第371話 寄り道先の黒真珠

「よう。お互い苦労してるみてーだな」

「……そうみたいですねえ」


 湊鍵太郎みなとけんたろうがフラフラと音楽準備室に行ったら、顧問の本町瑞枝ほんまちみずえに、苦笑いでそんなことを言われた。

 創部初の支部大会に向けて、吹奏楽部は練習中。

 これまでにないやり方で、行ったことのない舞台に乗ろうというのだ。慣れなさと勝手の分からなさで、それは疲れだって出る。

 そしてそれは顧問たる本町も同じらしい。お互いという言葉の通り、先生の顔には若干の疲労が見て取れた。

 しかし、大人な分だけ余裕があるということなのだろうか。

 本町は口の端を吊り上げて、おかしそうに言ってくる。


「顔もそうだし、ぜーんぶ音に出てんだよ。技術として向上してはいるけど、やっぱり根本的なところで楽器っていうのは人間性が出るからな。……ウチのバカが、だいぶやらかしてるせいもあるだろうけど」

「……そういえばそのウチのバカ――城山しろやま先生を、なんで本町先生はうちの学校に呼んだんですか?」


 こうなる原因――というか、きっかけというか。

 最近になってようやく、本気を出し始めたその外部講師の先生の顔を思い浮かべて、鍵太郎は顧問の先生にそう訊いた。

 城山は、この本町とは大学の先輩後輩という間柄だけあって、どこか似たものがある。

 あの指揮者の先生の過去のことは、本人から直接聞いた。

 けれど、あのかつての全国レベルの指導者をどうしてこの学校に呼ぶ気になったのか、そこまでは聞いていない。

 大学の後輩が仕事に困っていたから――というだけでは、あるまい。

 本町は本町で、別の思惑おもわくがあって彼を呼んだはずだ。そうでなければ、今置かれている状況に納得ができないし、説明がつかない。

 生徒が大変な思いをしているのを私情でみすみす見逃す人間ではないのだ、この先生は。そう思って本町を見れば、顧問の先生は「あー、それはな」と困ったように頬をかいて言ってきた。


「おまえらがな、このまま狭いところで終わるのが、嫌だなって思ったからなんだよ」

「……狭いところ?」

「そう。もっとやれたはずなのにな、もっとできる方法はないかな、でもどうすればいいのか分かんないな――って、そう思うこと、あるだろ? そういうのをなるべく減らしてやりたいなって思って」


 そういう『見えない殻』みたいなのを破るのに、あいつはうってつけだったんだよ――と、本町は後輩のことを思い出したのだろう。苦笑いの度合いを強めて言ってきた。


「ガッコーっていうのは狭い空間だからな。まあ、今じゃネットとかもあって、昔ほどじゃないだろうけど……『そうなんだ!』って発見できる機会を、増やしてやりたくて。田舎の学校って、どうしてもそういうの少ないからよ。何も知らないまま埋もれるより――もっと広いところに出してやりたかった。それだけのことさ」

「それだけのことさ、で俺すごく、しんどい思いしてるんですけど……」

「まあ待て。落ち着け。今はそうかもしれないけど、やっててよかったなと思える日は、ちゃんと来るから」

「本当ですか……?」


 ずーん、と暗い調子で言ったら、先生は先生らしくそんなことを言ってきた。

 やっててよかったな、と思える日。

 報われる日。そんなものが本当に来るのか、と悲観的になるほど最近の練習はきつかったので、思わずそう訊いてしまった。

 別に怒鳴られるとか、殴られるとか、そういうんじゃないのだけれど。

 これまで楽しかったものを全部封じて、ただ上手くなるための作業を淡々と繰り返すというのも、それはそれで厳しいものなのだ。

 笑顔で曖昧あいまいにごまかしていた部分を、直視し続けているようなものである。それはそれで、本町の狙い通り――いわゆる『見えない殻』を破ることになっているのかもしれないが。

 もっと広い世界を、見ることにつながるのかもしれないが――目先のことしか考えられなくなっていたので、そこまでの可能性には思い至らなかったが。

 自分たちはそういったところまで来ているのだろうか。

 真っ暗で、何も見えないけれど。

 いつの間にか、殻に触れる段階にまで来ているのだろうか――そんなことを、ぼんやり考えていると。

 本町はいつも通り不敵に笑って、こちらに呼び掛けてくる。


「当たりめーだろ、ウチのガキめらは、こんなところで終わるようなやつらじゃねえんだよ」

「……先生」

「気張れ、バカ。もうちょっとだ。まあ確かに、やった分の成果が目に見えないっていうのはキツいもんがあるが。それに延々付き合ってるおまえらも、なかなかどうして、大したもんなんだからよ」


 これまで知らなかったことにいちいち向き合いながら、やってんだから――と、今度のコンクール関連の書類なのだろう。デスクに乱雑に積みあがっていたそれを、本町は手に取った。

 そういえばそういった事務手続きは、全部この先生がやっているのだった。

 全く知らない場所でやる、未知の本番の手配。

 先の見えないこの状況で戦っているのは、本町だって同じだろう。どうなるか分からない状況で、それでもやらなければならない苦しみは、この先生だって知っている。

 けれどそんな重圧の中で、本町は「まあ、もう少しあのバカに付き合ってやってくれや」と言って軽く肩をすくめた。


「コンクールっつーのはさ。自分と向き合う場所なんだよ。まあ、普段も演奏にはそういう側面があるんだが――大会となると、結果が出る分どうしてもそういう要素が強くなる」


 この先生は、どこまで行っても先生なのかもしれない。

 そんな風になっても、その口から出てくるのは説教じみた言葉だった。

 けれど、その言葉を。

 素直に受け止められるだけ、この人は信用できる大人だと思っている。


「……そういえば、あのバカが最初にここに来た日、話したな。みんな原石みたいなもんだって。で、それは――自分自身で磨かなくちゃならないもんなんだ、って。

 なあ、湊。支部大会っていうのは、素材をそのまんま出したって受け入れてもらえないところだ。石でいえば、研磨けんま――綺麗に見えるよう、形を整えることが必要になる。それをおまえらは、身を削るようにしてやってる」


 つまり、何が言いたいかというと、だ――

 と、本町は視線を上げて、ふとこちらを見た。

 その瞳にも、真っ暗な中の一条の光のような。

 そんな輝きが、宿っていた。


「おまえらはがんばってるから、もっと自信を持て」


 最も身近で、最も自分たちの演奏を聞いている者として。

 先生は、こちらのことをこう評した。


「結果がすべて、とは言うがな。そこに至るまでの過程でやってきたことは、それを周りで見てきた人間が知ってる。観客も審査員も知らねえ、けれどもその本番になるまでにやってきたことっていうのは、何よりおまえら自身が知ってるはずなんだ。その努力を軽く見るな。食われるな。それをやってきた――自分を信じろ。それが『自信』だ」


 ここに至るまでにやってきたこと。

 歩んできた道。

 それを『信じろ』――そう言われたことは。

 やはりあの指揮者の先生が言っていた、『きみたちのやってきたことは、決して間違いなんかじゃない』という言葉に、通じるような気がした。

 自分に関わっている二人の大人は、やっぱりどこか似ている。

 それが、その根本に通じるものこそが、あの外部講師の先生をここに呼び寄せたのだ。

 自分たちがやってきたことは、全部今につながっている。

 それは過去も未来もそうで――今度の本番に立つときだって、変わらないのだろう。

 自信をもって演奏しろ、と言われることの意味が、これまでいまいちよく理解できなかったけれども。

 それまでのことを信じてやれ、というのだったら少しは納得できなくもない。


「……まあ、全部が全部、有用な努力だって思えないところが難といえば難だがな。でも、そういうときのために味方とか、仲間っていうのがいるんだよ。なんかあったら相談して――ダメならダメで、他の道を探す。そういうのの繰り返しで――そういうもんだ。現実っていうのはだいぶクソだが、そういう寄り道でたまにスッゲエ笑える出来事があるから、捨てたもんでもねえ」

「……そうですね。そういえば今までだってずっと、そんな感じでした」


 行き詰ったら誰かの手を借りて。

 不可能だと思った状況も、どうにかこうにか乗り越えて。

 これまでずっと、そんな風にやってきたのだ。

 だったら別に、そこまで悲観的になる必要もない――そういうものなのだろう。

 疲れ切っていた心に、少しだけ元気が湧いてくる。「ありがとうございます」と言うと本町は、「なに、困ったときはお互い様だ」と返してきた。


「今が一番キツイところかもしれんが、その分だけおまえらは、この先スゲエ景色が見られる。それは保証する。結果に関しちゃ、やってみなきゃ分からんが――少なくともこれまで目にしたこともなかった光景が、そこには広がってるはずさ。そういうののために、今苦労してんの」

「……そーいう、上の立場の人から『苦労した分だけ、この先いいことが待ってるんだぞ!』って言われることには、実は俺けっこぉ懐疑的かいぎてきなんですけど。先生がそう言うんだったら、そう思うことにします」

「ありがとよ。それはアタシを信じてくれるってことだな――で、だ。目下のアタシの苦労なんだけど」


 お互い様っていうことで、見てくれるか――と言って先生は、持っていた書類をこちらにひょいと投げてきた。

 どうも先生が腐心しているのは、完全に大会の手配関連だけではないらしい。

 渡されたものにぱっと目を通してみれば、それは後輩たちが作った本番前日の宿泊に関する、旅のしおり原案のようだった。


「……『タピオカはおやつに入りますか?』」

「ふざけんなあのガキめら。こんな予想外のこと書かれまくったら、心配でおちおち落ち込んでもられんわ」


 盛大にため息をつく本町は、ひょっとしたらさっきの自分と同じくらい苦労のにじんだ顔をしていたかもしれない。

 ということは今の自分の悩みというのは、言い換えればその程度のものかもしれないということだ。苦笑してしおり案のページをめくってみれば、巻末にはQ&A形式で合宿についてのあれこれが記されていた。


 Q:『湊先輩は女子風呂をのぞきに来ますか?』。A:『来ません。あの牙なし野郎にそんな気概はありません』。うん、後であの次期部長のほっぺたをつねりに行こう。


越戸こえど姉妹の部活SNS設置の件といい、おまえらは本当、次から次へと面倒くさい話を持ち込んでくるよ。飽きないぜ、まったく……」

「あはは。まあ、それに関しては俺も協力しますんで。勘弁してください」


 面倒くさい、とは言いつつまんざらでもないといった風に笑う先生に、そう返す。広い世界に繰り出すためには色々準備が必要で、それには案外とパワーがいる。目指す星は遠く、力尽きそうなときもあるだろう。

 けれどもこんな風に思わぬところから驚く提案があったり、ちょっと寄り道したらバカみたいに笑えることがあったりするから、なんとかなっているのだ。

 そういったものを束ねていったら、いつの間にか知らなかった景色が眼前に広がっているのかもしれない。

 それを生徒に見せるために、身近にいたバカの力を借りることにした、本町は。


「ああ、よろしく頼むわ。まあ、月並みなセリフだが――がんばってればいいことあるさ、ってやつだな、やれやれ」


 変化していく海図のように書類を見つめて、お互い苦労が尽きねえな、と言って笑った。

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