第372話 一生懸命の隣
「また、来ちゃいました」
学校近くのホール、その舞台上で。
思い返してみれば、自分たち三年生は県大会前に、このホールに向かって「ありがとうございました!」なんて言っていたわけで。
あのときは、このホールに来るのも最後になるかもしれないと思って、そんなことをしたわけで――けれどまたのこのこと顔を出したというのは、なんだかちょっと気恥ずかしい。
ひょっとしたらもう二度と、ここからの景色を見られないかもと思っていただけに、もう一度ここに来られたというのは不思議な感じがした。
そして、今回こそ最後の機会かもしれないのだ。東関東大会で金賞代表になれなければ、自分たちの代が部活でここを訪れることはもうなくなるだろう。
そう思って鍵太郎が客席を眺めていると、同い年の
「……どうしたの? ぼーっとして」
「いやあ。またここに来たいなあって思って」
毎度おなじみ、予算の都合で客席は借りていないため、明かりが点いているのは舞台上のみだ。
そのライトの影になって、客席のある膨大な空間は薄暗く見える。その眺めは一年生の頃から変わっていない。
ホール練習といえばずっとここだったというのもあって、鍵太郎にとってここはホームと言ってもいい場所だ。
ステージ上から見えるふかふかの赤い椅子も、少し傷のついた木の床も。
舞台裏にあるよく分からない機材も、果ては一階席と二階席をつなぐ、実はあまり通る人のいない、秘密の通路のような階段も――隅々まで知っているからこそ、思い入れが深いものがある。
夏休みに東関東大会の会場となる、あのオペラホールにも行ったが、ここは違った意味でまた特別だ。
また来たい。
それはこちらの素直な気持ちだった。それを隣花はどう受け取ったのか――
硬い表情で、彼女はその言葉に応えてくる。
「……そうね。やっぱりまた、ここに来たいわよね」
「まあ、どっちかっていうとこのホールはコンクールの結果が云々より、今からいい演奏を聞かせてくれれば、それでいいって気がするけどな」
コンクールの本番が近くなってきて、緊張しているのだろうか。いつになく深刻な面持ちの隣花に、鍵太郎はあえて笑ってそう言った。
理性的でクールに見えるこの同い年だが、その内側では自身も制御できない感情があるのを、もうこちらは知っている。
そういえばそんな彼女の一面を垣間見た、合同バンドのオーディション撮影をやったのもこのホールだ。
懐かしい思い出、印象的な出来事。
ここにはそういった、たくさんの記憶が詰まっている。
だからこそ、この同い年とはその重要性を共有できる――隣花にはそう考えて言ったのだけれども。
依然変わらぬこわばった顔で、彼女はこちらに向かって言ってくる。
「……馬鹿を言わないで。私たちはコンクールで金賞を取って、またここに来るの。今日はそのための練習」
「真面目だなあ、おまえは」
創部初の支部大会出場ということで、この同い年も気合が入っているのだろうか。
若干気負い過ぎなくらいの調子を見せる隣花に、またもや苦笑いでそう返す。なので、そんな現実的な同い年には呆れられそうだと思って、言わないでおくことにした。
今も自分たちの前の客席の暗がりからは、こんなやり取りにもおかしそうに、クスクスと笑う気配があるということを。
一年生のとき自分は、それを『ホールの精霊』と呼んだということを――
いつもと違う場所で、気分が高揚しているからそう感じるだけなのかもしれないが。
「……まあ、俺らの奮闘、聞いててください。特等席から」
初めてここに来たときに感じたあの雰囲気は、確かにここにまだ漂っている気がして。
鍵太郎は眼前の空間に向けて、ひっそりとそうつぶやいた。
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最後だ最後だと思っておきながら、一年生の頃からいつも終わりなんてものは来やしなかった。
その気になれば本当に、最後なんてものは来ないのかもしれない。このホールとの付き合いは、ずっと続く――こちらから勝手に、縁を切ったりしなければ。
――なんて、思っていたけれども。
「――バリトンサックス、音が荒くなってきてるよ、要注意。フルート、音程気を付けて。打楽器、管楽器とアンサンブル。チューバ、クレッシェンドの幅をもっと大きく」
「――はい」
指揮者の先生から怒涛の如く注文が出てきて、そんなふんわりとした思いはどこかにかき消えてしまいそうになった。
一段上の舞台に挑戦するにあたって、自分たちは合奏の手法を思い切り変えている。
その結果、演奏はこの前ここでやったときとは全然違ったものになっていた。
もういっそ、別の学校のものといっても差し支えないくらいに。
上手くなったといえば聞こえがいいが、これはただの楽譜の再現ではないだろうか。
本当に『音楽』なのだろうか。こういった練習をするようになってから、そんな疑問が鍵太郎の中で渦を巻いていた。
初めてだ――こんなにも、楽器を吹くのが辛いと思ったのは。
『楽譜通りに吹く』。たったそれだけのことが、こんなにも厳しいことだとは思わなかった。
確かに、それは当たり前のことだ。けれどもそれが、何より難しい――そう内心でため息をつく。このやり方でいい演奏になったとは言われているものの、未だに鍵太郎の中で、吹いていて曲が明確な像を結んだことはない。
まだまだ、もっともっと――そう言われ続けて。
終わりが見えない。ゴールが見えない。
どこまで出来れば『正解』なのか分からない。
こんなにギリギリまで一生懸命にならなければならない状態は、いつまで続くのだろうか。
発音をそろえて音の処理をそろえて曲の方向性をそろえて。
なんでもかんでも同じにしろと言われて。でもそれが悔しいことにその通りで、素直に返事をしているのに、心のどこかで叫びそうになる。
言われた通りに、
みんな違ってみんないい――なんて、存在しない。
それが成り立つのは、『みんな』が全員ある一定以上のクオリティを持っている場合だけだ――そんな風にすら言われているようで、どんどん感性がすり潰されていくような気がする。
人間性がなくなりそうな極限の集中。
一生懸命って、こういうことをいうんだっけ――と、その行為の意味すら分からなくなる工程。
そんな中で。
「――ホルン」
指揮者の先生は、その楽器に――音色の要に。
合奏の中で重要な役割を占める、その中音域の部員に言った。
「――周り、よく聞いて」
「……っ」
そのホルンを担当する隣花が、先生の指摘に鋭く息を呑んだ。
決して激しくはない言い方ではあったが、静かながらも迫力のある声に恐れを抱いたのだろうか。
いつもの淡々とした表情が、やけに切羽詰まって見える。先ほども思ったがそれだけ彼女にも、この本番にかける思いがあるということなのだろう。
金賞を取りたいとか、いい演奏がしたいとか。
自分もかつてそうだったけれども、
そういった気持ちは、誰だってある。
望むことをやりたいという思い。しかしそれは、時に行く手を阻む障害になったりもする。それすら――結果の前には邪魔になるときがある。
ある一点にだけ集中するというのは、そういうことだ。
目の前のことに打ち込んでいるときには、それ以外のことなど考えない――考えられるはずもない。だって、集中しているのだから。
そんな余裕など、ないはずなのだ。極論を言えば、上手くやろうという気持ちですら、上手くやることを阻害している――余計なものなのだとも言える。
それが、コンクール。
誰かに演奏が、審査される場所――その意味を、鍵太郎が疲れ切った頭でぼんやり考えていると。
「分かり……ました」
隣花がゆっくりと、震える手で楽器を構えた。
彼女の何が、そこまでさせていたのかは知れない。
この非常に冷静沈着な――そう見えるだけで実は感情の扱い方を知らないだけの隣花が、ここまで動揺しているのだから、それはそういった大切なものに関する何かなのだろう。
だというのなら。
この同い年もまた、何かのために何かを捨て去ることを選んだのだろうか。
周りを聞いて。
そう言われた隣花は、持っている細い管を口につけた。
そしてまた、繰り返される合奏は――何も変わらない、と思いきや。
「……え?」
そのとき、どこからともなく、ふっ――と。
演奏から初めて『花の香り』がしたように思えて、鍵太郎は目を見開いた。
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