第354話 知恵の樹の実

「……どういう、ことですか?」


 指揮者の先生の言葉に、湊鍵太郎みなとけんたろうはそう訊き返していた。

 それをやると、音楽に味を感じなくなると思う――

 そう言った城山匠しろやまたくみは、鍵太郎の問いに答える。


「たとえ話になるけれどね。今まできみは、楽器を吹いていて『ここはこんな場面だ』とか、『こんな色や匂い、味がする』って感じてきたと思うんだ。けれども、今回の方法を採用すると、一時的にそれができなくなる」


 東関東大会に向けて、さらなる強化をはかる。

 それにあたってやるべきなのは、ハーモニーの構造理解やリズムの取り方などの、いわゆる楽典――音楽のルールを、徹底しようということだった。

 難しいことはよく分からないが、必要とあればそれには取り組む。

 この先生がやろうと言い出したことなのだ。それは信用してもいいだろう。

 ただし引き換えに、曲をやっていて何も感じなくなる――

 その理由を、城山は説明する。


「音楽のルールに従うっていうことは、システムを優先して、感情をいったん切り離す行為だ。これまで『楽しい』『面白い』だけで吹いていたものを、いったん封印して仕組みの面から考えることなんだよ」


 システム、仕組み――という単語に鍵太郎が思うのは、かつて同い年たちとテーマパークに行ったとき、『人を楽しませる仕組み』を観察したことだった。

 昆虫のような目で、無感情に仕組みだけを分析する。

 あれは、自分が舞台に立つ者になったからこそだと思っていた。舞台裏を知って、こんな工夫をしているのだ、とそこに隠された工夫を覗き見るようになっていた。

 けれども、確かにそのときの自分は「怖い顔をしている」と言われた。

 純粋にそのテーマパークの雰囲気を、楽しむことができなくなっていた。それを、演奏でもやれ、というならば――先生の言う通り、楽器を吹いていても、なんの味もしなくなるのかもしれない。


「どんなものにも『外せない絶対のルール』はある。僕らの場合は、『聞いている人を楽しませること』だ。そのための方法は、気持ちと気合いだけじゃない。技法として、ある程度のフォーマットはちゃんと存在する。それを改めて見直すことが、曲の表現の向上にもつながる」

「……それは」


 城山の言っていることは正しい。

 それは分かる。これまでいくつもの舞台を経験してきて、なんとなくそういうルールはあるんじゃないかな、と心のどこかで思ってはいた。

 ただ、納得できないことがいくつかある。

 それを確認するため、鍵太郎は口を開いた。

 どこかで――息が苦しくなっているような気がする。


「矯正、ではありませんか。その人の本来持っている音色を殺して、無意味な音の羅列を作るだけのことにはなりませんか。去年みたいなことには……なりませんか」


 そこのところを掛け違えて、一年前は大変なことになった。

 息が出来なくなりそうで、合奏をしていても真っ黒な映像しか浮かんでこなくて、みながバラバラになってしまうのではないかと思っていた。

 他の人間にそれを強制することは、部長としてもただの奏者としても、もう二度と御免なのだ。

 鍵太郎がその危惧きぐを示すと、先生はそれに即答する。


「僕が、そうはさせない」


 その回答はあまりに力強く。

 また、これまでの城山の行動からしても、それは絶対の信頼を置けるものだった。

 この人は、天然で残念イケメンだけど、音楽に関しては誠実そのものだ。

 それを知っているからこそ、鍵太郎は続く城山の言葉を黙って聞いていた。


「今日の練習で、僕は言ったよね。『音楽が好きな気持ちを忘れないで』って。それはシステムに目を向けるようになっても、変わらない根本的なところだ。どんなに感情を抜きに考えても、守るべき最後の一線だよ」

「よかった……安心しました」


 プロの先生が本気になっても、やはり根底は一緒なのだ。

 最も懸念すべきだった部分が解決して、まずはほっと一息つく。しかしまだいくつか、細かい引っかかりは残っていた。

 音楽に、味を感じなくなる。

 それはどういうことなのか。一時的に――ということだったけれども。

 いったん、まっさらな状態に戻す。

 そう言った城山は、こちらに呼び掛けてきた。


「当たり前だけどさ。これまで『楽しい』って思ってきたものに、いざルールを課してやってみると、ものすごい窮屈きゅうくつに感じられるものなんだよ。これまで自由気ままにやってきたものが、思い通りにいかなくなるわけだから。

 ギブスを付けてやるようなものだ。ただ、それを苦痛に感じなくなってきたら、外せばとんでもなく動けるようになる。だから、一時的に、だよ。その状態に慣れるまでが、なかなか厳しいってこと」

「なるほど……」

「あと、その縛りを外したら味が変わるっていうのも、先に言っておかなくちゃならない」

「味が――変わる?」


 一時的に不自由な状態になるのは、なんとなく分かった。

 けれどもその後も、これまでと違う感覚が続くというのはどういうことなのだろうか。

 首を傾げると先生は、プロの演奏者は。

 こちらの前に置かれているハンバーグに視線を落としつつ、言ってくる。


「正確に言うと、同じものを食べても、違う味わいに思える、みたいな感じだね。細かい部分まで気になるようになる。これまではただ単に『美味しいな』で済んでたものが、『この食材で、この調理法をしてるから美味しいんだな』になる」

「……面倒くさい人になる、ってことですね」

「まあ、そういうこと」


 でも、自分も料理人としてやっていくんだったら、避けては通れないこと――と。

 音楽で食べていっている先生は、そう言い切った。

 同じ『味』つながりで、他校の生徒のことを思い出す。カレーの味がしなくなって、それで部活を辞めたという人の話。

 あの人は、この過程に耐えられなかったのかもしれない。

 鍵太郎だって、この目の前にあるハンバーグを、ただの肉片だと感じるようになったら嫌だ。だったら平和に、『美味しいね』の一言で済ませられた方がいいのかもしれない。

 なんだかよく分からないけど、美味しいね――


 でも。

 それで、いいのだろうか?


 そんな疑問が、頭をかすめる。限定された範囲で自分たちだけが楽しんでいて、それでいいのか? と思う。

 この頃、外からの視線を意識するようになっただけに、余計に。周りがどうこう言うから、とかそういう問題ではない。

 もっと客観的に、俯瞰ふかんして見下ろして。

 自分はそんな自分を見て、どう思う――?


「歯がゆい」


 想像してみて、わずかな嫌悪と共にそう吐き出す。

 偽りの楽園の主を気取って、致命的なものから目を逸らしヘラヘラする自分。

 知っていて手を出さず、全部が終わってから『ああしておけばよかった』と後悔する自分。

 そんなものには、なりたくない。

 だったら面倒くさい人になろうが、最初のうちは不自由に感じようが、他の未来を選んだ方がいい。

 ここで何もせずにいたら、根が腐ってそれが全部に至る。

 そうなる前に、手を打たなくてはならない――そう思って城山を見れば。

 先生は、静かに言ってきた。


「いいのかい」


 自分で提案しておきながら、なんだけどさ、と前置きして。

 プロの奏者は、もうどこか、自分とは生きている世界が違う人は。

 最後の忠告とばかりに、こちらに訊いてくる。


「これを呑み込んだら、もう元には戻れなくなるよ。だから、ずっとこれまでやってこなかったんだ――きみの行く先が、ひどく厳しいものになってしまうから。他のみんなもね。だから、迷ってた。僕自身のこともあるけど、ずっと」

「でも、もう大丈夫だって思ったんでしょう」


 この二年を一緒に過ごしてきて、城山はそう判断したのだろう。

 好き勝手にやっていた、奔放な先輩たちと。

 とことんまで妥協しなかった、厳しい先輩たち。

 そしてその両方の因子を受け継いだ、自分たちを見て――


「これ以上のものをやっていいって、そう思ってくれたんでしょう。だったら、平気です。やってみます」

「……そうか」


 先生はまぶしげに、目を細めた。

 大体、この人が一番最初にもう、言っていたのだ。

 二年前。

 自分の持っているものチューバは、『世界を変えられる素敵な楽器』だ、と――


「進んだら今の状態には、もう戻れない。けれどこのまま騙し騙しやったとしても、ジリ貧です。だったら今よりさらによくなる方法を、やらないわけにはいかない――そうでしょう?」

「……ありがとう」


 そう言った先生は、笑い返すこちらに向かってうなずき。

 きみの行く道に祝福を。

 そうつぶやいて――城山は、一度深呼吸を挟んでから、再び口を開いた。


「本当はさ。こんな風に、相談なんかしなくてもよかったのかもしれない。何も言わずに、はい今日から楽典をやります、東関東大会にはこれが必要です――って、押し付けちゃえばよかったのかもしれない。

 けどさ。それじゃあんまりにもフェアじゃないと思って。そうすることによって出てくる、メリットとデメリットは提示して、その上で選んでほしかったんだ。そうしないと、僕はまた同じ過ちを繰り返すことになるから」

「……ずっと、聞こうかどうか迷ってたんですけど」


 そんな先生に、鍵太郎はひとつの疑問をぶつけてみる。

 それはあの楽器屋から聞いて、以前から気になっていた、城山の過去のこと――


「先生が前に指導してた学校って、どんな感じだったんですか。その……まあ、話せる範囲でいいので。教えてくれたら、これから先生が言うことも、少しは入ってきやすくなるように思います」

「……そうだね。ここまで来てそこを明かさないのは、それこそフェアじゃない、か」


 なら、少し昔話をしようか。

 そう言う先生の姿は、同い年だからだろうか。あの楽器屋とどこか通じるものがある。

 やはりこの二人、どこか似た者同士なのだ。

 こちらに条件を提示してから、意見を聞くというのもそうで。

 属性は反対なのに、奥底にあるものは一緒だというのは、皮肉なのかそれとも運命なのか。

 あまり聞いていて、楽しくはないかもしれないけど――

 そんな前置きすら、寸分たがわず。

 城山は語りだす。


 先生としてではなく、ただの一人の人間として。

 彼と、その指揮を見ていた学校との間にあった、かつての物語を。

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