第342話 ちょっとだけ背伸びして

 夏の甲子園に出ている、同い年の高校生たちを見て。

 湊鍵太郎みなとけんたろうにとってその舞台は、画面の中のせいかひどく遠い存在に感じられていた。

 けれども――


「そういや、せっかくだから夏休みのうちに見に行っておくか? 次の本番の会場」

「は!?」


 案外足を延ばせばどこにでも行けるということに、顧問の先生の言葉で気づいてしまったのである。

 お盆休み明け、夏休みも残りわずか。

 次の舞台は東関東大会――神奈川、横浜。

 これまでとは違って、今度は少しばかり遠出することになる。見慣れない場所は、それだけで緊張するものだ。

 なら、行けるときに先に見に行ってしまえばいい。

 先生のその理屈は、確かに納得できるものだった。いや、しかし――と呆然とする鍵太郎に、顧問の本町瑞枝ほんまちみずえは言う。


「今さら何アホ面してんだよ。アタシからしたらおまえらがここまで来られたことの方が、よっぽど驚きだよ」

「まあ、イチ金っていうのは自分でも驚きましたけど……にしても神奈川って遠くないですか? フォクシーランドより遠いイメージがあるんですが」


 ゴールデンウィーク中に演奏で向かったあのテーマパークより、その場所は距離的にさらに遠い気がする。

 若干、都会的すぎて気後れしているという部分もある。オシャレな街並みにきらびやかな人々に、そしてひたすら浮く自分。

 そんな光景を想像してしまったのだが、顧問の先生はそこからこちらを引っ張り出すように、「大丈夫だ。そこまで考えるほど、遠くもねえよ」と言ってきた。


「電車の乗り継ぎがよければ、そこまでアクセスは気にならねえよ。まあ、本番当日はもちろん、バスでの移動になるけどな。それでも、一回外側だけでも見ておけば気持ちの面で違うだろ」

「そう……ですね。確かに、見に行けるなら行きたいです」


 本町の言う通り、実際に足を運んだ方が当日やりやすいだろう。

 突然の申し出で面食らってしまったが、そして都会の恐怖におびえる田舎者独特の思考が出てしまったが、本番でそうならないためにも、ここで本当の景色を目にしておいた方がいいのかもしれない。

 横浜には行ったことがない。

 まして会場となるホールなど、文字でしか知らない。

 よこはま芸術劇場。

 そう呼ばれる場所は、いったいどんなところなのか。

 興味はある。鍵太郎がうなずくと、先生も笑って大きくうなずいた。


「よっしゃ。じゃ、決まりだな。連れていくなら部長のおまえと、副部長の千渡せんど――くらいか。二人分くらいなら、アタシもおごってやるよ。メシ付きでな」

「あ、先生。そのことなんですけど……」


 どうせなら、ということで鍵太郎は手を上げた。

 本番の会場の雰囲気を、少しでも体験しようというのなら――



###



「おまえら先生のお財布事情とか考えろよなマジで!? そんな何人もいたら諭吉先生も泣いていなくなっちゃうからな、マジで!!」


 そんなわけで。

 顧問の先生が泣いてしまうくらいの人数が集まった、見学ツアー当日。

 部員たちの中で、鍵太郎は苦笑いでほおをかいた。一緒に次の本番の会場に行かないか――そう声をかけたら、予想以上に人が集まってしまったのだ。

 交通費は出してくれる、という約束を、律儀に守ってくれるつもりらしい。

 ほぼヤケクソのような感じだったが、本町はもりもりと諭吉先生を券売機に投入していく。その代わり、昼飯代は自分で出せよなオラ――とドスの利いた声で言われたが、まあそのくらいはするつもりだった。

 むしろ、その昼食代はみなでお金を出し合って、先生にあげたいくらいなのだが――さて、と。

 その居並ぶ面子を見回して、鍵太郎は同い年の片柳隣花かたやなぎりんかに言う。


「片柳は、去年も東関東の会場に行ったんだっけか。どんな感じだった?」

「県大会より格段に人がいた」


 違う部門の本番ではあるが、実際に県外の会場を見に行った隣花は、いつものように淡々と答えてきた。


「客席にはたくさん人がいて。ホールも少し見て回ったけど、作りがうちの県のとは全然違ってた。戸惑うこともあったわ。だからこんな風に、事前に見に行ってみるのはいいことだと思う」

「そっか。言われてみれば楽屋の行き方とか、トイレの位置とかも同じ県内のホールでも微妙に違うもんな。なあ、千渡?」

「そ、そうね……」


 以前、似たような感じで会場の中で迷ったことを思い出し、鍵太郎は近くにいた千渡光莉せんどひかりにそう言った。

 去年の今頃、似たような感じで顧問の先生に言われ、彼女とは二人でオーケストラの演奏会に行ったことがあるのだが。

 ホールの構造が分からなくて困っていたところを、関係者に案内されたのだ。そういえばあの人たちも、元気にしてるかな――と、その日出会った小さな女の子と、その周りにいた愉快な人々を思い出して笑みをこぼす。

 縁があれば、あの人たちとはまた会えるかもしれない。

 今度も演奏会があるかどうか、付き合いのあるらしい外部講師の先生に訊いてみよう。そう思いつつ、鍵太郎は光莉の足元を見て言う。


「というかさ、おまえそのサンダル、歩きづらくないの? なんかヒール高くて、見てて怖いんだけど」

「う、うるさいわね! 夏休み最後の遠出なんだから、このくらいオシャレしたって別に構わないでしょ!」

「いや、いいけどさあ……」


 校外への用事のため、もちろん全員が私服なわけだが、彼女のかかとの高いサンダルは歩きにくそうに見えて仕方がない。

 電車での移動ということでわりと歩くことが多くなりそうだということは、この同い年も分かっていたはずなのだけれども。そんな光莉は「あのときと同じよ……あのときと同じ。なんで私は状況にパニくって、服装のチョイスをミスるの……?」などとブツブツ言っている。

 そういえばそのオーケストラの演奏会でも、彼女は着るものの選択を微妙に間違えていた気がする。

 夏休み最後の、部活みんなでのプライベートな遠出――と考えれば、浮かれるのも確かに分からなくはないのだが。

 何が、彼女をそこまでさせるのだろうか。そんな乙女心がまるで分かってない鍵太郎は、首を傾げて同い年に言う。


「とにかく、はしゃいで転んだりして怪我するなよ。あと、靴擦れには気を付けろ」

「はいはい、分かってるわよ……むー、あんたがみんなに声をかけなければ、また二人だけで出かけられたのに……」

「何か言ったか?」

「知らない! 人の恋路を邪魔するやつは、馬に蹴られて死んでしまえ!」

「なんで心配したのに、俺が蹴られなきゃならんのだ!?」


 いつもより威力の増しているヒールキックに、悲鳴をあげるしかない。

 気遣ったはずなのに蹴られるとか恋路の邪魔とか、もう意味が分からなかった。

 理不尽にもほどがある。そう、鍵太郎が久しぶりに吹奏楽部の男子部員への扱いのひどさを痛感していると、隣花が呆れたようにため息をついた。


「……まあ。自業自得というかグッジョブと言うべきか。色々な意味で半々だけど」


 けれども去年、ひとりで行った舞台に誰かと行けるっていうのは、悪くないわね――そう口にして、肩をすくめ。

 いつの間にか、先生から受け取っていたのだろう。彼女はこちらの分の切符を、小さな笑いと共に差し出してきた。



###



 電車を乗り継ぎ、慣れない地下鉄にドギマギしつつも、目的地。

 ホールの最寄り駅にたどり着いて、とりあえず鍵太郎はほっと一息ついた。

 夏休み中の混雑で、はぐれそうになったりもみくちゃにされたり――色々あったけれど、なんとかここまでやって来ることができたのだ。


「ここから少し歩いたところが、東関東の会場、か……」


 どんなところなんだろう――そう思いつつ、きょろきょろしながら外に出るため階段を上る。

 駅構内のポスターや作りまで、初めて見るせいか全てが洗練されたものに感じられる。完全にお上りさんの自覚はあるが、今回はそれに慣れるためにやってきたのだ。

 文字でしか知らなくて、パソコンの画面越しでしか見たことのない景色。

 それが、このすぐ先ある。天候は晴れ。きっと隅々まで見渡せるはずだ。

 どんな建物で、どんな空気で、どんな場所なのか――

 それを見るために、階段を上り切ると。


「海だ……!」


 まぶしい光と共にその景色が目に飛び込んできて、思わず鍵太郎は声をあげた。

 居並ぶ三角の帆付きのヨットと、煙突が伸びた、大きな客船。

 白、赤、ネイビーを基調とした鮮やかな港の景色に――わずかな潮の香り。

 そして、輝く水面みなも

 よこはま芸術劇場。

 東関東大会の会場は、海に面したところにあった。

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