第356話 自由の選択

「ま、まずはしっかり骨組みを作ろうってこった」


 今後の計画を練ろう、と連れてこられたファミリーレストランで。

 顧問の本町瑞枝ほんまちみずえは、湊鍵太郎みなとけんたろうに仕切り直すようにそう言った。


「県大会が終わって、曲にも慣れてきて、どっか惰性で吹き始める部分も出てきちまうだろうからな。東関東大会に向けてはそういうのはナシにして、新たな気持ちでやりたいもんだ」

「そうですねえ。イチ金だったとはいえ、それにあぐらをかいているわけにもいかないですし」


 顧問の先生のセリフに、鍵太郎もうなずく。

 次の舞台に向けて、というかさらに上の大会に向けて、今後はさらに演奏を磨き上げなくてはならない。

 外部講師の先生の件もあったが、今夜の会議は本来、そのためのものである。そう思ってその外部講師――指揮者の先生を見れば。

 城山匠しろやまたくみはニコニコと笑って、そんな鍵太郎に言ってくる。


「そうだね。油断はいけない。僕らがこれから挑むのは、同じく県大会を抜けてきた学校ばかりが集うところだから。気を引き締めていきたいね」

「……なんか先生、笑い方がちょっと怖いんですけど気のせいですか?」

「うん。気のせいだヨ、気のせい」

「なんでカタコトなんですか、先生……」


 過去をこちらに告白したせいか、城山の雰囲気は今までよりどこか、スッキリして見える。

 けれどもそうなったからこそ、分かるものがある。鍵太郎が怯えていると、本町が半眼でそんな指揮者の先生を見ながら言ってきた。


「あー。こいつ、本性を出しやがったな」

「ほ、本性?」

「さっき言ったろ。こいつ昔は結構、厳しい指導をしてたんだって。手加減っていうのを知らない、赤ん坊みたいなもんだよ。今までは相当遠慮してたけど――元々のこのバカは、音楽に関しちゃ妥協しないバカなんだよ」


 大学の後輩だからこそ、こんな風に顧問の先生は城山のことをバカバカと言っているが。

 現在進行形で指導をされている、部長であり生徒である鍵太郎にとっては、笑いごとではない。

 かつてのことを隠す必要もなくなって、開き直った元・厳しい外部講師。

 笑顔の中に底知れないほどの迫力をにじませる城山は、呆れた様子の本町に対して、やはりにこやかに言う。


「やだなあせんぱ……いや、本町先生。僕だってあの頃よりは多少大人になりました。加減くらいはするつもりですヨ」

「人形で遊ぶガキが、手足を引きちぎらないように気をつけるようになった、程度の話だろ。床を引きずったり振り回したり、はた迷惑な愛情なことに変わりねえ」

「シツレイな」


 顧問の先生の例えが気に入らなかったのか、指揮者の先生は不満げに口をとがらせた。

 その様子は、まさに本町の言う通り『無邪気な子ども』そのものだったのだが。

 自分自身ではその姿は見えないためか、城山はそのまま堂々と言う。


「僕だって、以前にやらかしたことから学びはしたんです。ただ単純に自分の思いをぶつけるだけが、指導法じゃないって。あれから色々、考えて思いました」

「ど、どういうことですか……?」


 あの柔和な指揮者の先生から、これまでにない圧がほとばしっている。

 なので鍵太郎が、顔を引きつらせつつそう訊いてみると――城山は、その笑顔に少し苦いものを混ぜて。

 勢いを少し緩めて、言ってきた。


「吹奏楽部ってさ。『先輩とか先生に怒られながらやる』みたいなイメージあるじゃない。『その厳しさが音楽の厳しさだ』、みたいに言われるときもあるじゃない。でも僕、そうじゃないと思うんだよね」


 これは、僕も昔は取り違えてたところなんだけどさ、と前置きして。

 在りし日はきっと、そんな風に怒ったこともあるのだろう先生は。

 音楽に妥協しないバカ、と呼ばれた城山は、言ってきた。


「音楽の本当の厳しさっていうのはさ。『なんだか分からないけど、何かを選ばなくちゃならない』っていう――そういう、ある種の怖さにあると思うんだよ」


 どっちの道が正解か分からない。

 どの解釈をすればいいのかも分からない。

 それでも演奏する以上、自分で正しいと思うものを選んで、やっていかなければならない――それはそれで、誰かに怒られる以上に怖いことなのではないか、と。

 音楽で食べている先生は言う。


「僕は昔、そこのところを間違えて考えてしまっていたんだ。こうすればいいんだ、こうした方がいい演奏ができるんだ、って『正しいこと』をみんなに押し付けちゃったんだよ。そりゃあ、みんな考えなくなるよね――先生についていけば間違いはない、って思考になるよね」


 一生懸命やってたけどさ。

 考える、選ぶっていう『自由』を奪うことはさ。

 何よりも、音楽的には許しがたいことだと思うんだよね――と、城山はそんな自分の行いを思い出しているのだろう。ため息をついてそう言った。

 誰かに怒鳴られながらやる厳しさも、もちろんあるのだろうけど。

 それは『人間関係的な厳しさ』であって、『音楽的な厳しさ』とは本来、関係がない。

 鍵太郎も先輩がいなくなって、自分と同じ楽器の人間がいなくなって、誰も『正解』を教えてくれる存在がいなくなったことがあるから知っている。

 どれが正しいのか分からないまま、それでも音を出さなければならない状況は、怖い。

 誰も保証してくれないまま「ここはこうした方がいい」と、声に出して言わなければならないのは、漠然とした不安が伴う。

 いつもどこかで、これで本当に合っているのだろうか、周りに否定されたらどうしよう、という思いがチラリと頭をかすめる。

 けれども、それでも何かを言わなきゃ、何も作れない。

 ひとりで何かを決めて、実行していかなければならない。

 そんな怖さが――『本当の音楽の厳しさ』なのではないか、と先生はそう言った。


「ある一人の人間がさ。これが絶対に正しい、みんなこれにしなさい、って言っちゃえば話は簡単だよ。けど、それだと『その最初の人』が仮に間違えてしまったとき、取り返しのつかないことになるんだ。俗に言う『王様と家来モデル』ってやつかな。王様が善政を敷いていればいいけど、悪政になった途端とんでもないことになる、っていう」


 部活って、どうしても上下関係があったりもするから、先輩とか先生の言うことは絶対! みたいなところもあるけれど。

 そういう人たちの言うことに首を傾げながら従わなくちゃならない、っていうのは、やっぱりおかしいと思うんだよね――と。

 そんな光景を作ってしまったことがあるのだろうか。城山は悲しげな顔でそう言った。

 誰もが思うだろう。先行きが見えないから、誰かに導いてほしい。非の打ちどころのないほど完璧で、かっこいいスーパースターについていきたい。

 だって、その人が全部どうにかしてくれるから。

 けれど、そんな人間はどこにもいない。それは自分の中の理想像であって、それにピッタリ同じ人なんているはずがない。

 自分以外は。


「だからさ。僕は思ったんだ。選べるって怖いけど――すごく、いいことだったんだなって。色々な選択肢があって、どれが本物か分からないけど、それでも自分の手で決めたものを掴めるっていう『自由』はさ――『楽しさ』でもあるんじゃないかなあって」


 怖いけれど。不安だけれど。

 そんな中でも自分の頭で必死に考えて、導き出した正解の方へ歩いていけるのは、冒険じみた楽しさがある。

 誰かに言われた通りの結末じゃなくて、自分が本当に見たかった未来に行ける。


「……それを奪ってしまった僕は、やっぱり最低のことをしてしまったんだと思う。だから、もうそういう変な厳しさ、やめようって考えてて。そりゃ、厳しいよ。ある意味でこれは、怒鳴って言うことを聞かせるより厳しいかもしれない。

 けどさ――やっぱりみんなには、『本当に楽しく』やってほしくて。大変なことだっていうのは知っているし、分かっている。けどその『厳しさ』の裏表でもある――『本当の音楽の楽しさ』も感じてほしい。……僕は、そう思ってる」


 そう口にする先生は、なるほど本当の意味で『音楽の先生』なのかもしれない。

 外部講師の指揮者が、ここまで現役の部長に言うのも珍しいだろう。

 しかしその分だけ、城山の思いの強さがうかがえる。本来なら言うべきではなかった部分まで、打ち明けることを『選んで』くれたこの先生は、それだけの決意をそこに込めてくれたのだ。

 この学校には、そうするだけの音楽的価値があると認めてくれた。

 そのことは、純粋に嬉しい。


「……俺も、『自由』な方が好きです」


 そして、それだけ信じてくれた人には応えたい。

 そう思って鍵太郎は、城山の提示した選択肢の方から、より自分の望む方を口にした。

 それはとても、険しい道のりかもしれないけれど。

 大切なもののかじ取りは、やっぱり誰かに任せるより、自らの手でやる方がいのだ。

 それはこの三年間でつちかってきた、譲れないプライド、のようなものかもしれない。自分の音は、自分にしか出せない――そんな、ある種の傲慢と言っていいほどの、我の強さ。

 比較的温厚と言われている、低音楽器のチューバ吹きである鍵太郎にも、やはりそれはある。

 安らぎを保証された楽な生活より、嵐の中でどうしようかを考えながら進む方が楽しい。

 そう言うと先生は、困ったように、けれどもとても嬉しそうにうなずいた。


「……うん。よかった。僕はきみたちの選択肢を奪っていなかった。それが、今の答えで分かったよ」

「ですよ。ていうかなんですか、王様と家来モデルって。うちの部活のどこが、そんな風に見えますか?」


 確かに、部長である鍵太郎は名目上、部の代表者ではある。

 しかしその実態は、王様などとは程遠い。部内唯一の男子部員は雑な扱いをされ、部員たちはそれぞれ好きなことをやりたい放題である。

 だからそんな形式は、元から自分たちには合わないのだ。

『やりたいことをやれる部活がいい』――それは、元々は鍵太郎と同じ楽器の先輩である、あの人が言っていたことだけれども。

 今は鍵太郎自身のモットーでもある。冗談めかしてそう言うと、城山もようやく笑った。


「……そうだったね。春日かすがくんたちの代から受け継がれてきた、それはいい意味での、横のつながりだ。上下関係っていうんじゃなくて――もっとこう、ネットワークみたいな、そんな感じだね」

「はい。まあそりゃあ立場はありますけど、基本的には先輩も後輩も関係ありません。正しいと思ったことは正しいと言っていいし、それに反論だって自由にして構わない。そんなところにしたいと、俺も思ってます」

「そっか。……そっか。――じゃあ」


 遠慮は、もう要らないね――と。

 柔らかく笑っていた先生の顔は、再び恐ろしい迫力を帯びた。


「……あれ?」

「分かった。そういうことなら僕も『厳しく』きみたちに接することにするから。これからも――よろしくね?」


 なぜだろう。

 笑っているはずなのに、城山のことがとても怖く見える。

 疑問形で言ってくるところにも、得も言われぬ凄みを感じる。鍵太郎が顔を引きつらせていると、そんなこちらの様子を見ていた本町が、呆れたように言ってきた。


「あーあ。やっちまったな湊。完全にスイッチ入ったぞこいつ。音楽バカのスイッチが。こうなったらこいつヤベえからな。覚悟しとけよー」

「そんな呑気に言われても!? え、なにこれ俺らこれから、この駄目大人に市中引き回しの刑に処されるんですか!?」


 手足をちぎらないくらいの、配慮はするようになったけれども。

 それでも、この指揮者の先生が、妥協を知らない不器用なバカであることには変わりない。

 市中引き回しの刑は本来、馬で引きずり回すものではなく見せしめの意味なのだが――どっちにしろ、はた迷惑なことには変わりない。

 それのブレーキを踏めるのは、城山の大学の先輩であり、部活の顧問の先生である本町だけである。なので鍵太郎が首を、ぎぎぃっと動かして先生を見ると。

 本町は、遠くを見つめて懐かしむように言ってきた。


「いやあ、そういえば春日にも昔、言ったなあ。『今年はもう一段階レベルを上げる』、『優しいだけじゃやっていけないときもある』って」

「そんなこと言ってましたねそういや! 俺が一年生のときですよねそれ!? ていうか一段階どころか、数段飛ばしでレベルが上がっちゃいましたよねコレ!? 優しさと厳しさの塊みたいになってますよね!?」

「がんばれ☆」

「先生!?」


 爽やかな笑みと共に、こちらを谷底に突き落としてくる顧問の先生に、悲鳴をあげるしかない。

 けれども、もう選択はなされた。

 自分が選んだのは、より厳しい道で――より楽しい道だ。

 難易度爆上げ、ハードモードのさらに先。

 そこにたどり着くには、本町の言う通り、骨組みをしっかりさせることが必要なのだろう。

 よりはっきりと言うと、組織面では部長が。

 演奏面では全楽器の軸となる、チューバが。


「俺かあ……」


 つまりは両方とも、自分なのだった。

 不安だ。それはもう、とてつもなく不安だ。

 そう思って、『プリマヴェーラ』というタイトルの、店に飾られた絵を見上げる。二年前、部長でかつ、同じ楽器の先輩だったあの人。

 ずっと近くにいたから知っている。彼女は、相当に不安だったはずだ。同じ立場になってみて実感する。

 けれども、やはり自由の道を選んだ。

 あのときは、楽しかった。とてもとても――その当時のことを思い出すと、今でも胸が熱くなる。先輩のことだけではなく、それ以外にも触れてきたものがたくさんあったのを知っている。

 分からないことばかりで心細かったけれど、その分とても充実した日々だったのを覚えている。

 その心の震えを、もう一度――というのなら。


「……でもまあ、やっぱりやるしかない、よな」


 頼るべき道しるべは、もうないけれど。

 そのルートで進むしかないのだろう。

 季節は廻り、春は過ぎて夏を迎えた。先輩たちはもうおらず、物言わぬ絵画となって自分たちを見下ろしている。

 けれども、この胸の熱さが消えない限り――自分たちの夏は、きっとまだまだ終わらないのだろう。



第25幕 夏は終わらない~了

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