第381話 アメイジング・グレイス

 そして花火で遊ぶ生徒たちを、城山匠しろやまたくみは合宿所のロビーから眺めていた。


「……」


 夜の庭で、噴き出す光に照らされてはしゃぐ二人の顔は、とても楽しそうに見える。

 それを記憶の中の『彼女たち』に重ね合わせて、城山は目を細めた。かつての指揮者としての自分は、もうそこにはいないけれど。

 その光景は、どこか。


「懐かしいですね」

「……女将おかみ


 と――後ろから声をかけられたので、振り返る。

 するとそこには、この合宿所の管理人の都留つるがいた。割烹着に柔らかい垂れ目。品よく笑うその姿は、まさに女将といった様相だ。

 昔と、何も変わらない。


「以前ここにいらしたときも、あんな風にはしゃいでいたものです。生徒さんも、あなたも――ねえ、城山さん?」

「……僕も、若かったですからねえ」


 もう、十年近く前になるだろうか。

 教えていた学校の生徒たちと、ここにやってきたことがある。あの頃は、背負うものも特になく、気楽で、身軽で――だからこそ、無鉄砲だった。

 持っているものがほとんどなかったから、捨てるものもなかった。

 それゆえに走り過ぎてしまった、というのはある。大切にしようと手に持っていたら、そのまま握りつぶしてしまったのだ。

 力加減すら、全く知らなかった。

 あれは、若かったで済まされるものなのだろうか。

 ずっと、自問自答してきた。すると都留は、こちらの返答にくすくすと笑って言う。


「そうですねえ、若かったですよね。少なくとも、部屋の障子しょうじに酔っぱらって全部指で穴を開けるくらいには」

「やめてください。昔のことです」


 急に自分の恥ずかしい過去を出されて、城山は頭を押さえた。親戚に小さい頃の失態を、大きくなってから言われたときのような恥ずかしさだ。

 あと、そのときの障子紙は責任を持って自分が張り直したはずだ。ご丁寧にも、枠内全部に指を突っ込んで穴だらけにしたあの真っ白い紙を――この女将に怒られながら。

 そう、彼女こそこちらのかつての姿を直接知る、数少ない人間なのだった。

 しかし、ずっと一緒にいたわけではない。それこそ年に数度会う、親戚のようなもので――苦い顔をしていると、都留は続ける。


「でも、安心しました。人づてにあちらの学校を辞められたと聞いたときは、とても驚きましたので……今日のお変わりない姿を見たときは、本当によかったと思ったんですよ」

「……僕、そんなに変わってません?」


 元気そうでよかった、と言いたいのだろうけれども。

 先ほど意地悪をされた身としては、素直に受け取れずそんな風に言い返してしまう。ここに来なくなって十年、自分なりに色々やってきたつもりだった。

 けれどもそんなに、進歩なく見えるのだろうか。それこそ子ども並みのイタズラをしていた、あの頃のように――そう思っていると、女将はじっとこちらの顔を見てきた。

 年月は経ち、経験を積み。

 外見もそれなりに、変わっているはずだ。よくよく見返せば、都留も少しだけ目元にしわが増え、歳を取ったように感じられる。

 まあ、そんなことを言ったらまた怒られるのが目に見えているので、口には出さないけれども――そんな世渡りのすべばかり変に上手くなってしまって、本当に嫌になる。

 あの頃とはもう、変わってしまった。

 それが寂しいような気もするし、ほっとしたような気持ちにもなる。それがここに来てから、ずっと波のように寄せては引いてを繰り返しているのだ。タバコでごまかそうにも今は止めたし、酒を飲んだら歯止めが利かなくなりそうだし。

 何かを聞いていないと、まるで落ち着かなかった。

 だからこうして、テレビをぼーっと見ていたのだ。そうしたら、教え子のひとりがやってきて――と、思っていると。

 女将はにっこりと笑って、口を開いた。


「うん。変わってません。城山さんは、やっぱり城山さんです」

「……女将」

「申し訳なさそうに障子を張り替えていた、あのときと同じ顔です。だいぶ経ちましたが、根本は一緒ですね。本当に懐かしい」


 そう言って、彼女は再び窓の外を見た。

 そこでは今の生徒たちが、楽しそうに花火をしている。

 炎に照らされて――ちかちかと瞬いている。


「思い出しますよ。あなたが生徒さんたちと、一緒にああしていたときのことを。キャンプファイヤーをやって、その火をみんなで囲んで。しゃべってケンカして、それから――楽器を吹いていたときのことを」

「……」

「あのときはわたし、それを見てるだけでしたけれども……あれからちょっとだけピアノを習って、弾けるようになったんですよ。ご一緒にいかがですか?」


 練習室のピアノ、時間的にはまだ音出しができます――と、女将はホールのカギを取り出した。

 彼女は、伴奏を務める、と言っているのだ。

 あのとき、自分が吹いていた曲の。今となっては皮肉なのか巡り合わせなのか、不思議な縁を感じる曲の、そのタイトルを思い出し。


「――そうですね。やりますか」


 城山匠はかなわないなあと苦笑して、そう言ってうなずいた。

 その返答に、都留は嬉しそうに微笑み、うなずく。


「そう言うと思ってました。だってあなたは――あのときと一緒で、今日もここに楽器を持ってきたんですから」



###



 花火をしていると近くのホールから演奏が聞こえてきて、湊鍵太郎みなとけんたろうはそちらを向いた。

 ピアノの音と、トロンボーンの音。前者は誰が弾いているのか分からないが、後者はそのハッとするような響きで、誰のものかすぐに分かる。


「城山先生……」


 あの同い年のアホの子とは、また違う。

 彼女も上手いが、あの指揮者の先生の音はそこからさらに、深みが加わるのだ――その道のプロだからこそ出せる、本物の音。

 圧倒的な柔らかさと、優しさ。

 でも、しっかり芯がある響き――そんな音を聞いて、鍵太郎は我知らず息をついていた。

 すると、一緒に花火をしていた同じ楽器の後輩が言う。


「この曲、聞いたことあります。……ええと、なんて名前でしたっけ?」


 流れてくる演奏に首を傾げると、彼女の短めの髪が揺れた。そんな後輩は、あの先生の過去を知らない。知らなくて良い。

 けれども、せめてこの曲名だけは覚えておいてもらいたい――そんな気持ちを込めて、鍵太郎は答える。


「これは、『驚くべき恵みアメイジング・グレイス』って曲だよ」


 思わぬところから誰かに救われた、そんな心境を歌う曲。

 それを聞いた後輩は、「ああ、そうでした!」と無邪気に目を輝かせた。その様は、ひょっとしたらあの先生がかつて教えていた、どこかの学校の生徒たちに似ているのかもしれない。

 真相は、城山自身しか知らない。

 しかし、この曲を選んだということは――当時の彼の周りにいた人間は、もうここにはいないけれども。

 あの人はきっと、どこかで許されたのではないかと――そんな風に思うのだ。

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