第353話 さらなる強化計画
「それで、具体的には何をするんですか?」
指揮者の先生と、顧問の先生に連れてこられたファミレスで。
東関東大会に向けて、相談したいことがある。
そう言われて、部活が終わった後ここにやってきたのだ。夕飯付きで、と言われれば仮に自分が部長でなくても断れない。
そう思いつつ、鍵太郎は練習終わりでぐうぐう鳴る腹に、食べ物を詰め込んだ。楽器を吹くと腹が減る。それは吹奏楽部に入部したときから変わらない、まごうことなき真理である。
これまでより上の大会に挑むことになっても、それは変わらない。腹が減っては戦はできぬ。まずは補給からである。
すると同じく料理に手を付けていた指揮者の
「今日の合奏でも言ったけど、一回根本的なところに戻って、曲を作り直そうと思うんだよね。改めて、最初から設計を見直してみようというかさ。
方法としては、例えばコードの構造を理解したり。音階の種類を改めて発見したり。リズムの取り方を確認したり」
そういう、楽典的な要素をもっと、意識していこうと思ってるんだよね――と言う城山に、鍵太郎はふぅんと曖昧にうなずいた。
ハーモニーの並びに関してなど、音楽のルールとしての単純なものなら知っているが、それよりも深いものは正直よく分かっていない。
ひとつ下のバリトンサックスの後輩とは、音符の長さなどを話し合ったけれども。あれだって膨大にある音楽知識――いわゆる楽典の、ごく一部だ。
現に今だって、純正律平均律、旋律的短音階に和声的短音階、トニックドミナントサブドミナント――などと言われても、いまいちピンとこない。
そういう小難しい単語を並べられても、どうにも頭に入ってこないのである。自分の知っていることはあまりに穴だらけで、全体を見れば虫食い状態なのは、この指揮者の先生の言葉を聞いていれば分かるけれども。
しかしよく分からないその『音楽のルール』とやらを、いきなりその穴に当てはめようとしても上手くいかなかった。
何をどこに入れていいのかすら、さっぱり判断がつかない。というかその理論を埋めるべき空白ですら、あやふやで、絶えず揺らいでいるように思えてならなかった。
パズルのピースを与えられても、それをどこに持っていけばいいのか分からないといった心持ちで。
鍵太郎が「……???」と顔をしかめていると、城山は言う。
「うん。……うん。まあ、そういう反応になるだろうなとは思ってたんだ。大丈夫。最初はみんな、そういう顔をするから。浅沼くんも、首を傾げてた」
「ああ。そういえばあいつも、音大受験ともなればそういうの、知っとかないとですもんね。けど、先生がそう言うってことは、
「うん。……うん。たぶん。大丈夫だと思う……たぶん」
「あれ? え、先生? そこは嘘でもいいから、そうだって言ってほしかったんですけど……」
音大受験のため、鍵太郎の同い年であるあのトロンボーンのアホの子は、この指揮者の先生に習いに行っているはずなのだけれども。
そんな彼女ですらも、それはできていないところなのだろうか。途端に滝のような汗を流し始める城山を見て、顔を引きつらせていると――先生は言ってくる。
「いや、浅沼くんは理解はしてくれてると思うんだ。ただ、それを人に説明できるかというと、また別問題で……面接とかでそういうことを聞かれたら、心配だなあって思うだけ」
「あー……。まあ、あいつ天才肌な上に感覚的すぎて、人に教えるの苦手ですもんねえ……」
以前にもあったので分かるのだが、あのアホの子は理屈とかそういうのをすっ飛ばして、思いっ切り「なんとなく!」で人に教えるのだ。
その無意味な力強さが、彼女の魅力のひとつでもあるのだけども。
今回ばかりは、そうもいかないということなのだろう。部活全体でそういったルールを共有するなら、あの天才バカ以外にもその仕組みを理解して、かつ全員に解説ができる人間が必要だ。
だから、部長である自分が呼ばれたのかもしれない。
鍵太郎がそう思いつつ、ハンバーグを切り分けていると――
城山はパスタを巻く作業を再開しつつ、こちらに言う。
「そう。彼女は彼女で演奏上、とても重要な役割を担っているんだけれども。現時点ではそれだけでは、全体を主導することはできない。だから湊くんには、そういう方面でもみんなをまとめてもらいたいと思って」
「でも……俺にできますかね? さっきだって先生の話、ほとんどちんぷんかんぷんだったし」
「大丈夫。僕だって何もかもを一気に、消化しろと言いたいわけじゃない」
少しずつ小分けにして、段々に呑み込んでいってくれればいい――こちらの手元にある細かくなったハンバーグを見て、先生は穏やかにそう言った。
「役割をね。はっきりさせようと思うんだ。曲の中で誰が何をやって、どこにどんな風に作用して、その結果に何が生まれるのかってことを。これまでは無自覚にやってきた部分を、意識的にやって新しく組み上げるんだよ。それだけでも、だいぶスッキリしてよく聞こえるようになるはず。
だから――いったんバラバラに解体する。そして、部品をよく磨いて、
僕も、そこまでやる覚悟ができてなかった。
そう済まなさそうに口にする城山に、鍵太郎はひとつ上の、先代部長のことを思い出していた。
あの打楽器の先輩も、かつて覚悟が必要だと言っていた。
それは、どんなものだったかというと――
「……『自分の大切なものを分解して、より良い形に並べ直す覚悟はないんですか』って」
ひたすらに正しい道を歩もうとした、ひたむきな彼女が持っていたものだ。
言い方は散々で、そしてそれについて行けなかったから結果も散々で、あのときのことは今でも忘れられないけれども。
それでも、あの前部長が最初に持っていたものは、間違いではなかった。
やり方がよくなかっただけだ。そして、そうなることをこの目の前にいる先生ですら、恐れていて――プロの人でも、やっぱり自分たちと根っこは変わらないのだなあと思いつつ。
鍵太郎は言う。
「……
「……そうか。貝島くんが……」
もう既に、答えを出していた。
先走り過ぎて、そしてあの人自身も不器用で、周りと共有することができなかったけれども。
彼女も彼女で、やはり大切なものを担っていた気がするのだ。演奏だけではなく、もっと違った面で――改めてそれを自覚して、部長って本当に大変だなあ、と鍵太郎が苦笑していると。
城山は、大きく息をついて言う。
「……参ったなあ。本当に、今も昔も変わらない。僕は生徒にすら追い越されるんだ――グズグズ悩んでいるうちに」
遠い目をしていたのは、この先生が前に指導していたという学校のことを、思い出していたからだろうか。
城山が自分たちのところに来る前に、どんなことを経験してきたのか、詳しくは知らない。
けれどもこの先生の同い年からは、最終的にそこを辞めることになった、と聞いている。
その最後と今城山が口にしたことが、関連しているかどうかも分からない。しかし先ほど彼自身が言ったように、そのことはどこかでつながっているようにも思えた。
結局は、何もかもがそこに戻ってくる。
初心であったり、終わりであったり――はたまた、もっと根源的なものであったり、そんなものに。
答えはいつもすぐ
鍵太郎がそう思いつつ、城山を見ていると――
先生は大口を開けてばくりと、その麺の塊に食らいつく。
そのまま
口の周りにベタベタとついたソースを拭いつつ、城山は言った。
「ああ、そうだ。僕もいい加減、やるべきことをやらなくちゃならない。いつまでも逃げ回ってるわけにはいかない」
みっともなくても、今さらでも。
自分と、向き合わなくてはならない――そう言った先生の目は、これまでにないほど熱い光をたたえていて。
パズルのピースが少なくともここにひとつ、はまったのだと鍵太郎は感じていた。
「バラバラに分解――そして再臨だ。全部を解体して、新しく生み直す。曲の法則に従って。単に気持ちを込めるだけでなく――明確な物理を伴って」
もっとリアルに。
力強い音楽を形作ろう――相変わらず具体性に関してはサッパリだけど、言い回しがいかにもこの先生らしくて、なんだかおかしくて笑えてきてしまった。
けれど、これまでの二年間があったからこそ、城山の意図は多少なりとも理解はできるのだ。
これもまた、あの先代部長が言っていたことである。『もっと物理的で、技術的な問題があるはずです』――とっくに彼女は、真理にたどり着いていた。
心に形を。意思に翼を。
両方を掛け合わせることで、これまでにない何かが生まれてくる。その結果は、去年ほんの一瞬だが目にした。
民衆を導く自由の女神――その、
それがもう一度見られるなら、こんなにも楽しいことはない。鼻歌交じりにハンバーグを分ける。ナイフとフォークを持って、食事を切り分けていく。
あのときはこんな風に、『武器』を持ってそれぞれが、道を切り開いていった。
今年は、どんなものを持っていけばいいのだろう。何かを形作るのだから、創作道具だろうか。『プリマヴェーラ』は同じタイトルの絵もあるから、筆やパレット、または絵の具かもしれない――
そんなことを考えていると、先生は言う。
「――そうしたら、あとは次の問題だ。湊くん、この方法をやるにあたってだけど」
「なんでしょうか?」
真剣な表情をしている城山に、のほほんと応える。
ここまでの話は順調だ。
けれども、それがまだまだ甘い態度なのだと、鍵太郎は次の先生のセリフで悟った。
「注意点がある。これをやるとたぶん――いや確実に、きみは一時的に、音楽に味を感じなくなると思う」
その声に、宣告に。
鉄板の上でナイフが滑って、手元からぎゃり、と嫌な音がした。
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