第383話 脂肪の奥のマッスルパワー

「あー、楽しかった」


 花火をやり終え、後片付けをして。

 湊鍵太郎みなとけんたろうは合宿所の施設内に戻って、そうつぶやいていた。

 久しぶりにやる手持ち花火は改めて新鮮だったし、綺麗だと思った。

 最後にやった線香花火もギリギリまでどうやって落とさないかを後輩と競ったりもして、楽しい時間を過ごせたように思う。

 明日の本番に向けて、充実した気分になることができた。

 あとは、こちらも風呂に入って休むだけ――と、鍵太郎が自分の部屋に帰ろうとすると。


『先輩、腹筋見せてください!』

「なんで⁉」


 そうは問屋が卸さない、とばかりに二年生たちが大挙して押し寄せてきて、鍵太郎は悲鳴をあげた。

 なぜかは知らないが、全員の目が爛々らんらんと光っている。

 風呂上がりなのだろうか。みなラフな格好に着替えていて――髪を乾かすのもそこそこに、急いで来た感じだ。

 どうしてこうなったのか。恐れおののいていると、その中にいた宮本朝実みやもとあさみが悪びれもなく言ってくる。


「いやあ。さっき二年生の女子お風呂の会で、湊先輩の腹筋ってどうなってるんだろうという話になりまして。盛り上がったので、そのまま確認しに来ました」

「経緯は分かったけど、この異様な熱気なに⁉ 突っ込みどころが多くて追い付かないんだけど⁉」

「そういうことは別に気にしないで、先輩はそのTシャツをめくってご自分のお腹を見せてくれればいいんですよ、ホラホラ」


 そんな朝実の声と共に、後輩たちがじり、じり、と迫ってくる。

 流れは理解したけれど結論が納得いかない。そんな風に思っていると、その熱狂の元凶が顔を出してきた。


「そうです先輩……。わたし、見たいです先輩の腹筋……見せてください、ね?」

「この妙な雰囲気はきみのせいかい、野中さんッ⁉」


 笑っているはずなのに目が全然笑ってない、野中恵那のなかえなに向かってそう叫ぶ。

 恵那のほの暗い好意は、以前から知っていたがそれが集団で来られると超怖い。

 こちらを好いてくれているのは嬉しいが、その出力の仕方を決定的に間違えている。そんな彼女にあてられて、そして朝実がさらにそんな学年をまとめ上げて――悪夢の軍勢と化した後輩たちは、徐々に鍵太郎を壁際かべぎわまで追い込んでいた。


「腹筋割れてますか? 低音楽器の人は身体の負荷も大きいから鍛えられてるって本当ですか? いやわたしも低音楽器ですけど、金管の人とはやっぱりまた違うというか。ええ」

「先輩……。先輩の腹筋……ええ、わたしすごく興味あります。妄想するだけじゃなくて、この目で……しかと……」

「分かった分かった分かった! 見せる! 見せるから! みんな、もうちょっと落ち着いて、ね⁉」


 朝実と恵那、次期部長と副部長の統率力が分かったのは嬉しいが、今ここでそれを発揮しないでほしかった。

 というか、なんで皆そんなに人の腹筋に興味があるのか。

 ああ、でもそういえば、前も自分はひとつ上のフルートの先輩の腹筋に興味があったよなあ――と思い出しつつ。

 言われるがままに、鍵太郎はTシャツの裾をめくった。ひんやりとした空気が、お腹に当たる。

 その冷気に少しだけ我に返って、あれ、なにしてんだろ俺――と鍵太郎が内心首を傾げると、朝実が言う。


「あれ、なーんだ。割れてないじゃないですか。ガッカリですね」

「いや、見せてくださいって言っておきながら何その言い草……」

「シックスパックとはいかないまでも、うっすら割れているくらいは期待していたのですが」

「みんな筋肉に夢を見すぎだろう。というか楽器を吹くのにそこまでのマッスルパワーはいらないと思うよ?」


 リアクションについては予想していたが、あまりにあからさまな朝実の反応には、正直そう言わざるを得ない。

 合宿所の空気にさらされた自分の腹部は、特に割れるわけでもなく普通の姿形すがたかたちをしている。

 楽器を吹くからといって、別に腹筋が鍛えられるわけではないのだ。いや、正確に言うなら鍛えられてはいるのだが、目的がボディービルダーになることではなくいい音を出すことなので、そこまで見た目に出るわけではないのである。

 健全な高校生男子としては、『筋肉がない』と言われることはちょっとグサッとくることではあるのだが――まあ、つまりは彼女たちも同様に、鍛えられた身体にあこがれというものがあったのかもしれない。

 だからこそ、だろうか。

 部内唯一の男子部員のプライドを刺激され、鍵太郎は後輩たちに言った。言ってしまった。


「確かに割れてないけど、腹筋自体は鍛えられてるよ。触ってみれば硬いのが分かるし」

「あ、じゃあ触ってみてもいいですか?」

「え、あ、うん、いいけど……」


 あれ、今すごく墓穴を掘らなかっただろうか。

 言ってみてからすごく嫌な予感を抱いた鍵太郎だったが、時すでに遅し。

 冷や汗をかくその腹部に、朝実は人差し指を伸ばしてきた。


「あ、ほんとだ。奥の方はすごい硬いです」

「だ、だろう?」


 つんつん――とつつかれるのを、多少くすぐったく感じつつそう応える。若干の得意げな感じが出たのは、後輩の女子部員たちの手前許してほしい。

 打楽器のあの男の先輩のように腕に大きな力こぶができるわけではないが、こっちだって腹回りはそれなりに鍛えられている自信がある。

 皮下脂肪があるため分かりづらいが、絞ればそれなりにはなっているはずだ。

 と――まあ、そんな風に言って事を収めようとしたら。

 その前に、他の後輩たちがこちらの腹部に手を伸ばしてきた。


「おおー。すごーい、かたーい」

「やっぱりちゃんとやってると、このくらい立派になるんですねえ」

「もったいないですよ先輩ー。絞ればもっとかっこよくなるのに」

「ちょ、みんなくすぐったいからやめ……!」


 寄ってたかって撫でたりつつかれたり、そんなことをされればこっちだってどうにも恥ずかしくなる。

 穏便に事態を収束させるつもりが、火に油を注いでしまった感があった。地雷といってもいい。下手に手放したら、かえって泥沼になりそうな、この雰囲気――


「って野中さん、どこ触ってるんだよ⁉ ドサクサに紛れて変なことするのは止めなさい⁉」

「えへへへへ……。先輩の身体を合法的に触れる機会……逃すはずも、ありません……」

「ひょああああっ⁉ ていうか冷静に考えたら、女子の集団に見られながら服を脱いで、撫で回されるってどういうプレイ⁉ おかしくない⁉」

「おかしなことを考える先輩の方がおかしいんですよ。やだなあ」

「って言いながら宮本さんもムチャクチャ楽しそうに笑ってるんだけど⁉ あの黒魔女を彷彿ほうふつとさせるんだけど⁉ あ、ちょ……野中さん⁉ や……らめ、らめええええええええええっ⁉」


 どこかネジの外れた女子の集団にもみくちゃにされながら、鍵太郎は叫んだ。

 合宿所にこだまするその声は、夜の空にも響いていって。

 花火が消えても、狂乱の渦の中でも。

 それでも楽しい時間は、まだまだ終わらない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る