第343話 海賊たち・オペラホール前

「海だー!」


 と、同い年たちがその水面に向かって駆けだすのを、湊鍵太郎みなとけんたろうは見送っていた。

 東関東大会の地、横浜。

 そこにあるホールは、海に面していたのだ。そうだよな、少し考えれば分かることだった――と、慣れない景色に頭をかいて、鍵太郎も歩き出す。

 今回は本番の場所の雰囲気に少しでも馴染むため、ここにやってきたのだ。

 事前視察、予行演習のようなものだ。確かに、こんな今までとは全く違う景色を前にして、平静でいられる自信はまるでない。

 当日にいきなりこんなものを目にしたら、動揺するだけで一日が終わってしまいそうだ。やっぱり、来ておいてよかった――そう思いつつ、周囲を見渡す。

 大小様々な形のヨット。夏の日差しに映える、白い街並み。果ての見えない海平線。

 そして、木陰にあるテラスのオシャレなカフェ――頭がクラクラする。地元ではまず見ないものばかりだ。同い年たちはばっしゃばっしゃ写真を撮りまくっているが、正直まだそんな気になれない。

 けれどもとりあえず、この光景は目に焼き付けておきたかった。

 写真を撮るのはそれからでもいい。そう考えてキョロキョロしていると、そんな自分たちの反応を見て、顧問の本町瑞枝ほんまちみずえが言う。


「おいおい、おまえら。まだ肝心のホールには着いてないんだぞ。駅から降りた途端これじゃ、先が思いやられるな。ほら、行くぞー」

「先生、本番の会場ってどんな感じなんですか?」


 苦笑いしながら引率してくれる先生に、待ちきれなくてそう問いかけてみる。

 ここから徒歩数分のところにあるという東関東大会の舞台は、これ以上のものだというのか。

 一体、どんなところなのか――少しの緊張と、それより大きいワクワクを胸に訊いてみると、本町はいたずらっぽく笑って言ってきた。


「それは着いてのお楽しみ、ってやつだな。まあ、スケールの違いに驚くといいさ。てなわけで――行くぞ、野郎ども!」


 そんな風に生き生きと言ってくるあたり、案外この先生も、海を前にしてはしゃいでいるのかもしれない。



###



 海賊船の女船長みたいな顧問の先生に連れられて、やってきたのは白くてでっかいビル――の、ようなものだった。


「……なに、これ……」


 およそホールと呼ぶには、自分の定義の範疇を越えている。

 真っ白な壁が折り重なった、四角いピラミッドのようなその建物。

 その高さは見上げるほどで、地元の見慣れたホールよりさらに大きい。しかも、なんと四階が入り口になっているようで、正面にはエレベーターが設置されていた。

 そんな電子機器があるということでもちろん、内部は吹き抜けのような造りになっており――高い高い天井からは、ガラス張りの部分から光がこぼれてきている。

 まるで、どこかの城にでも迷い込んだ気分だった。

 全体的に明るい色で統一されているせいか、白亜の城といった様相である。それか教会、もしくは神殿――それを前にして先ほど以上に唖然としていると、本町が横から解説を加えてくれた。


「よこはま芸術劇場。神奈川屈指の大ホールだ。中は五階席のオペラホールになってる」

「ごかいせきのおぺらほーる……」

「ひらがなになってるとこ悪いが、オペラホール、分かるか?」

「ええっと、なんか仮面をつけてドレスを着た人たちが観劇をしにくる、あそこですか?」

「おまえのオペラホールのイメージが中世で止まってるのが残念だが、まあ大体合ってるからよしとしよう」


 あまりの衝撃に発想が貧困なのがバレてしまったが、構造としてはそのイメージで正解らしい。

 豪奢ごうしゃな赤い布張りと、凝った装飾、そして天井に施された絵画――などが思い浮かぶ。さすがにそこまで中世的なものではないようだが、マンガやテレビで見たあんな感じで間違いないようだった。

 改めて、そんな会場で演奏できることのすごさを思い知る。観客は仮面をつけた、羽根の扇子を仰ぐ貴婦人――ではないけれども、なんだかそれに匹敵するような、すごい存在になれるような気がした。

 五階席まである、ということなら天井がかなり高いということでもある。地元のホールは三階席までしかないので、そういう意味でもこれまでとは色々と勝手が違う。

 ホールの形状が違うということは、響きも違うということである。基本的に上に向かって音を出す鍵太郎が吹くチューバは、天井が高いとなれば聞こえ方もずいぶん変わってくるはずだった。

 ここにきてようやく、思考が現実のものに戻ってくる。

 ふむ、とあごに手を当てて鍵太郎は先生に言った。


「本当は楽器を持ってきて、ここで実際に吹いて確認できればよかったんですけど。さすがに厳しいですよね」

「まあなー。ここでリハーサルできたら御の字だったんだけどなー」


 さすがにそこまでの経済力はねえわ――と、ここまで来るのにも、諭吉先生を大量投入している本町は肩をすくめた。

 このホールを借りるのにも相当なお金がかかるだろうし、部員全員を乗せてここまで楽器を全部運ぶともなれば、そのバス代とトラック代も馬鹿にならない。

 地元にはこういったタイプのホールはないので、響きの確認はできない――となると、本気で本番一発勝負、ということになる。

 アウェーならではの状況だ。それならそれで、できるだけ対策はしておかないとな、と鍵太郎が考えていると、先生は言う。


「ちなみにここ、駐車場はすげー遠くにあるからな。県大会のときみたいにホールと隣接はしてないから、くれぐれもバスの中の忘れ物には注意だ」

「ぐっ……くれぐれも、そうならないよう注意します」


 以前、テーマパークで演奏した際に他校の生徒だったが、バスの中に忘れ物をしてきたことがある。それを思い出して鍵太郎はうめいた。

 あのときも、会場と駐車場が離れていたため、その忘れ物を取りに行くのには時間がかかった。

 その間に、他校の取りまとめを任されたことを思うと、今でも冷や汗が出てくる。ああいった経験は、できればもうしたくない。

 いや、まあもう少し後になったら、それも笑って話せるハプニングだったと言えるのかもしれないが。

 少なくとも現段階では、本番前に慌てるようなことは起こしたくないのである。万難を排して挑みたい――それでも、事件は起こるときは起こるのだけども。

 準備万端にしていても、あいつらは予想外の方向から襲い掛かってくるのである。それは分かっているのだろう、本町は続ける。


「まあ、何かあっても当日はバタバタしないよう、時間には余裕をもって行くつもりだけどな。……誰かが遅刻してこない限り」

「ええ、そうですね……誰かが遅刻してこない限り」


 そのテーマパークの本番のときも、当日そこで飛び跳ねているアホの子が遅刻して散々な目にあった。

 あれ以来、彼女には時間には遅れないよう、きつく言い聞かせ続けているのだが。これも要警戒対象か――と、腕は確かだがその他は着々とへっぽこになりつつある天才児を見て、額を押さえため息をつく。

 あと心配事といえば、あの日のように長距離の移動で、乗り物酔い患者が出るかもしれないということだろうか。

 ひとつ下の後輩が、その引っ込み思案な性格をおしてでも、こちらの袖を引っ張ってきたことを思い出す。あのときの彼女は相当に具合が悪そうだった。

 本番も調子が悪そうだったし、乗り物酔い対策もしておかないと、地味に演奏に影響する。

 吐き気のせいで上手く演奏ができなかったとか、それこそ御免こうむりたい。本人にとっても、自分にとっても。

 後悔しないよう手を打っておきたいものだ。特にこんな、立派な会場で演奏できるというならば――と、何か手段はないか考えていると、先生はその会場の隣の建物を指差してきた。


「ちなみに、こっちのでっけえビルがホールに併設されたホテルだ。しっかし高えな。何階建てなんだこれ」

「ホテルが隣にあるオペラホールで演奏するとか、もう意味わかんないですね……」


 県大会のときとはスケールが違い過ぎて、涙が出てきそうだった。

 会場の雰囲気に慣れるためにやってきたはずだったが、もはやそういったものを通り越して、圧倒されつつある。横では本町が「神奈川、特に横浜のこの辺りは、日本の吹奏楽発祥の地って言われてるからな。向こうさんも気合い入ってんだろー」などと豆知識を披露してくれているが、すごすぎてもうどこに感心したらいいのかも分からない。

 ホールに隣接した、そのさらに大きな建物を見上げる。海に面した高層ビルホテル――きっと最上階には展望レストランがあって、夜景を見ながら君の瞳にカンパイをするのだろう。

 そういうところに泊まるのは、どんな人間なのだろうか。

 経済的に余裕のある人間か、あるいは――


「……って、あれ?」


 そのとき、ふとある可能性に思い当たって鍵太郎は首を傾げた。

 五階席のオペラホール。そんな大劇場に隣接したホテル。

 駐車場は遠くにある。それならば、ここに泊まる人は――


「先生。ひょっとして、ここに泊まる人って遠方からここに来た、演奏者とか舞台関係者なんじゃないですか?」


 意外と、自分たちに身近な人たちなのではないか。

 なにしろ、ホテルから出たら舞台まで直行できる。もちろん、観光で来る人間の方が多いだろうが――立地を考えれば、宿泊者の中にそういった関係者がいてもおかしくはない。

 ほぼ現地入りしている状況だから、多少は寝坊しても遅刻しないで済むし。

 移動がないから乗り物酔いの心配もない。だったら、ここに泊まればかなりの問題が解決する。

 そう予想しての質問だったのだが――予想通り、先生はうなずいてきた。


「ああ、まあそうだろうな。よこはま芸術劇場は、当たり前だけど吹奏楽コンクールのためだけにあるものじゃない。各地から来る公演者が、前乗りでここに泊まることだってあるだろうよ」

「じゃあ、俺たちもここに泊まれば――」

「おい湊。おまえは重大なことを忘れているぞ」


 勢い込んで言ったつもりが、その途端に先生はひどく苦い笑いを浮かべ、こちらに切り返してきた。


「そんな金はない」

「――あ」


 そういえば、そうだった。

 自分たちは優雅な豪華客船とか、夜景の見えるホテルで乾杯とか、そんな身分ではない。

 アウェーの地からやってくる、むしろ品のない海賊船のようなものなのだ。

 懐はいつもカツカツで、けど何もないからこそ陽気に歌って笑うしかない、そんな連中なのである。

 頭を抱えてうずくまると、本町はそんなこちらの肩をぽんぽんと叩いて言ってきた。


「まあ、演奏順が午前中のトップとかだったら、考えなくもないけどな。うちの部費予算もやべえこと、おまえも知ってるだろ?」

「ちくしょう……いいアイデアだと思ったのになあ……」


 部活動予算会議の際に、一通り資料には目を通したがそこには、宿泊費をねじ込む余裕などどこにもなかった。

 むしろ生徒会長には、もっと予算を削れと怒られたくらいなのである。何かをやろうとすると、お金ってかかるものなんだなあ――そうあのとき自分で思ったことが、こんな形で返ってくるとは。

 やはり世の中は金なのか、そうなのか。泣きたい気持ちでそれでもなんとか立ち上がると、先生はそんなこちらを見て言ってくる。


「ま、おおよそ会場についてはこんなところだ。他に何か質問はあるか?」

「ありませぇん……」

「じゃ、次に行くとするか!」

「……次?」


 今日は、この会場を見るためにここまでやってきたのではなかったのか。

 他にどこか、行くところがあっただろうか。きょとんとしていると、本町はニヤリと笑って言う。


「おいおい、こっちも忘れちまったのか? ここに来る前に言ったろ、『昼飯くらいおごってやる』って」

「ああ、そういえば……」


 交通費がかかりすぎて結局、昼食代は自分たちの負担になってしまったが。

 言われてみれば最初、この先生はそんなことを言っていたのだった。

 神奈川、横浜。

 この口ぶりからして、何か名物でもあるのだろうか。といっても、こんなオシャレな街並みの中で、自分たちが食べるものなどあるのか。そんな疑問はあるが――本町は。

 それこそ海賊船の女船長のように、豪快に笑って言ってきた。


「ここまで来たんだ、食っていこうぜ。横浜、横須賀名物『海軍カレー』!」


 お金がなくても陽気に歌って笑うのが、自分たちのスタイルだと思うが。

 きっとこの人は、そこからさらに海軍に殴り込みにすら行くんだろうな――と、鍵太郎はその笑みを見て確信した。

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