第390話 天の色彩

 せっかくだから他の学校の演奏も聞こうと、ホールの中に入ってみる。


「おお、やっぱりすげえ……」


 五階席のオペラホール。その中に入って、湊鍵太郎みなとけんたろうは呆然と声を上げていた。

 普通の会場は、大きくても三階席。

 県大会の会場はそうだった。しかし東関東大会の会場であるここは、やはり構造からして全く違っている。

 まず、舞台両脇にはギリシャの神殿がごとき縦線の入った太い柱がある。

 そしてその脇には、舞台を横から見下ろせる観覧席。オペラホールというだけあって、この会場は演奏だけではなく演劇にも使われるのだろう。

 夏休みにこの会場の前に来たときも思ったが、なんとなくふわふわな扇子を持った仮面の貴婦人が、高座から優雅に観劇をしているような気がした。

 そのイメージは中世だと顧問の先生に突っ込まれはしたが、格調高いこの雰囲気を前にするとそれもあながち間違っていないと思うのだ。

 惜しむらくは、そのときの想像と違って、ここの天井には絵画が描かれてないということか――と、顔を上げたまま鍵太郎が立ち止まっていると。


「おーい湊、こっちこっちー」


 同い年の浅沼涼子あさぬまりょうこが、向こうから手を振ってきた。

 しょうがないので近くに寄ってみる。ちょうど、ひとりで演奏を聞くのもどうかと思っていたことだし――と、なんとなく言い訳して鍵太郎は、彼女の隣の席に座った。

 一応これでも、涼子は音大志望である。演奏を聞いて、彼女がどんな感想を述べるのかも聞いてみたい。

 扇子を持った貴婦人とは、まるで縁のなさそうな元気娘ではあるけれども。


「さっきから聞いてるけど、やっぱりどの学校もすごいねー。なんかこう、ふわっていうか、ブワワワーン! っていうか? とにかくみんな上手いってよく分かるよ!」

「……おまえにまともな言い回しを期待した、俺が馬鹿だった」

「? 湊は馬鹿じゃないよ?」


 きっと、音楽に関してはすごく深いことを言ってくれるんだろう――なんて思っていた時期が、自分にもあった。

 そんなものは一瞬で打ち砕かれたが。しかしとにかく、彼女が部活で群を抜いてレベルの高い吹き手であることは間違いない。

 たとえそのレベルの高さを、周りとうまく共有できていなかろうとも。そんな平常運転のアホの子と一緒に、鍵太郎は大会の演奏を聞くことにした。

 舞台上では整然と奏者たちが並び、演奏開始の合図を待っている。静かに、粛々と――自分もここに上がったら、そんな風に見えるのだろうか。

 こちらの出番はあと数時間後。

 その短い間に、こんなかっこよくなれるのだろうか――そう思っていたら。

 乗っている学校の名前がアナウンスされ、演奏が始まった。

 当たり前だけど。


「上手いなあ……」


 聞いていて、そう思わずつぶやいてしまうくらいレベルが高い。

 それはそうだ。ここは支部大会。それぞれの県を代表してきているのだから、そう感じるのも当然である。

 実に不勉強なことに知らない学校だったけれども、きっとここもたくさん練習して、この舞台までやってきたのだろう。

 そう感じさせるほどの吹きっぷりだった。そして、これも意外なことだったのだけれども――違う県の代表校だからか、演奏の雰囲気がこれまで耳にしてきたものと、ちょっと違うように聞こえるのだ。

 自分たちの県の音とは、そもそも質感が違うというか――同じ曲をやったとしても、油絵と水墨画くらい印象が変わりそうというか。

 県民性というのが出るのだろうか。育った環境で、こうも違うのか――その学校の演奏はよくブレンドされ、丁寧に織られた手触りのよい布のように思える。


「うーん、なんだろ。素材と音のブレンド比率の違いか?」


 そう首を傾げつつ、混ぜるブレンド、という言葉に絵の具を連想する。

 先ほど、絵のことを考えていたからだろうか。油絵と水墨画の違い。ひょっとしたら、このオペラホールの天井に描かれていたかもしれない絵画。

『プリマヴェーラ』。

 世界でもっとも有名で、そしてもっとも議論の的となっている絵画作品のひとつ。

 手法としてはテンペラ。卵と顔料を混ぜ合わせて作られた絵の具。

 異なるものを組み合わせて、そして描かれた極彩色の絵――

 そんなイメージがよぎったところで。

 その学校の演奏が終わった。

 しばしの沈黙の後、指揮棒が下りるのを待って、拍手が起こる。それと共に、鍵太郎も手を叩いていた。

 東関東大会のレベルの高さを思い知ると同時に、世の中はまだまだ広いんだなあ、と思わせる演奏だった。

 そういうところには惜しみなく拍手を送りたい。ここに出る学校は全部ライバルかもしれないけれど、そんなのは関係なくすごい演奏だと思った。

 同じ『上手さ』でも、どの学校もそれぞれ違いがある。

 それが涼子の言う『ふわっ』とか『ブワワワーン!』ということなのかもしれない――そんな風に考えて、隣を見たら。

 同い年のアホの子は、拍手をしながらどこか中空を見つめていた。


「……え? 浅沼? どうしたんだ? ついに脳みそが退化したのか?」

「えっとねえ、なんていうか、口では言いづらいんだけど」


 まるで猫が宙を見るような仕草に、ドン引きした鍵太郎だったが。

 涼子は特に、いつもと変わりないらしい。舞台の少し上、緞帳どんちょうの上がった辺りを見ながら、彼女は続ける。


「上手い学校ってさ。演奏が終わった後、風が吹くみたいに響きが残る気がするんだよね。あたし、それがすごく好きでさ」

「響きが残る……余韻よいんみたいなもんか?」

「うん。まあ、そんなとこー」

「おまえ絶対、余韻の意味が分からずにうなずいてるだろう」


 適当に相槌あいづちを打ってきた同い年に、半眼で突っ込む。

 しかしまあ、言いたいことはなんとなく分かった。

 曲が全部終わった後に残るあの響きは、独特だ。

 他の全てが沈黙しているのに、空気だけが震えているように見える。

 ホールの上の部分が。天井が。

 まるで、何かを描くように――渦を巻いて。広がって。

 吹き抜けていくように思える――それは何かに導かれるように。祝福するかのように。

 上手いところほど、それが大きい。そう言う涼子の主張は、なんとなく当たっているように思える。


「なんだかんだ、言葉遣いはアレなのに、内容は核心をついてるっていうのが、こいつのムカつき天才ポイントなんだよなあ……」

「いやあ、それほどでも」

「褒めてねえよ」


 いや、本心では褒めているのだけれども。

 彼女の全ての才能と、そしてそこにつながる何かを愛しているのだけれども――それは、いつものやり取りの間に隠すことにして。

 同じく中空を見上げ、鍵太郎は涼子に言った。

 舞台の上に広がる空気。

 そして、そこに絵の具を垂らして、広げていく様を想像しながら――


「なあ、浅沼」

「ん?」

「絵を描こう。このホールの天井に。『プリマヴェーラ』の絵を」


 曲と同名の絵画を。

 そこに映し出せたら、こんなに素敵なことはない。

 異なるもの同士を混ぜ合わせて。それぞれの色を、それぞれの色と組み合わせて。

 あのたくさんの花びらが舞い散る、神様たちの絵を――そんな光景を、鍵太郎が想像していると。

 同い年はきょとんとして、そんなこちらに言ってきた。


「うん? それって、はしごをいくつ使っても足りなくない?」

「たとえ話だ、たとえ話! そのくらいの気持ちでやろうって話だよ、分かったか⁉」

「あ、なるほどねー。分かった分かった」

「なんか分かられてる気がしない! ちくしょう!」


 軽い調子でうなずいてくる涼子に、頭を抱える。

 けれども、彼女が音楽のことについて「分かった」と言ったら、それは現実になるのだ。

 それはこの同い年との長年の付き合いで、よく分かっていた。

 レベルの高さ、ベルの先からビームのように飛んでいく音。

 そしてある意味では、誰よりも核心に近い本能。

 それらを組み合わせれば――そして、それを異なる誰かと混ぜ合わせれば。


「ああもう、こうなったら時間いっぱいまで他の学校の演奏聞いて、ホールの響きを研究するぞ浅沼! 付き合え!」

「うん、いい感じの響きを聞いてみよーか。なんかこう、ドーン、ズバババーン、ひゅわわーって感じの」

「くっそう、同じものを語っているはずなのに、なんか別のことを話している気がしてならねえ⁉」


 この五階席のオペラホールの天井に。

 あの祝福された旅路の絵を描けそうな、そんな気がする。

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