第382話 身体を洗われるより恥ずかしい

 そして、庭で花火が行われ、演奏が流れていたのとさらにさらに同じ頃。


「メガネ……メガネがないと何も見えない……」

「大丈夫? 朝実あさみちゃん……」


 女子風呂では、二年生の宮本朝実みやもとあさみ野中恵那のなかえながそんなやり取りを繰り広げていた。

 普段の朝実は、度の強いメガネをかけている。しかしやはり風呂場では外さざるを得ない。

 結果的に次期部長は、目を細めて手を前に出しながら、探り探り歩くという姿になっていた。もちろん真っ裸なので身を守るものなど何もない。転ばないように慎重に、湯気でけぶる床を進んでいく。


「メガネの人って、こういうときシャンプーとリンスどうやって見分けるの? 色とか?」

「……色もあるけど、基本的には、ボトルを手に持って顔に近づけて、シャンプーって書いてあるかどうかを確かめる感じですかねえ。家にあるやつだったら分かってるからいいけど、こういうところのだといったん見ておかないと……って、よっと」


 恵那の素朴な疑問に答え、朝実は風呂イスに座り置いてあるボトルを手に取った。合宿所に備え付けのシャンプーはピンク色、リンスはさらに濃い、オレンジがかったピンク色をしている。

 さらにボディーソープは深い緑色で、ここまで分かれば間違えて泡を頭から被ることもなさそうだった。確認し終えて彼女は同い年に、笑顔で言う。


「ようし、恵那ちゃん調子悪いんでしょう? わたしが身体洗ってあげますよ! こう、隅から隅まで!」

「朝実ちゃんの頭の中の方がピンク色に見える」


 わきわきと手を動かしながらそう言うと、恵那はその長い前髪の下の目を半眼にして突っ込んだ。

 こういうときも意外と落ち着いているあたりが、彼女がこの失言大王と仲良くなれている理由なのかもしれない。

 バス酔いは未だ恵那を本調子にさせていないが、それでも身体くらいはひとりで洗える。そう応えると、朝実は自分の両手を見てきょとんとした。


「そうですか……。あれ、おかしいな……? 高久たかく先輩が、そういう友達がいるんなら助けてあげなさい、って言ってたんですけど……」

「あの先輩とは実はあんまり話したことはないけど、それでもただの善意でそう言ってるんじゃないってことは分かるよ」

「そうですかー。クラリネットとバスクラリネットって、やっぱり同じパートでもちょっと違うんですね」


 同じ黒い楽器でも、また感じが違うんですねえ――と、外見のことなのか内なる闇のことなのか、金ぴかサックスの二年生はのほほんと笑った。

 そして。


「えいっ」

「ひゃっ……」


 それまでの流れを断ち切って、朝実は湯桶ゆおけに溜まっていた中身を、恵那の頭にぶちまけた。

 これにはさすがの同い年も平静ではいられない。小さく叫んで、上から下までずぶ濡れになる。

「……⁉ ……⁉」と目を白黒させる恵那に向かって、朝実は言う。


「でも、ちょっとやりたいことがあるので頭を洗わせてください。というか洗います」


 そう口にするや否や、シャンプーをポンプから出して、次期副部長の髪にかける。

 そのまま、わしゃわしゃ――と泡立て始めて、朝実は同い年に声をかけた。


「かゆいところはないですかー」

「な、ない、です……」


 本当はあるのだけれども、そう言ったらワガママかな、迷惑かな、といった美容室に行ったときの思考で恵那は応えた。

 朝実の手つきはお店に行ったときのものに比べれば雑なものだったけれども、その分だけ小さい頃、親に頭を洗ってもらったときのことを思い起こさせる。

 がしがし、と乱暴に撫でられているような。

 うっとおしかったけれど、悪い気分ではなかったというか――そんな忘れかけていたときのことを、思い出していると。

 朝実がおでこの上あたりを指で洗い、そのまま前髪を左右に分けた。


「はい。でこ出し恵那ちゃん」

「……ッ⁉」


 鏡の中に出てきた、久しぶりの自分の素顔に絶句する。

 前髪で視線を隠すようにして以来、おでこまで出すなんてことはなかった。というか、自分で自分の顔じゃないように思えて――ものすごく、間抜けでみっともない顔のように見える。


「あ、朝実ちゃん……!」

「ん? なんですか?」

「や、やめて、恥ずかしいから……⁉」


 言いつつ、慌てて前髪を分ける同い年の手を押さえる。ある意味では、これは身体を人に洗われるより恥ずかしい行為だ。

 印象が変わり過ぎる。誰だおまえ、と鏡の中の人物に問いたくなる。

 たかが前髪だけで。

 こんなにも、見た目は変わってしまうのか――そう、恵那が泣きそうになりながら顔を赤くしていると。

 朝実が言う。


「かわいいと思うんですけどねえ」

「……」

「一回やってみたかったんです。恵那ちゃんが前髪をこうしたらどうなるか。きっとかわいいんじゃないかって思ってました。よく見えないけど」

「……最後の一言は余計だよ」


 相変わらず、思ったことは包み隠さず素直に言ってしまうこの同い年である。

 そう、だからこそ信用できると、出会ったときから思っていたのだ。彼女は裏表がない。嘘をつかない。

 ならば、きっと――『かわいいと思うんですけどねえ』という。

 その言葉は、偽りではないのではないかと思う。


「……みなと先輩は、前髪のないわたしの方が好きかなあ」

「あの人は、どっちでもよさそうですけどねえ。でも、一回その格好をしたら結構、喜んでくれるんじゃないかって思いますね!」

「そっかぁ」


 朝実の言葉に、再び鏡を見る。

 そこには、やっぱり間抜けな、おでこ丸出しの自分がいた。

 けれども、ちゃんと整えたら――もう少し、慣れてきたら。

 好きな人の前で、そんな自分を見せてもいい。そんな風にも思える。


「……でも、まだその時期じゃないね。わたしも、先輩もびっくりしちゃうもん」

「そういえば、先輩の部屋に夜這よばいに行ったりしないんですか。する気満々のように見えましたけど」

「む。しません。いくらわたしでも、本番の前の日の夜にそんなことはしません」

「まるで、そうでなかったらしてる、とでも言いそうな口ぶりですね」

「がまんしてるもん。がまんしてるもーん」


 そんなことを言い合いながら、二人は頭を洗ったり洗われたりしていた。

 ひととおり洗い終わって、泡を流して――今度はリンスを恵那の髪につけながら、朝実は言う。


「けど、あれですね。吹奏楽部の人って腹筋割れてる人もいるかと思ってましたけど、こうして見るとそうでもないですね」

「楽器を吹くときに、そこまで筋肉はいらないってことなんじゃないかな……。ていうか朝実ちゃん、胸だけじゃなくてそういうところも見てるの? よく見えないんじゃなかったの?」

「メガネをかけたら、もっとよく観察したいところです。特に、湊先輩がどうなってるのか」

「湊先輩の腹筋……?」


 その単語に、恵那がピクリと反応する。

 同い年のことを『頭の中がピンク』と即座に指摘するくらいに、彼女も想像力のたくましいピンクである。

 特に、好きな人のこととなれば。割れているのか、そうでないのか、そもそも着ているシャツを自身がめくってくれるのか、こちらがめくるのか――そんなことを考えるだけで、ドキドキが止まらない。


「まさか、シックスパックってことはないでしょうけどねー。あの糖分ラブのことですからそこまで身体を絞っているわけではないでしょうし、バッキバキに割れてることなんてことはないと思いますけど――」

「朝実ちゃん」


 なので、首を傾げる同い年に、恵那は静かに笑って言った。

 ピンク色よりさらに濃い色彩のボトルから出た、リンスをべったり張り付けて彼女は言う。


「お風呂から上がったら、湊先輩の腹筋を見せてもらいにいこう」

「わーい、行きましょう行きましょう!」


 我慢しているからこそ、その瞳の中には燃え上がるものがある。

 抑え込んだ恋心を抱えた後輩に、天然の扇動者気質を持った後輩。

 二人の厄介な次期役員にこの後襲われることになるとは、花火をしている鍵太郎けんたろうは思いもしない。

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