第355話 原罪の現在

「結局僕は、上欠茂かみかけしげるさんと同じことをしてしまったんだと思う」


 湊鍵太郎みなとけんたろうに向かって、城山匠しろやまたくみは。

 指揮者の先生は、そう言った。



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「先生が、前に指揮を振っていた学校の話……」


 自分でそのことを話してくれ、と言ったはずだったのだが。

 何か、とてつもないことに触れてしまった予感がして、鍵太郎は唾をのんだ。

 城山がかつて指導をしていた学校については、断片的だが情報はある。

 女子高だったのではないかということ。

 山梨県の学校だったのではないか、ということ。

 そして――最終的には、そこから去ることになってしまった、ということ。

 最後だけは確定しているもので、だからこそ、これまで触れることができなかった。

 この人の傷ついた記憶を、呼び起こしてしまうから――そう思って先生を見れば。

 その過去と向き合う覚悟を決めた城山は、小さく息をついて話し始めた。


「……僕が、まだ本当に音大を卒業してすぐだ。仕事がなくて困っていたところに、とある学校から指導をしてくれないか、という依頼が来た」


 この先生は確か三十代だったはずなので、大学を卒業してすぐということならば、それなりに前のことだ。

 その当時の城山は、どんな感じだったのだろう。

 鍵太郎がそう思いつつ話を聞いていると、先生は続ける。


「……当時は、僕も若かったし、コネとか人脈とかもほとんどなかったからさ。一も二もなく引き受けたよ。どっちかっていうと、演奏者として名を上げたいっていう気持ちの方が大きかったけど、そんなことも言ってられなかったし」


 音大では、常にトップの成績を出し続け、演奏面でも群を抜き、敵うものがいなかったという城山。

 しかしだからこそ、彼には誰の手も差し伸べられなかった。過ぎた才能は人を遠ざけ、またこの先生自身も、人付き合いの上手い方ではなかった。

 今でこそ、楽器で食べていっている『先生』となった城山だけれども――そうなる前。

 まだまだ、駆け出しだった頃のことを、彼は語る。


「人に教えるのって大変でさ。色々なことを考えて、実行したよ。その過程で、ちょっときつい言葉も使ってしまったと思う。……若かった、では済まされないことだ。いつかまた会えるのなら、彼女たちには謝りたい」

「……先生にも、そんな時期があったんですか」

「そうだよ。なにも僕だって、最初からこんな風だったわけじゃない」


 高い山々と、たくさんの生徒たちに囲まれて。

 そうやって、『僕』はできていったんだ――そう言って、城山は胸に手を当てた。

 かつてこの人は、自身のことを『つぎはぎの怪物フランケンシュタイン』と称していたけれども。

 そうなっていく過程も、それはそれで幸せだったのではないか――そう感じさせる仕草だった。


「演奏者として身を立てたいとは思っていたけど、任されたことに対して手を抜く気にはならなかった。目の前のことに一生懸命だった。その甲斐あってか、教えてたみんなもどんどん上手くなっていって、指揮者としてもやりがいを感じるようになったよ。こういうのもアリなんだな――って、そう思ってやってたら、コンクールで金賞を取った」

「……」


 自分の知識を総動員して、がむしゃらにやって、そうやっていった末の金賞。

 その結果は、とても喜ばしいものだったのだろう。

 輝かしい思い出。栄光の記録。

 金賞を取った代々の学校の名前は、コンクールのプログラムに載る。だからその校名は今でも、その県の歴史に刻まれているはずだ。

 けれども、そこにある指揮者名は、ある年を境に変わる。


「三年。連続で金賞を取った。全国大会にも行った。無名だった弱小校は、いつしか強豪と呼ばれるようになっていた。人がたくさん入ってきて、僕もその関係で名前が売れて、他のところから仕事をもらえるようになって――そういう急激な変化で忙しくしているうちに、いつの間にか目の前にあったものは、別の何かに変わっていた」


 目の前にあったもの、というのは。

 彼の指揮を見ていた生徒のことだろうか。

 それとも、城山自身が持っていたもののことだろうか。

 ひたすらに何年もがんばり続けて、得たものと失ったものがあった。

 それは――


「最初に出会った頃に、若かった僕をからかって好き勝手な演奏をしてくれた、彼女たち。そんな生徒たちの目は――気づいたら、僕の指示を待つだけの人形みたいなものになっていた」

「……っ」


 綺麗な庭園には存在を許されなかった、自由意志。

 理想の光景を作るために、雑草を抜いていった。完璧で隙のない演奏をしようと思った。

 そうしたら結果的に――たくましい命は、どこかに消えてしまった。


「ショックだった。僕がやりたかったのは、そういうことじゃなかった。ただ、上手くなろうと一途にもがいている彼女たちの、力になりたいだけだったのに。一緒に金賞取りましょうね、って言ってくれた、あの子たちに応えたかっただけなのに」


 息を呑む鍵太郎の前で、城山はそれでも続ける。

 今の生徒を守るために。もう一度、同じ過ちを繰り返さないために。

 大好きなものと、大好きだった人たちを、これ以上失わないために。


「……やりすぎてしまった。そう思った。さっきも言ったけど当時の僕は結果を求めて、結構きつい雰囲気で彼女たちを指導していた。なるべく委縮はさせないよう、気を遣っていたつもりだけど……結果的にそれは、妙な方向へと進むことになった。僕を恐れるんじゃなくて――僕を崇拝しようっていう、そういうものに」

「……それは」


『かみさま』――そう呼ばれている存在がいることを、鍵太郎は知っている。

 かつて出会ったこともある。

 歪んだ信仰。

 捏造された正義。

 カルト――そう感じたあの目を思い出していると、先生は「そうだよ」とうなずき。


「結局僕は、上欠茂さんと同じことをしてしまったんだと思う」


 鍵太郎に向かって、城山は。

 指揮者の先生は、そう言った。

 一年生のとき、コンクールの会場で出会った、あの強豪校の生徒。

 そして、その生徒に『かみさま』と呼ばれていた者の名を挙げ――城山は、その罪を肯定した。

 言い訳もなく。

 ただ事実を。

 過去にあったことを、粛々しゅくしゅくと述べていく。


「無意識だったとはいえ、自分はあまりにもむごたらしいことをしてしまったと思った。慌てて僕は、そのときの顧問の先生に相談したよ。『今年は金賞とかそういうのを抜きで、演奏をやりたい』――当時は三出さんしゅつ制度、っていうのがあってね。コンクールで三年連続で全国大会に出場した学校は、その次の年はコンクールに出ることができなかったんだ。だからその機会を利用して、現状を是正ぜせいしていこうと思って」


 全国大会に三年連続で出場するというのは、どういうものなんだろうと思う。

 B部門で、しかも東関東大会であっぷあっぷしている鍵太郎にとって、それは想像しかできないことだった。

 たくさんの人が応援してくれていて。

 期待されていて。

 そして、その矢面に立ち続けていたであろう、その学校の顧問の先生は――


「そうしたら『金賞を取ろうとしない外部講師に用はない。そんなことを言うんだったら辞めてもらう』って言われて」

「……」


 もはや、周囲の声援に応えることしか、考えられなくなっていたのかもしれない。

 金賞を取ることでしか、その声に報いることはできない。

 やり続けることでしか、続けられない。そんな思考になったら――

 そんな人たちに囲まれていたら。


「そして僕はそのまま、放逐ほうちくされた。捨てられた、と言ってもいいと思う。そりゃそうだよね。外部講師は金賞請負人みたいなものだ。それが約束された仕事を果たさないっていうんなら、契約違反だよ。切られたって文句は言えない」

「……文句を言っちゃ、いけないんですか」

「仕事だから」


 鍵太郎がかろうじて言ったセリフを、城山は一刀のもとに切り伏せた。

 それは『音楽で食べていっている大人』の、不条理なほどの鋭さを持った一撃だった。

 プロだからこそ、できなくなってしまったことがある――出なくなった音がある。

 そうこの先生はかつて、言っていたけれども。

 それは、いけないことなのだろうか。

 金賞以外のものを求めるのは、そこを追放されるだけの罪だったのだろうか――大切に、はぐくんできたはずの場所を。

 分からなかった。

 二年前、城山自身が言っていたことだ。『話しても、絶対解決しない問題』――あのときこの先生は、どんな気持ちだったんだろうと思う。

『かみさま』を信仰して、他の何も認めなくて。

 そんな強豪校の誘導係だった生徒に、「きみはそれで、幸せ?」と訊いたときの先生は。

 かつての教え子の姿を、そこに重ねたとしたら、何を感じたのだろう――二年前の城山の行動を思い出して、そう思っていると。

 先生はそんな鍵太郎に、やはりそれでもなお進もうと、呼びかけてきた。


「それからの僕は、指揮者業はいったん封印して、演奏だけに励むようになった。幸か不幸か、名前だけは独り歩きしてくれてたから、それで仕事もしていけるようになった。おかしなものだね。最も求めていたものは、もう違うものになってたっていうのに」


 それからの僕は、きみの知っての通りだ――と、城山はやはり少し、悲しそうに笑った。

 一年生の頃、同じくファミレスで出会った、この先生は。

 髪がボッサボサで無精ヒゲを生やした、やつれた姿で自分の前に現れた。

 あのときはなんだこの人、と思ったが、そうではない。

 この先生はやっとの思いで、そこまでたどり着いたのだ。

 欲しかったものをずっと取り上げられたまま、それでも行かなくてはならないと歩き続けてきた。

 それは、なんのためだったといえば――もう一度、誰かの自由な姿を見たかったからではないだろうか。

 倒れたら、かつて指導をしていた生徒たちとの思い出すら無駄になる。それだけは許せない。そんな気持ちで自分の音を示し続けて、数年後――城山は。


「……というわけで、しみったれた話をずーっとしてきたけどさ。そういうの、もうやめろバカ、って先輩に怒られて」

「当たり前だバカ。ああなったときのおまえを、アタシらがどれほど心配したと思ってる」


 あとどんな形でも、生徒に精神的ストレスを与えまくってんじゃねえよバカ、と先輩に怒られていた。

 その音大の先輩である、そして『今の』吹奏楽部の顧問の先生である、本町瑞枝ほんまちみずえを鍵太郎は見る。これまでここに来てからずっと黙って事の成り行きを見守っていた本町は、心配そうにこちらと後輩のことを、交互に見ていた。

 そんな先生に、鍵太郎は訊く。


「……本町先生は、そこまで知ってたんですね」

「ああ、知ってたよ。こいつのくっそくだらねえ話も。された仕打ちも。全部知っててこいつを呼んだ。最初は抵抗されたけど、アメとムチとメシと、色々与えて引きずり出した」

「どっちかっていうと、酒とメシと、ムチとムチとムチって感じでしたけど……あ、いやすみません先輩。なんでもありません」


 城山が何か文句を言いかけたが、それは本町がものすごい勢いでにらみつけて黙らせた。

 文句を言ってはいけないというが、こういうやり方なら見ていて微笑ましい。鍵太郎が思わず二人のやり取りに噴き出すと、ようやく顧問の先生は、安心したように息をつく。


「というわけでな。もういい加減にしろ、ってなったんだ。時代は変わった。場所も変わった。だったら――もう、そんなことにはならねえし、させねえよ。今日は、おまえにそれを伝えたかったんだ。分かるか?」

「……はい」


 本町の問いに、鍵太郎はうなずく。

 東関東大会に向けて、練習を強化していく――けれどもその過程で、こちらの自由な意思は決して失わせはしない。

 この駄目な大人二人は、自分にそう言ってくれているのだ。

 これまでの話を聞いていると、先生たちがそう思っているのがよく分かった。

 そしてそのことを踏まえると、城山がどうしてあれほどまでかたくなに、こちらに干渉してこなかったのかも見えてくる。

 この指揮者の先生は、かつてのように本気になりすぎて、自分たちが歪んでしまうのを恐れたのだ。

 だから、ずっと外側から選ばせるような真似をしてきた。

 道しるべとして。

 けれど、もうそんなことをする必要はない。

 なぜなら――


「うむ。ほら匠、言ったろ? アタシの生徒たちは、うちの可愛いガキめらはな。自分たちが思ってる以上にしぶとくて――本当に、スゲエやつらなんだぜ?」


 そんなもので潰されるほど、弱くはないとこちらを認めてくれたからだ。

 雑草だらけの命の庭に、もう一度踏み入れようとしてくれた、かつて『かみさま』と呼ばれていた人。

 そのときと、時代は変わった。場所も変わった。

 彼はとされ、その資格を失った。

 だったら――この自分の前で困ったように笑う指揮者の先生音楽の聖人を、受け入れない理由など、もうどこにもない。

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