第373話 本物の香り

 ふわり――と、花の香るような気配がした。

 もちろん実際にはそんな匂いなんかしていないのだけれども。しかし湊鍵太郎みなとけんたろうは楽器を吹いていて、確かにそんな感覚を抱いていた。

 今日は支部大会前、最後のホール練習。

 そんな状況だからだろうか。環境が違うからだろうか――それとも、全員が極限まで集中しているからだろうか、これまでにない感じがある。

 今まで演奏をしていて、映像や色が見えることはあったけれど『匂いがする』というのは初めてだった。

 そのことに驚きつつも、ああ、やっとかと鍵太郎は安心していた。

 楽譜通りにやれと言われて、自分の感情を封印して、吹いていても何も見えなくなったときから。

 それは久しぶりの、できている感覚だったからだ。

 相変わらず映像は何も見えないけれども、『これ』がこれまでより良くなった証だということは本能で分かる。

 自分の気持ちで色眼鏡のかかっていない、これがこの曲、本来の形。

 いつか到達できると言われて戸惑いながらも進んでいた、もう一段上の景色への取っ掛かり。

プリマヴェーラ』――という名のとおり、この曲にはどこか花の咲くイメージがあった。

 なんの花なのだろうか。どんな色だろうか――それはまだ見えないけれども、演奏からは確かに吸っていて心が柔らかくなる空気が漂っている。

 花の匂いなんて近づかなければ分からないほどの、そんな微かなもののはずなのに。

 それがこれまでやってきた中のどんなものよりも強烈に、鍵太郎には感じられた。

 だからこそ、ようやく『本物』に触れているように思える。しっかりと自分自身の音で『今』を作れている実感がある――その土台となる音を吹きながら、鍵太郎はちらりとそのきっかけとなった同い年の方を見た。

 片柳隣花かたやなぎりんか

 曲の音色の要――ホルンを吹く彼女は、いつものように切れ長の瞳で真っすぐに前を向いていた。

 この同い年が先ほど先生に、「周りを聞いて」と言われてから、演奏は新たな局面を迎えたのだ。

 ハーモニーを決める楽器がはまり始めれば、あとは早い。ひとつ下の後輩の言葉を借りるなら、『生きている歯車』だったか――それが有機的に、それぞれの意思を持って噛み合い始める。

 自分たちは演奏の部品に過ぎないかもしれないけども。

 それは集まって楽しい方向に動き出せば、こんなにもすごいものが出来上がるのだ。

 無限の選択肢の中から一つを選んで、それを音にして歌うこと。それは怖いけれど、とても美しい。

 選ぶということは、何かを捨てるということでもある。極限まで何かを削って、演奏を純化する作業。

 宝石でいうなら、研磨。それを、自分たちはしてきた。

 その代償に、隣花が何を失ったのかは分からないけれど――みんなついている。音楽的関係と人間関係を分けて考えるなら、この演奏が終わったら、あとは彼女に声をかける時間だ。

 傷つきながらも歯ごたえのある日々は、こっちだって過ごしてきた。

 なら、この同い年とも話し合えるだろう。なにせ、隣花からの第一印象は本当に最悪だった。ちゃんと話せるようになったのは、お互いがケンカした後だった。

 それなのに、こんなにも仲良くなったのだから――きっと、彼女だって笑ってくれる。

 音楽でみんな、つながれる。

 そんな考え方は理想論かもしれないけれど。

 今ここで出している音と同じように、すぐに消えてしまう幻想のようなものかもしれないけれど――やっぱりそれを、信じたいのだ。

 正しさに塗りつぶされそうな舞台で、それでも必死にあがいている人間がいることを、自分たちだけが知っている。

 だったらそんな人たちの、味方になりたかった。

 機械仕掛けの神様デウスエクスマキナでも、なんでも来い。都合のいい奇跡と言われようが、そんなものだってまるごと受け入れよう。

 例えその結果、どんなことが起きようとも。

 それまでの自分たちの旅路は、決して否定されはしないのだから――。



###



「ああ、よかった。やっぱりホールだといい音が鳴るな」

「……」


 合奏が終わって、舞台上で。

 鍵太郎は椅子に座ったままの隣花に、そう声をかけていた。

 よほど消耗したのだろう、同い年は立ち上がる様子もない。それほど、彼女は先ほどの演奏に力を尽くしたということだ。

 自分自身の願いを叶えるために――金賞を取るために、一生懸命がんばった。

 だったら隣花は称賛されるべきだろう。そう思って、黙り込んだままの同い年に鍵太郎は続ける。


「さっきさ。今までにないような感じがしたんだ。吹いてて、こう――なんていうんだ? いいなあと思ったというか。これが音楽っていうものなのかなあと、改めて思ったというか」

「……本当に?」


 興奮気味に言うと、初めて隣花は反応らしい反応を見せた。

 のろのろと顔を上げてそう訊いてくる同い年は、どうしてだろう。嬉しいことのはずなのに、置いて行かれた子猫のように思える。

 それが、なぜなのかは分からないが――そんな隣花を勇気づけるため、鍵太郎は彼女の言葉にうなずいた。


「ああ。おまえのおかげで、いい演奏ができた。ひょっとしたら東関東大会でも、金賞を取れるかもしれないぞ」

「……そう。あんたも、そう思うんだ」


 やっぱり。

 こうした方が、いいのね――そう言って。

 ホルンの同い年は、ぽろりとひとつ、涙をこぼす。


「え、ちょ……っ⁉」

「なんでもない。……なんでもないのよ」


 動揺するこちらに、彼女は涙を拭きながら少しだけ笑った。

 とても悲しそうに。

 けれども、こちらを気遣うように。


「……分かってたの。けれども、あきらめきれなかったの。それがたとえ間違っていても――私にとっては、大切なものだったから」


 その大切なもの、というのは。

 隣花が今の演奏に至るまでに、失ったもののことだろうか。

 それは彼女にとって、それほどまでに大事なものだったのだろうか――同い年の涙に何も言えず、鍵太郎がそう思っていると。

 隣花は「ねえ、湊」と言ってきた。


「……金賞を取る、なんて軽々しく言ってたけど。それがどういうことか、私は完全に理解してなかったのよ」

「そ、そうか……?」


 少なくとも自分の同い年の連中の中では、最も熱意をもって考えている人間のひとりだと思っていたのだが。

 そう考える鍵太郎は、知るよしもない。

 この同い年が演奏のために、『誰かを独り占めしたい』という気持ちを削ぎ落したことを。

 そしてその方がいい音がするのだと、当の本人から言われたということを――。


「……あんたも、みんなも。がんばってるのよ。そうね。ようやく分かったわ。音楽って本当に優しくて――厳しいものなのね」


 そう言う隣花の頬から、涙が一滴落ちて。

 舞台の床に当たって――誰にも聞こえないくらいの、小さな音をたてた。彼女の名前にも、花という字が入っているからだろうか。

 本心を告げたその雫からは、ふわりと柔らかい香りが漂ったような気がした。

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