第391話 絶景かな
せっかくだから、五階席まで上って演奏を聞いてみようということになった。
「うわー、高い……」
「こうやって見ると、舞台がちっちゃく見えますねえ」
東関東大会の会場、そのホールの最上階で。
地元のコンクールの会場も三階席ともなればかなりの高さだったが、五階ともなるともう訳が分からない。
見るべき舞台は小さくて、そしてその上にいる奏者たちはそれ以上に小さく見える。
そして一階の床までは、さらに距離があるように感じられる――手すりの向こうにあるその景色を見て、恵那はぼんやりとそう思っていた。
「ん、まあとりあえず座って聞いてみましょうか」
コンクールの本番ということもあり、とりあえず他の学校の演奏を聞いてみようという話になったのだ。
聞こえ方がどういった感じか。まあ、審査員は二階で聞いているのだから、本来はそこに行くべきなのかもしれないが。
やっぱり限界にまでチャレンジしておきたかったのだ。思い切りいい高さに。
もしここで聞いて音がよく聞こえないようなら、大人しく他の階へ移動するつもりである。ものは試し――と、二人は並んで座り、始まった演奏に耳を傾けた。
周りにあまり、人はいない。
「……やっぱり遠いからか、楽器によっては聞き取りづらいものもあるね」
耳に入ってくる音楽に、恵那がそんな感想をもらす。
その学校がそうだからか、このホールの構造がそうさせるのか、距離感の分だけ聞き取りにくい箇所がある。
もっと大勢の、そう、例えばフルオーケストラでやったらこのホールも音でいっぱいになるのだろうけれども。
少人数編成だと、さすがにここまでは届き切らないのだろう。そう、たとえばあの先輩のやっている、低音楽器のチューバとかは――
「……」
吹奏楽編成の一番底にあるあの人の楽器は、なかなかここまで響かせるのは厳しいかもしれない。
いかにベルが天井を向いていようとも、低音というのは高音に比べてどうにも聞き取りづらい。しょうがないことなのだろうけども、と思いつつ、恵那はその金色の楽器をじっと見た。
届け。届け。
そんな願いを込めつつ――
「まあ、結局はよく響かせて吹いた方がいいって結論に達しますよね」
「――そうだね」
隣にいた朝実の発言に、ふと我に返る。
そう、今は演奏を聞きに来たのだ。決して、あの人への思いを叶えに来たのではない。
だから、
きのうお風呂場で、そう改めて誓った。だから今日は、本番に集中だ――大切なものを、台無しにしないように。
「やっぱり、ちゃんと二階席で聞きますかー。まあ、いい眺めだったので五階まで来た甲斐はありましたけどね。なかなか見られない、いい景色でした」
「うん」
絶景かな、絶景かな。
まるで秘境の奥へ滝を見に来たような、そんな感覚がある。
勢いよく、流れ落ちる大量の水。それは
そういえば、絶景かなという言葉も確か、春の桜を指したセリフではなかったか。頭に浮かんだ滝の景色に、満開の桜を足して、恵那は小首を傾げた。
それは『
間違っても、その景色を
ギリギリのところで踏みとどまって、隣にいる友人に感謝する。彼女がいなかったら自分は、突発的にそんな行動に出てしまっていたかもしれない。
キラキラと。
舞い散ってしまうのも、いいかもしれないなんて――そんな風にも考えてしまったのだから。
「じゃあ、行きましょうか恵那ちゃん。正しく二階席にれっつらごー、です」
「分かった」
その学校の演奏が終わって、朝実が立ち上がる。
基本的にホール内への入退場は、演奏の合間にしかできない。だから今のうちに通常どおりの席に移動しなければならないのだ。
名残惜しく、振り返る。そこでは先ほど演奏した学校の生徒が、チューバを持ったその人が、歩いていた。
そして手すりの向こう側には、とても届かない遠い地面がある。
「……」
「どうしたんですか恵那ちゃん? 大丈夫ですか?」
黙って手すりを握って下を見ていたら、同い年に声をかけられた。
それに恵那は、にっこり笑って応じる。
「大丈夫だよ」
ここから身を投げたら。
あの人はわたしのことを見てくれるのかな、なんて。
「そんなこと、思ったりしないよ――」
笑いながらそう言って、彼女は友達の元に向かった。
手すりの向こうの、絶景はとても魅力的で。
思わず身を投げたくなるほど、深くて暗い底があるような、そんな風に思えた。
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