第327話 再び、愛の証明

 かつて、そこで指揮を振っている先生は言った。

 自分が持っているのは、『世界を変えられる、素敵な楽器』なのだと。



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 舞台上では慌ただしく、準備が進められていく。

 その最中さなかで自分のイスと楽器をセットし、湊鍵太郎みなとけんたろうはそこに座った。

 吹奏楽部の大会である、吹奏楽コンクール。

 その本番の演奏が、これから始まろうとしていた。

 何があっても、このホールで演奏するのはこれが最後になる。挑戦が終わればそのまま引退だし、もし東関東大会に進めば今度は県外――違うホールでの演奏になるからだ。

 だから、鍵太郎は改めて客席の方を見た。

 この間ホール練習をしたときにも似た、赤い布張りのイスに、木製の壁。

 そしてほの暗い、温かい沈黙――ここで演奏する機会は、数えるほどしかなかったけれど。

 それでもここであった出来事というのは、印象深いものばかりだったように思う。

 そんなことを考えながら、横にあった自分の楽器を掴んだ。あと何回、こうしてこれを持ち上げることができるだろう。

 持ち運びには非常に不便な、大きくて重い楽器だけど、今はそんな面倒くささすら愛おしい。

 そういえば二年前のコンクールのとき、そこにいる指揮者の先生はそのときの演奏を『愛の証明』と言っていたが。

 自分にとってのこれも、そうなのかもしれない。

 三年かけて積み上げた、命ある音符の式。

 その答えがなんであったを、探る旅。

 初心者で部活に入ってから、部長として振る舞うようになった現在まで、本当にたくさんのことがあったけれど。

 これまでの道のりは、全てこの曲に対応している。

 楽譜の記された曲名は『プリマヴェーラ』――イタリア語で『春』。

 紆余曲折ありながらも、季節が廻るようにしてやってくるその再生の曲は、挫折と復活を繰り返してきた自分にふさわしい。

 だったら、そこにあった様々な道しるべを頼りに。

 とても言葉では語り尽くせないほどの、今まであった出来事を。

 この気持ちの証明を――演奏に乗せて、歌いあげよう。

 部員たちの準備が終わって、舞台を照らすライトがともる。

 アナウンスがあって、さざめく拍手があがる。

 指揮者の先生が台にあがったら――さあ、泣いても笑っても、これが最初で最後の本番だ。

 ゆっくりと指揮棒が振られれば、そこからは全ての『大好き』だったものを、巡る旅が始まる。



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 はじまりは薄く霧のかかったような、ぼんやりした景色からだった。

 まだ自分は、楽器を吹いてすらいない。吹奏楽部に入ろうなんて、片時も思っていなかった頃――そんなときから、もう全ては始まっていた。

 トランペットの音が聞こえる。

 それに引き寄せられて、演奏を聞きに行った。そこで今舞台袖にいる先輩たちと出会って、そこからもう一人、部活に入ろうか入らまいか迷っているクラスメイトに出会ったのだ。

 千渡光莉せんどひかり

 中学のときにソロを失敗して、それがトラウマになっていた彼女は、初めは楽器を持つことすら避けていた。

 けれども今は、同じ舞台に立っている。薄く音を出しながら、鍵太郎はそんな同い年の行方を見守った。

 これから光莉には、かなり目立つソロがある。

 楽器を吹いているから見えないけれども、とにかく気持ちだけは彼女の傍にいてやらなくてはならない。それは自分が、この部活に光莉を誘ったときと同じ――あの老人ホームで考えていたことと一緒だ。

 しかしそのときとは違って、今の彼女には応援してくれている人間が他にもたくさんいる。

 事情を知らなくても、同い年ではなくても。

 気遣ってくれる存在がたくさんいる。それを聞いて吹けと、自分は先ほど言ったのだが――光莉は。

 その思いの頂で、声をあげ。

 しかし一番高いその音は――裏返って外れた。


『……!?』


 この本番にきての今までになかったミスに、鍵太郎だけでなく部員全体に緊張が走る。

 けれども、演奏は止められない。

 そして、ソロも止まらなくて――そのまま風を失った鳥のように、失墜していくように思えた彼女は。

 しかしそうはならず、もう一度羽ばたいて。

 スウッと滑空するように――その旋律を、そのまま吹き続けた。

 難しく考えることなく、ただシンプルに。

 単純な思いを積み重ねて、圧縮して――そして何よりも硬いものダイヤモンドになった同い年の音は。

 そこからぐんぐんと高度を上げ、真っすぐに、光輝く太陽に向かって飛んでいく。

 そのまま、力強くそのソロを歌いきって――そのことに鍵太郎は、他の部員たちは、祝砲をあげた。

 雪解け水が一気になだれ込むように、全員の音がホール中に響き渡る。

 あのホルンの同い年でさえ、興奮したのか山々にこだますような音を出していた。曲調を考えればこれは絶対張り切りすぎなのだけれども、それはこの嬉しさに免じて許してもらいたい。

 夏ですら寒い、あの高い高い山の上で。

 光莉は不完全でも、自分の歌を貫き通すことができたのだ。

 内心では、みな心配していた。

 失敗したらどうしようと、考えていた。だってみんなそこは大なり小なり、経験しているはずだからだ。

 全く間違いを犯さない人間なんて、どこを探してもいない。

 やってしまった、と傷ついたことがあるから、人の気持ちが分かる。少し想像してみれば、ソロがどのくらい大変なことなのかは分かる。

 それは鍵太郎も、よく身に染みて知っていた。

 なぜならその筆頭が、かつて相当な勘違いをしてやらかした、自分だからだ。そう思った瞬間――

 暖かかった景色が一転。

 開いてはいけない扉を開いたかのように、冷たい風が吹きつけてきた。

 気づかなければよかった。そうと知らずに、ただ安穏とあの人から受け取っていた温かさに包まれて、眠っていればよかったのだ。

 けれど、そうしてしまったら今はいないあの優しい人に対して、非誠実だと思った。

 だから、怖くても進むしかなかった。ぬくもりを失って、吹雪の中で――たとえその寒さで、足がちぎれようとも。

 手に届かないと、あきらめてしまえば楽だったのだろう。苦い苦い記憶だと割り切って、心の奥底に封じ込めて忘れてしまえばよかったのかもしれない。

 けれど、自分はそんなに器用ではなかった。

 そんな風にのたうち回っていることこそが、きみがあの人を好きだったっていう、何よりの証拠だと思うけどねえ――なんて、あの第二の師匠は言っていたけれども。

 それだけじゃ駄目だった。

 証は、それだけでは足りなかったのだ。

 何かが違う――と、あのときの自分は、生意気ながらもあがいた。だからあの黒々しい魔女は、いなくなったあの人に代わって力を貸してくれたのだと思う。

 性質的には真逆、といってもいいくらいの先輩だった。

 皮肉げで、深く闇を見つめ、予言者じみた行動を取るあの師匠は――今そのバスクラリネットを吹く同い年と一緒で、人の昏さを知っていたのだろう。

 だから。

 宝木咲耶たからぎさくやはその暗闇さえ味方につけて、大きく息を吸った。

 ほんのわずかな隙間を挟むと、まるでスポットライトが当たったかのように、彼女に注目が集まる。

 パーフェクト――咲耶のその『無い』ことの表現に、鍵太郎は内心であの先輩のような、ニヤリとした笑みを浮かべた。

 人の陰の部分を知っても、なおそれに寄り添える彼女は、光莉とは別種の強さを持っているように思う。

 リードの震える音が聞こえる。

 木がきしむような、不穏な音がする。

 暗く、不吉なその旋律を受けたら――今度はフルートと打楽器が、ささやき交わすようにひっそりと、自分たちの音を奏で始めた。

 先代のあの部長と副部長の間に、どんなやり取りがあったのかは知れない。

 けれども彼女たちの『正しさ』は、あまりに潔癖すぎて周りからの反発を食らうこととなった。

 かく言う自分も、その冷徹すぎる論理に反抗した者のひとりで――それなのに、かざした理想はあまりに脆すぎて、一度は部長からの手厳しい洗礼を浴びることになった。

 誰だって、自分の望みをかなえたいだけなのに。

 どうしてそこに至るまでの方法をめぐって、こんなに争わなくてはならないのか。

 意地を張り合って、譲り合えなくて、縦も音程も合わなくて――楽園のようだった音楽室は、たったそれだけで地獄のような場所と化していった。

 戦って、息の根を止めて。

 そうでなければ生き残ることなど、許されないといった状況。

 そこには平和や自由など、どこにもない。

 ただ目的を見失って、その気持ちの始まりにあった炎だけを求め、それ以外の全てを焼き尽くす。

 後に残るのは、草木一本残らない荒野だけだ。後輩たちは辞めそうになった。部活はもう、なくなってしまうかもしれない。

 そんな惨状を目の当たりにして、自分はできる限りの手を打った。

 未完成ながらも行った、支配の術式。欠陥だらけのレジスタンス、ゲリラ計画。

 それらは全て、他の誰かの助けによって実現していった。

『きたかぜとたいよう作戦』――最終的にはその刃を向ける対象すら、味方にできることを信じて。

 かつて、そこで指揮を振っている先生は言った。

 自分が持っているのは、『世界を変えられる、素敵な楽器』なのだと。

 そして選抜バンドを前に、自分の横で咲耶は言った。

『この楽器を持つ人間の武器は、信じることだ』と――

 教科書にもネットにも載っていない答えは、いつだって自分の心の中にある。

 腹の底から本音を出して、そうでしか分かり合えないことばかりで。悲鳴でもいいから声を出して、その手を取り合う覚悟を持ちたかった。

 遠くから讃美歌が聞こえて、それがあっという間に消えていく。

 埋もれるようにして、押し潰されていく。冷え切った大地がついに崩れて、真冬の山の上から真っ逆さま――

 崖下に落ちて、死んでしまったかと思った。

 冷たい雪に埋もれて、真っ暗な世界に呑まれたまま終わってしまうかと思った。

 けれども、そんな谷底の景色に。


 ぽん、と一輪。


 音をたてて、光がこぼれるように花が咲く。

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