第328話 花は咲く

 それは誰かの、思いの結晶のような音だった。

 もう自分の意思なんて、どこにもないと思っていた荒れ果てた地に。

 弾けて開いた、一輪の花。

 そんな音を、湊鍵太郎みなとけんたろうは聞いていた。

 吹奏楽部の大会、吹奏楽コンクール。

 その三年生の、県大会――最後の演奏となるそこで、鍵太郎は去年にあったことを思い出していた。

 もうみんな、バラバラになってしまうかと思った。

 分かり合うことなんてあきらめて、部活自体がなくなってしまうかと思った。

 それほどまでに、絶望的な状況だった。

 けれども――谷底に落ちてもなお。

 ぽん、ぽん――と音をたてて、花は咲く。

 色は統一されていなかった。赤、橙、黄色に紫――それぞれの色と、そして意思をもって、花たちは次々と開いていく。

 わずかに光を感じたのは、あのクラリネットの後輩が言ったように、妖精でも混じっていたからかもしれない。

 それまでの景色があまりに暗くて、そう見えただけかもしれない。しかしその開花の瞬間の光は、丸くて小さく、空に舞い上がり――誰かの顔を上げるだけの、大きな輝きを生み出した。

 それはまるで、太陽のような。

 温かい光に照らされて、辺りが見渡せるようになる。たくさんの色の花が集まった、この世の春のような光景。

 誰かの意思から始まって全員で作り上げた、一面の花畑。

 それが今、自分たちの演奏によって映し出されていた。みながやりたいことをやって、こうしたいと言い出して、それでできた最高の音楽つながり

 一緒に楽器を吹いてできた、とてもとても楽しいこと。

 そうだ、一年前はこの片鱗を掴めたからこそ、自分たちはまた立ち上がることができたのだった――そう思いながら鍵太郎は、曲を吹き進めていった。

 ズン、と腹に響くような低音は、この光景の下にある大地。

 誰かの思いを支えて、根付かせるためになくてはならないもの。

 地味で目立たないけど、なくてはならない土魔法――それを振りまきながら、歩いていく。

 去年その先にあったのは、あと一歩届かないまでも金賞という結果だった。

 今年は、どうなるのだろうか。それは分からないけれども、今はこの瞬間を、もっと楽しみたい。

 空がよりいっそう高くなって、世界はもっともっと広いのだと知る。

 どこまで行っても、果ては見えず――けれども確かにどこかにはつながっている。それを信じて、歩き続けていく。

 たくさんの間違いを犯してきた。ただそれすらも養分として、積み重ねてきた。

 はるか頭上で、太陽を背にヒバリが飛んでいる。くるりと旋回した鳥は、そのまま一声鳴いて――こちらを導くように、どこかへ飛んでいった。

 いつもいつも、そうだった。

 自分は最初、何もできなくて、その度に誰かに教えられてばかりいた。これまで歩いてきた道にはその人たちが示してくれたいくつもの道しるべがあって、それを見上げてあっちだこっちだとキョロキョロしながら歩いてきたのだ。

 いろんな人がいた。それこそ、ここの周囲にある花たちの色ように、様々な意見を持っている人たちがいた。

 仲のいいやつらがいた。物怖じしない後輩がいた。変な先生がいた。

 すごい先輩がいた。苦手な人だっていた。面白いやつも、ズルいやつもいた。

 誰一人欠けたって、ここにはやって来られなかった。

 本当に楽しかった。辛かったことばかりのような気もするけど、振り返ってみればそうでもなかったように思う。

 みんな、大好きだった。

 そう言っていたあの先輩は、こんな気持ちだったのだろうか――そんなことを考えている間にも。

 楽譜はもう、だいぶ終わりの方まで来ている。三年生になってから、ずっとそうだった。

 ずっと最後を突きつけられて、けれどももっと吹き続けていたいと、駄々をこねるようにしてやってきたのに。

 この時間がもう少し続いてほしい。終わらないでほしい。

 神様でもなんでもいい。どうか、もう一度こいつらと一緒に――


 アンコールを。


 そう願って、大きく響く音を出す。今までよりもはるかに強く、感情を込めて。

 それが聞こえたのか、再びヒバリが高く鳴く。もうどこにいるのかも見えないけれど、それでもその音を頼りにして、自分はずっと進んでいくのだ。

 転んでも、そこから命が芽吹くように。

 足跡から花を咲かせて、真っすぐに歩いていく。まぶしく輝く太陽の下、チラリと見えた鳥の羽に向かって――

 花畑の中を。

 舞い散る花びらの中を、無我夢中で駆け抜けていく。ホルンの吠える音がして、ティンパニの打音が自分を助けてくれて。

 トランペットは派手な音を出して、サックスからピッコロまで、細かい音がどんどんと連なって。

 いろんな人たちの、顔がよぎって。

 そうして見えた、全員で描き出した景色は――白い光の中に。

 まぶしすぎて笑ってしまうくらいの、そんな思いの中に溶けて消えていった。



###



 本番が終わって、拍手が起こり。

 それを背に、また慌ただしく舞台を去って――鍵太郎に訪れたのは、やりきったという安堵の気持ちだった。

 やっと、自分の望む演奏ができた。それは、他の部員たちも同じだったのだろう。

 そんなに悪くなかったんじゃないかな、意外とできたんじゃない、などといった言葉が辺りに飛び交っている。

 それは、こちらも似たような感じだった。なので高揚した気分で歩いていると――近くにいた同じ楽器の後輩である、大月芽衣おおつきめいが話しかけてくる。


「あの……先輩、どうですか。金賞、取れると思いますか?」

「分からない!」

「えっ!?」


 力強く即答すると、後輩は驚いたように叫んできた。

 いや、実際驚いているのだろう。今の演奏で部長が自信満々にそんなことを言うなんて、予想だにしなかったのかもしれない。

 けれど、本当にそう思うのだ。


「俺たちは、俺たちにできる精一杯のことをやった! だったら、それでいいじゃないか!」


 演奏が終わった直後の、余韻よいんのような熱気と。

 そして清々しさの中で、不思議とそんな言葉が出る。

 これは本番前まで思っていた、結果は自分でコントロールできないから――などといった、そういう思考ではない。

 それよりも、もっと純粋に『あの演奏ができて、よかった』という気持ちの方が勝っていた。

 賞のことよりも、今はその感情で頭がいっぱいだ。もう何も、思い残すことはない――とまではいかないけれど、こうして重い楽器を持ちながらも、颯爽と歩けるくらいに足取りは軽い。

 そう言うと、芽衣は困ったように言ってくる。


「それはそうですけど、でも……」

「でも?」

「……県代表にならなかったら、もう先輩とは吹けませんし」

「あはは。その辺に関しては、大丈夫なんだよ。実は」


 後輩の言葉に、うっかりと学校祭にも出る話をしそうになるが。

 それはまた、違う機会に打ち明けるとしよう。そう考える自分と、こぼれてくる笑顔に――ああ本気で、俺は柄にもなく浮かれているぞと鍵太郎は思う。

 長い長い冬を越え、ようやく春を迎えたときのような。

 そんな嬉しさが、身体中に満ち溢れている。時が経てば、この気持ちも薄れていってしまうのかもしれないけれど。

 あの思いの結晶のような花も、消えてしまうのかもしれないけれど――


「……はあ。そうですか。あとは結果を待つのみですね」

「そう。そしてその後にも、道は続いていくのさ」


 溶け落ちた光の先に、またひとつ、種は落ちて。

 小さな命が芽吹き――そこに再び、花は咲く。

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