第351話 初心忘るべからず
「迷ったときは、いったん基本的なことに戻ってみればいいと思うんだよね」
初心にかえるというかさ――と、
東関東大会に向けて、練習を再開しようという矢先。
この外部講師の先生は、音楽室で部員たちに向けてあっさりと、とんでもないことを口にしたのだ。
「ぶっちゃけ、飽きたでしょう。毎日毎日、同じ曲を何回もやるなんてさ。僕も昔、アンサンブルで全国いろんなとこを回ったことがあるけど、あのときだってさすがに
「身も蓋もないこと言わないでください、先生……」
城山の包み隠さなさすぎる発言に、鍵太郎は引きつり笑いを浮かべつつ、そう突っ込んだ。
確かに、五月あたりから県大会の八月頭まで、約三か月間も同じ曲と向き合ってきたのだ。
『プリマヴェーラ』――イタリア語で『春』という意味の、今回のコンクールの曲。
だがしかし、先生の言う通りここまで長くやっていると、若干食傷気味というか、飽きが来てしまっている感がある。
秋だけに。鍵太郎がそんなことを考えつつ、窓の外をちらりと見れば――夏休みの頃はあんなにきつかった日差しは少しずつ収まってきており、風もどことなく、質が変わってきたように感じられた。
ただ、冷房もなく、何十人もの部員がいるこの音楽室は相変わらず暑い。
そんな中、自身も演奏者としてプロ活動をしている城山は言う。
「だからさ、そういうときは少し、目先を変えるというか、ちょっと違うことをして、これまでやってきたことを違う角度から見てみるといいと思うんだよね。僕らもツアーの中でやったよ。曲のテンポを少し変えて、違う印象にしてみたり。ハーモニーをいじくって、聞こえ方を変えてみたり」
「へえ……プロの人でも、そういうことやるんですね」
「ちなみにそういうのは、前日の飲み会で決まる。ちょっとトイレ、とか言って、誰かが席を外した瞬間に打ち合わせが始まるんだ。で、その人には決まった内容を何も言わない。そのまま本番を迎えて、いきなりいろんなことが変わってることに、その人だけが驚くっていう」
「駄目じゃないですか」
大人の悪ふざけにもほどがある。
逆に言えば、そんなことをやってもお客さんに曲を聞かせられるからこそ、プロなのかもしれないが。
遊び方が高度過ぎて、自分たちには到底真似できそうにない。この指揮者の先生も言っておきながらそこまでするつもりはないらしく、「って言っても、僕はその頃新人だったから、そういうことされる側だったけどねえ」と、のほほんと笑った。そうやって笑って済ませられる辺り、この人の凄さを感じる。
そして、そんな過去を経験してきた外部講師の先生は、部員たちに呼びかけた。
「というわけで、今日は『プリマヴェーラ』はいったん置いておいて、他の曲をやってみようか。学校祭の曲、もういくつか配られてるよね? そっちを合奏してみよう」
「あ、なるほど」
城山の狙いが分かって、鍵太郎は声を上げた。要するに気分転換に、いったん違う曲を挟んでみようというわけだ。
同じことをずっと続けすぎれば、どんなに楽しいものでもマンネリに陥ってしまう。
いい曲なんだけどな、という気持ちと共に楽譜をいったん脇にどけ、鍵太郎は違う譜面を取り出した。
『ユー・レイズ・ミー・アップ』――今度の学校祭で、トランペットの同い年である
コンクールに向けて練習したい気持ちはあるが、焦ったら結果的には腐っていくだけだ。
だったらそうならないためにも、一度土壌を新しく入れ替えるのはアリだろう。どっちにしろ学校祭の準備は、支部大会の練習と並行して進めていかなければならない。
ならいい機会だし、初見大会としゃれ込もうじゃないか――そう思い、部員たちがゴソゴソ準備を進めていく中で、鍵太郎は光莉に言う。
「そういえば、なんでおまえこの曲をやりたいって言ったんだ? なんか思い入れでもあるのか」
「べ……別にいいじゃない! なんとなくよ! なんとなく!」
「ふーん」
この同い年が希望したのだから、何かそれなりの意味があるのではないかと思うのだけれども。
教えてくれないなら、教えてくれないでもいい。自分はただ、彼女と一緒に吹くだけだ。
まあ、とはいっても静かな曲のようで、最初の方はほぼ休みなのだけれども――と、思ったところで。
「じゃ、やってみようか」
先生は本当に楽しげに笑って、指揮棒を構えた。
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最初は淡くて繊細な、小さな音からだった。
吹いている人間が少ない。編成が薄い分、みなどうしても、どこかおっかなびっくり演奏している。
ただ自分も吹いていないので、手助けすることはできない。ずっと吹きっぱなしのことが多い、鍵太郎のチューバではあるが――ここはそういう場面ではないのだから仕方ない。
金管の低音楽器である自分の役割は、演奏に厚みを持たせて支えることだ。
ここに入ってしまうと、余計な暑苦しさが出てしまう。こういうのは、違う楽器の音が必要なんだよな――と、鍵太郎が楽器は膝の上に乗せたまま、か細い音楽を聞いていると。
そこに、光莉が加わってきた。
彼女も彼女で周囲の状況もあってか、どこか不安げな音を出している。
ほぼ初めての合奏なのだ。それは当然で――けれど自分でやると言い出した曲だからか、同い年は揺れながらも吹き進めていった。
その音を聞いて、綺麗だなあと思う。
光莉自身に言うと殴られるので、あまり口にはしないが――彼女の音は透明度が高くて、よく響いてくるのだ。
思えば、出会ったときからずっとそうだった。
色々なものに邪魔されて、当時はその輝きは曇っていたけれど、本質的なものは何も変わっていない。
最初のひと吹きで、そこにいた部員たちの誰もが振り返った。その頃を思い出すと、とても穏やかな気持ちになれる。
これも、初心というものなのだろうか。
初心者で楽器を渡されて、全然吹けなかった頃。
目にするもの全てが物珍しくて、音楽室に足を運ぶこと自体が、楽しみでしょうがなかった頃。
じっくり耳を傾けていると、そんな記憶が頭の中によぎっていく。そう、あの頃このトランペットの同い年とは、ひとつの約束をした。
おまえを支えると。
県大会を終え、彼女は一番の傷になっていたものですら、自らのものにしたように見える。
けれどもその約束は、今でも有効なのではないかと思うのだ。だって彼女にはまだ、届いていない。その輝きにまだ自分は、及ばない。
だから。
一緒に吹こう。そう思って、鍵太郎は楽器を持ち上げ、光莉に合わせて踏み込んだ。
彼女は吹き上げ、こちらは深く下がっていく。そうすることによって曲が広がり、描き出せる景色も一気に広がったような気がした。
これまでよりしっかりした足場ができて、光莉の音がより高らかに響くようになる。
まるで、山の頂上で歌うかのように。県大会での彼女のソロを思い出す。『プリマヴェーラ』――あの曲の冒頭は、高い高い山の上で吹くかのようなものだった。
けれど金賞県代表、という頂に立った後である今も、光莉の歌は鳴りやんでいない。
だったらやっぱり、まだあの約束は有効だ。演奏をしている限り、彼女を支えることに変わりはない。
聞こえてくる同い年の音に、ああ、やっぱり綺麗だなと思う。
初めて聞いたあの頃のように、その思いはずっとずっと変わっていない。
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その後にも学校祭の曲をいくつかやって、最後に『プリマヴェーラ』をやってみたら、これまでとは全く感触が違うのに驚いた。
「すげえ……。なんか新鮮に思えてくる……」
「でしょー?」
楽譜がまるで、違うもののように感じられる。
これまで気づかなかったものが、どんどん見えてきた。もっとこうした方がいいなとか、こう吹いた方がいいんじゃないかとか――そういったアイデアがどんどん頭の中にあふれてくる。
これも、いったん始まりに戻ってその位置から、改めて曲を見られるようになったからだろうか。初心忘るべからず。そんな言葉を鍵太郎が思い浮かべていると、城山は続けて言ってきた。
「ちょっとだけ見方を変えるだけで、同じものでも違う発見ができるから不思議だよね。今やってみて、県大会のときとは違うものが見えたでしょう。東関東大会ではそういうのをプラスアルファして、やっていければいいなと思ってるんだ」
「なるほどー……」
「あと、それよりも何よりも」
やっぱり、たくさんの本番を経験してきているプロの先生って違うんだな、と感心していると。
先生は、最初の気持ちを、ずっとずっと持ち続けてきたであろう大人は。
生徒たちに対して、真っすぐに自分の思いを告げてきた。
「僕らはこれから、これまでとは違う舞台に挑むことになる。でも、一番基本的なことを覚えておこうか。『音楽が好きな気持ち』を忘れないで。それが何よりも大切だから」
色々なステージに乗ってきたけれど。
結局、戻ってくるのはそこなんだ――そう言って、城山はやっぱり楽しげに笑った。
その言葉を受けて、部員たちがそれぞれに返事をしていく。鍵太郎も同じく、「はい」とうなずいた。
この人も、おそらくもっと厳しい思いをしてきたんだろうけれど――『これ』に支えられてやってきたのだ。
とても根本的なこと。
好きな気持ち。
それを忘れずにやっていけばいい。大会のこともあるけれど、この先生は何よりもそれが言いたかったのだろう。
それが伝わったのが嬉しかったのか、先生は満足げにうなずいていた。
どんなに始まりから離れても、少しだけ見る角度は変わっても、誰だって――持っているものは同じのはずだ。
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――と、話はそこで、終わるのかと思っていたのだけれども。
「あ、湊くん。
部活が終わった後に城山にそう言われて、鍵太郎はきょとんとしつつも「あ、はい」と返事をした。
この外部講師の先生と顧問の先生が、練習が終わった後に度々、食事に行っているのは知っていたが。
それに誘われたのは、初めてだ。以前にバーに連れ込まれたのは、城山がしゃべれる状態ではなかったので、ノーカウントとして――
こうして改めて声をかけられたのは、部長だからだろうか。そう考えて首を傾げ、先生に言う。
「東関東大会の打ち合わせか何かですか? まあでも、なかなかない機会なので、そうでなくても行きたいですけど」
「うん。話したいことは、大体そんなとこだよ。じゃ、行こうか。本町先生、本町せんせーい!」
部活が終わって音楽室は閉まり、ここにいるのは顧問の先生と城山、そして部長の自分くらいだった。
何かあるならここで話せばいいだろうが、食事付きということは、それなりに長く話したいことなのだろう。
そうだよな、これまでやったことのないことをやるんだから、もうちょっとちゃんと話し合いたいよな――と思いつつ、大人二人についていく。
顧問の先生の車に乗って、その道中で、親に夕飯は食べてくると連絡して。
やってきたのは、よくあるチェーンのファミリーレストランだった。
イタリア料理系の、手ごろな価格のお店。店内には自分たちの他にも、家族連れや仕事帰りのサラリーマンらしき人など、様々な客の姿がある。
四人掛けの席に腰かければ、鍵太郎の脳裏にそういえば前にもこんなことがあったと、記憶がよみがえってきた。
あれは、一年生の頃。
この指揮者の先生と、初めて出会ったとき。
あのときも、こうしてファミレスに連れられて来たものだ。四人で――と、今はもう卒業してしまってここにはいない、自分と同じ楽器の先輩のことを思い出す。
あの出来事もまた、部活に入って最初の頃の、忘れられない思い出のひとつだ。
あのときと違って、隣にあの人はいないけれども。
それもまた、月日が流れて見え方が変わったという話なのかもしれない。
しかし、どうしてだろうか。当時のことが、やけに鮮明に思い出せる。
今日の合奏で、楽器を初めて間もないときのことを振り返ったからだろうか――などと、そう思っていると。
「……これ」
店内の壁いっぱいに印刷された、大きな絵が目に入ってきた。
六人の女性と、二人の男性が描かれたそれ。
構図的には遠近や方向を無視していて、なんだかよく分からない。
けれども、やけに印象に残る絵だった。
それを眺めていると、城山が訊いてくる。
「気になる? その絵」
「あ、はい……。なんか、不思議と目が吸い寄せられるというか、なんというか……」
「だよね。きみにとっては、余計そうかもしれない」
そのままその絵画を見つめていると、先生はその絵のタイトルを告げてきた。
「だってこれ、『
迷ったときは最初に戻ればいいと、城山は言っていたけれど。
好きな気持ちを持って、やればいいと言われたけれど――
この場にいないあの人を抜きで、それについて話し合うのは。
あまりにも大人の悪ふざけが過ぎるのではないかと、鍵太郎はこの指揮者の先生に対して、思ったりもした。
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