒業してからようやく、あの魔女のような同い年の心情の一端に触れられたような気がする。
それはこうしてここに来なければ、分からなかったことだろう。なら、やはり少々
自分は高校生の頃から大して変わらず、周りも頭を抱えるくらいそのまんまだが。
新しい面子を迎えて、そうしたら――少しだけ時を進めていいのではないかと思う。
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