第341話 先輩の望み、後輩の望み

 ――先輩は、何をしたいんですか?


 後輩のその問いに、湊鍵太郎みなとけんたろうはとっさに答えられなかった。

 夏祭りで、浮かれていたせいもあるかもしれない。

 県大会が終わった直後で、少し気が抜けていたのもあるかもしれない。

 けれどもその、同じ楽器の一年生の質問に何も言えなかったのは――決して、口に詰め込んだベビーカステラのせいではない。


「ええと……先輩、どうしました?」


 フリーズしたこちらを心配したのか、その後輩の大月芽衣おおつきめいが眉を寄せて言ってくる。

 その立派な眉は出会ったときからそのままで、意志の強そうな印象はそこからずっと変わっていない。

 けれど、内面は少しずつ、変わっているはずで――

 それは自分もそうだった。それを自覚して、後輩の声に動揺を落ち着かせる。


「あ、いや……そうだな、と思って。そういえば俺って何をしたいんだっけな、って改めてちょっと、考えちゃってさ」

「ああ、そうなんですね」


 先輩は部長さんだけあって、真面目さんですねえ――と、特になんでもなさそうに芽衣は言う。

 彼女も別に、悪意があってこちらにそんな質問をしてきたわけではないのだろう。

 その証拠に、芽衣は頭にお面に浴衣姿で、上機嫌そうに足をブラブラさせている。鼻歌でも口ずさみそうなくらいで――と。

 後輩を見ていると、彼女はよいしょっ、と跳ねるように立ち上がった。


「いや。この間、先輩は言ってたじゃないですか。『県大会では自分自身の一番望む結果を出すって、約束した』って。それで、その通り金賞県代表になって――その約束は果たされたわけですよね? だったら、この先はどうするのかなって、思ったんです」

「この先……」


 確かにその結果は、自分の望んでいたものだった。

 その約束を果たしたからこそ、全てに納得がいって――だからこそあの人も、帰ってきてくれるようなもので。

 でも、その先は?

 自分は、どうするのだろう――己の中に問いかけてみても、ほとんど手ごたえがないことに、鍵太郎は呆然とした。

 楽しく金賞を取りたいとか。

 東日本大会に行きたいとか。

 そういうのは全部、『部長としての湊鍵太郎』が思っていたことだ。

 立場も何も関係ない、ただのまっさらな個人として、自分は何をしたいのだろう――

 ここに来てから一年も経っていて、なかなか代表者としての顔は染みついて離れなかった。

 去年の今頃は部長になる心構えができずにウジウジしてたのに、皮肉なもんだな――と頭をかいて、その芯に再び呼び掛けてみる。

 なんにも考えなくていいなら、何をしたいか。

 上手くなりたい――そう考えていた時期もあったけれども。

 それは、誰のためで、なんのためだったのか。そういうのをひとつひとつ剥がしていって、残った最後の欲求は――


「――いろんな人に関わってみたい」


 根気よく尋ねていけば、出てきたのはそんな気持ちだった。

 目の前では、この祭りに来ているたくさんの人たちが行き交っている。

 自分の今までの道のりだって、振り返ってみればその通りで――いい人もいれば悪い人もいて、それを目印にやってきた。

 道しるべとして。

 そんな風にやってきたことを、もっと続けていきたいと思った。


「この先、県外に出たらもっと知らない人にたくさん会うと思う。いろんな価値観があって、学校があって、その中でもそれぞれプライドを持ってやってる人たちがいると思う。そういう人たちと話してみたい。考えてることを聞いてみたい。何が好きで、何が苦手で、じゃあどうしようかなって――話をして、それが役に立っても立たなくても、そうやって話したことを大事にしたい」


 ただの看板として通り過ぎるのではなく。

 それと共に在った記憶と一緒に、進んでいきたかった。

 いったん亀裂の入った壁は、溜め込んでいた水を溢れさせて。

 一気に決壊してしまって、言葉が止まらない。たぶん後輩はこの先輩、何を言ってるんだと思っているだろうが。

 でもこれが、正直なところなのだ。

 コンクールも賞も関係なく、ただそういったつながりを大切にしたい。

 それが『湊鍵太郎の本音』だった。


「そういうやつらと、何かすごいものを作ってみたい。すごいことをやってみたい。支部大会で金賞を取りたい、東日本大会に行きたいっていうのも、結局はそこから来てるのかもしれない」


 世の中には本当にすごいやつがいて、面白いやつがいて。

 自分の知らなかった世界にいる、そういう人と会ってみたい。

 そう考えると、そのために周りを動かしている自分は、結構ワガママなのかもしれない。

 面白そうだから、で行動しているのだから、他の部員たちはたまったものではないだろう。

 こんなんで東関東大会に挑んで大丈夫だろうか、と自分のことながら心配になる。部長がこれで一年生たちをがっかりさせたりしないだろうか。

 そう思って芽衣を見れば、彼女は首を傾げてこちらを見返してきた。


「えーと。よく分からないですけど、それって先輩がずっとやってきたことですよね?」

「え?」

「いや。だってほら、あれ」


 そう言う後輩が、指差した先を振り返って見てみれば――

 そこにはお囃子隊を乗せた絢爛豪華な山車だしが、会場を練り歩いていた。



###



 その山車には、ひときわ目を引く派手な人物が乗っている。

 赤坂智恵理あかさかちえり。去年ここで目にして、そして今年部活に入ってきた、吹奏楽部にはまるで縁のなかった後輩。

 彼女は今回も気合の入った衣装を着ていて――金髪に光るピアス、そして蝶柄の着物という和洋折衷なスタイルで、横笛を吹いていた。

 智恵理の乗った山車は、段々とこちらに近づいてきている。そして、反対側からはまた違った山車が進んできていて――このままだと、両者はかち合うことになる。

 この祭りではそうなった場合、お囃子対決をするルールだ。

 ひたすら自分の旋律を吹き続け、負けた方が道を譲る――勝った方が真っすぐに抜けていく。

 一年前も鍵太郎は、その光景を見ていた。あの日は智恵理と、同い年の打楽器の双子姉妹が戦っていて、後者が勝った。

 今年は、どうなのだろうか。後輩を見れば、彼女はやはりただひたすらに、自分のメロディーを全うし続けていた。

 相対する山車の調子は、智恵理のものとは少しずつ違っている。

 よく似てはいるが、ほんの少しズレている。それを聞いてしまうと自分のものと混じって、なにがなんだか分からなくなる。結果、演奏が崩れて負ける――と、去年はそんな感じだった。

 もっとも、そのときもどうやって決着がついたのか、鍵太郎には分からなかったのだが。そして今も二つの拍子が混ざり合って、感覚がおかしなことになっていた。

 その最中にいるのだから、あの横笛を吹く後輩の心中がどうなっているのか推し量ることはできない。

 ただ、智恵理の表情は淡々としたものだった。去年と同じ――なのだろうか。その歌を吹き続けている。

 周りの太鼓やキンキンと華やかなしょう、それと彼女の陽気な旋律はいかにも祭りといった感じで、この場にぴったりだった。

 あたしの晴れ舞台を見に来てください、そう言われた通りの光景だ。

 賑やかな空気は、嫌いではない。ふと気づけば、周りは二組の山車を見上げていて、自分もそれに見入っていた。

 派手な後輩を、ずっと見つめていた。

 キラキラピカピカで、自分とは全く違っていて、この祭りで出会わなければ、ひょっとしたら一生関わることもなかったであろう彼女。

 そんな智恵理は、真っすぐ前を見つめて楽しげな歌をまき散らしている。太鼓に合わせ、刻まれる拍子に合わせ。

 息継ぎをし、去年と同じ――去年と同じ?

 一年前、彼女はあんな感じだったろうか。いや、違う。

 もっと強引で、相手の調子を崩しにかかっていた。身を乗り出して、大胆に――それは、変わっていないのだろうけども。

 ふいに、智恵理と目が合ったような気がした。

 その瞬間に、彼女の旋律が力を帯びる。山車を中心に、一瞬風が爆発したようにも感じられる。

 それにあおられて、後輩の山車の方のリズム隊も芯から響く音を出し始めた。するとつられて、観客の一人がそれに合わせて手拍子を始める。

 戦況が、傾いた。

 二つの山車が拮抗していた場が、一気に智恵理の色に染まっていく。蝶がヒラヒラ舞うように、風に乗って彼女の音がそこに満ちていく。

 相手の山車が、道を譲った。

 智恵理の勝ちだ。

 一年前の雪辱を果たしたかった――というわけではあるまい。

 あの後輩のことだ。そんなジメジメした理由で吹いてなどいまい。自分と違って――と思っていたら。

 通り過ぎざま、彼女はこちらに向かってウインクをしてきた。

 あれはたぶん、自分の前でええかっこしいをしたかっただけだ。噴き出して笑顔で見返すと、智恵理はそのまま、朗らかに吹きながらそのままそこを去っていった。

 拍子を刻む太鼓と共に。

 彼女はひょっとして、少しだけ他の誰かと合わせられるようになったのだろうか。

 吹奏楽部に入ったことで。

 ちょっとだけ、違う人間と力を合わせて吹くことができたのだろうか。

 それが自分と関われたことがきっかけだったら、とても嬉しい。彼女の望むものの力になれたのなら、とてもよかった――そう思っていると。

 同じく山車を見上げていた芽衣が、感嘆のため息をついて言ってきた。


「すごかったですね」

「ああ……すごかったね」


 そうとしか言えない、吹きっぷりだった。

 元々上手い後輩だったが、今年はさらに凄みが増したように思える。帰ったら、彼女には連絡してみよう。

 すごかった、と言ってみよう。

 そうしたら、どんな返事が送られてくるのだろうか。「えへへやっぱりっスかー?」などと、先輩への感謝の念もない言葉が返ってくるかもしれない。

 もしくは、まるで予想もつかないことを言われる可能性もある。それはそれで、楽しいことだと思った。

 馬鹿だなあ、と思うようなやり取りがあっても、それはそれで大切にしたい。

 そこはやっぱり、さっき考えていたことと一緒なのだ。『いろんな人に関わってみたい』――言ってみたときは、こんなんでいいのかなと思ったけれども。

 それで今の光景が生まれたのなら、わりとそれはそれでよかったんじゃないのかな、とも思う。

 彼女たちと関わっていると、そんな風に考えられるから不思議だった。何をしたいか、と訊かれれば、それはそんな周りの人たちの笑顔を見たいだけなのだ。

 やっぱり、ここには来てよかった。

 コンクールが終わって正直死ぬほど疲れていたけれど、そんなもの吹き飛ばすくらいのものを後輩たちからもらった。

 ベビーカステラはなくなってしまったけど、また新しいものを買いに行こう。

 この先は、よく分からないけれど。

 向かう先々でいろんなものをもらって、そうして歩いていこう――そう思って、後輩が去っていった方角を眺める。彼女のように真っすぐは進めないだろうけど、寄り道しながらやっていくのもいい。

 例えばそう、そこにいる同じ楽器の後輩と、どこかで買い食いでもしながら――

 そう考えてふと、鍵太郎は芽衣に訊いた。


「そういえば大月さん、何か食べたいものある? さっきベビーカステラもらったから、今度は俺が何かおごるけど」


 後輩におごられているばかりというのも、格好がつかない。

 あまり大したものは返せないが、先輩として多少のことはしてやりたい。

 そう思っていると、芽衣はしばし考えた後、言ってきた。


「いや、特に食べたいものはないです」

「せっかく先輩面できると思ったのに、返答がマジ素っ気ない……」

「でも、やりたいことならあります」

「え、なに?」


 こちらに『何をしたいか』と訊いてきた後輩の望みに、耳を傾ける。

 せっかくここまで付き合ってもらったのだ。彼女のやりたいことも叶えてやりたいところだが――果たしてどんなことを言ってくるのか。

 そう思って浴衣姿の芽衣を見つめていると、彼女は祭囃子の最中で空を見上げ、両手を広げた。


「先輩と一緒に、花火をしたいです」


 夕暮れの空には一番星があるのみで、他には何もなかったけれど。

 後輩がそう言った瞬間、そこには大輪の打ち上げ花火があがったような、そんな気がした。

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