第329話 最後の審判

『――これより閉会式、ならびに表彰式の準備を始めます。各学校の代表の方、二名は、大ホール舞台袖までお越しください。繰り返します。これより――』

「ほら千渡せんど。ブツクサ言ってないで、そろそろ行くぞ」

「だ、だって……」


 夏の吹奏楽部の大会、吹奏楽コンクール。

 その会場で、湊鍵太郎みなとけんたろうは放送を聞いて、副部長の千渡光莉せんどひかりにそう声をかけていた。

 本番の演奏を終えて、あとは結果を待つのみだ。

 部長と副部長は表彰式に出なくてはならないので、二人でこれから舞台袖に行かなくてはならない。

 しかし光莉は、そんなことなど頭に入ってこないといった様子で、どんよりと黒いオーラをまとっている。


「……ソロ失敗してごめんなさい。あんなに練習して、みんなにも付き合ってもらったのに、音外してごめんなさい……」

「一番高い音が出なかっただけだろうが。それ以外は本当、よかったぞ」


 本番が終わってから今まで、ずっとこんな調子だった。

 三年生の最後のコンクール、なおかつ中学でのトラウマの払拭のためにやったソロ。

 それが完璧にできなかったことで、彼女は非常に落ち込んでいるらしい。ブツブツと膝を抱えて、念仏を唱えている。

 反省は後、演奏時は演奏のみに集中する。

 そう事前に確認し合っていたからこそ、本番はこうならずにやり切ったようだったが、終わってからの反動がすごかった。

 楽器をしまってから、光莉のテンションは滝のように落ちて上がってこないままだ。そんな同い年は、周りに人魂ひとだまでも浮かんできそうな勢いで言う。


「そうは言っても、不安なのよ……。金賞、取れるかしら……私のせいで点数足りなくて、取れなかったりしないかしら……。そうしたら本当、みんなに顔向けできない……」

「大丈夫だって言ってるだろ。むしろ、その出なかった後によくもまあ、あそこまで持ち直したと思うよ。今までのおまえじゃできなかったんじゃないか、あれ」


 頭を抱える光莉に、鍵太郎は呆れつつも言う。

 彼女は失敗というが、実際にはメロディーの中のたった一音のみが、出なかっただけなのだ。

 そのミスが致命的になる、とかつてこの同い年は言っていたが――今回は、そうはならなかった。

 かえって出なかった後に崩れることなく吹き切ったことで、他の部員たちは喜びを爆発させたくらいだ。

 それが結果的に致命的どころか、演奏に命を吹き込むことになった。

 これまでの光莉の考え方では、できなかったことだ。だったら顔向けできないどころか、胸を張っていい。

 それほどまでに見事というか、心に残るソロだった。

 ただ綺麗に吹くよりも印象的で、この先もずっと忘れないと思う。

 そう言うと同い年は、うー、とうなりこちらを見た。


「……本当に金賞、取れると思う?」

「何言ってるんだよ。そうしようって本番前、おまえが言ったんだろ」


 何があっても、一度はつまずいても。

 彼女は誰かと一緒に吹くことができたのだ。

 そしてその結果、これまでで最高の演奏をすることができた。間違いすらも糧として進んできた、そんな自分たちに相応しい本番になったように思う。

 ひょっとしたら金賞――もしかしたら県代表、なんて希望が持てるくらいに。

 先ほどの演奏には、これまでにない手ごたえがあった。

 それは微かな望みにすがっているだけなのか、自分でも分からないけれど。


「とにかく、それでも表彰式に行かなきゃ結果は分からない。ほら、覚悟を決めたら千渡、行くぞ」

「うう……なんだか晒し者にされるみたいで、落ち着かないわ……」


 それでもどこかに行かなければ、やってきたことことの意味さえ分からない。

 だから鍵太郎は、渋る光莉を引きずって、舞台袖に向かった。



###



 舞台上では、県予選のときと同じで、表彰式に向けての準備が行われていた。

 各学校の代表者二名が、演奏順にひな壇の上に並んでいく。部長が前、副部長が後ろ。そんな風に二人で並んで立ち、鍵太郎は他の学校の代表者と同じく、静かにそのときを待った。

 ステージの緞帳は下りていて、その向こうでは今回の大会の講評だろう、誰かが今日の感想を述べている。

 それが終わったら、幕が上がって表彰式が始まるのだ。

 舞台前方にはトロフィーが用意されていて、それが嫌でも目に入ってくる。トロフィーの大きさは三種類。それぞれ金賞、銀賞、銅賞用のものだ。

 当たり前だが金賞のものが最も大きく、そして数が少ない。

 あれの中の、どの大きさのものをもらうことができるのか――ここに立つ学校の誰もが、それを考えているはずだ。

 舞台の上の空気は予選のときよりはるかに張り詰めていて、嫌でも緊張してくる。先ほどは光莉にああ言ったものの、鍵太郎にだって不安はあった。

 細かいミスはもちろんあった。光莉のソロのように、明らかにそれと分かるものもある。

 それに気づいていないだけで、プロからすれば至らない面はそれこそ、山ほどあっただろう。

 審査員が聞く演奏と、自分たちがステージ上で聞いていた演奏は違うのだ。本番が終わった直後はやり切った感がすごくて、賞なんてなんでもいいなんて後輩に言ってしまったけれど嘘ですごめんなさいやっぱり金賞ほしいです――なんてことを。

 誰とも話せない緊張感の中で、ぐるぐる考え始めたとき。

 緞帳の向こう側で拍手がして、閉会式の挨拶が終わったのだと悟った。ここから幕が上がったら、表彰式が始まるのだ。

 結果が、言い渡されるのだ――そう思ったときには、もう音もなく緞帳は上がり。

 代わりに各学校の生徒たちからの、拍手が聞こえてきた。

 ワッ――と、幕一枚でさえぎられていた熱気が、こちらまで伝わってくる。

 それに、一気に鼓動が跳ね上がった。動揺を必死に押さえつけていたため、傍目には無表情に思われたかもしれないが。

 けれども身体の中では、心臓がバクバク鳴りっぱなしだ。何も目に入ってこない。さっき後ろにいる副部長には覚悟を決めたら、なんて言ったけど、そんなカッコイイことなんてもう言えなかった。


『それでは、これより表彰式を始めます』


 そんなアナウンスですら、最後の審判へ引きずり出されるようなものの気がしてならない。

 あのバスクラリネットを担当する同い年なら、閻魔大王の前にいるようだ――とでも例えただろうか。

 何を言っても見破られる。

 嘘をついたら舌を引き抜かれる。

 少しでも不誠実なことがあったら地獄行き――すなわち、引退。

 スズメもヒバリも、等しく二度と声を出すことはなくなる。自分たちの歌は、そこで途切れる――後にどれほど、後輩たちが盛り立ててくれようとも。

 そんな舞台の前方に、演奏順に各学校の部長が進み出ていった。

 最初の学校は、賞状の全文が読み上げられる。銀賞。がっかりしたような空気と、どこかほっとしたような複雑な雰囲気の中、その学校の部長は拍手の中でトロフィーを受け取っていた。

 自分も流されるまま拍手をして、そのまま呼ばれるのを待つしかない。ステージでは予選と同じく係員が誘導を行っていて、いつの間にか行列ができている。

 まだだろうか。早くしてくれないだろうか。そう思っていたとき――『ゴールド、金賞』の声がして、そのアナウンスに受賞した学校の叫び声が被った。

 吹奏楽部には、どうしたって女子が多い。

 だから、その叫び自分の学校と同じく、甲高い黄色い声で――それにふと、鍵太郎は自分たちの学校はどこにいるのだろう、と客席を見回した。

 いた。

 よく見てみれば、一階席の真ん中あたりに、見慣れた制服の集団がいた。みな、それぞれ手を組んで祈ったり、黙ってステージを見つめていたりしている。

 それが視界に入った瞬間、ふっと肩の力が抜ける。大丈夫、ひとりじゃない、いける――そんなことを考えてしまった弱い自分に笑ってしまいそうになりながら、少しだけできた余裕の中で、鍵太郎は列の流れを見守った。

 金賞の枠はひとつ、減った。

 あの大きなトロフィーは、ひとつテーブルの上から姿を消した。

 けれども、彼女たちがいてくれている限り、自分は逃げるわけにはいかないのだ――そう考えているうちに、自分の学校の順番がやってきて。

 鍵太郎は、舞台の中央に歩み出た。


『――二十八番。川連第二高校』


 後ろには光莉がついてきている。こんな状況なのでここに来てから、一回もしゃべっていない。

 けれども彼女も絶対に、思っているはずなのだ。どうか結果を。その大きなトロフィーをと――自分と同じように、震える足で。

 きっと客席にいる部員たちも、似たような感じだろう。

 そんな学校の部長として、ステージに立つ。どんなことを言われても、もう受け入れるより他ない。

 そして、長いようにも短いようにも感じられた、沈黙の中――



『――ゴールド、金賞』



 そのアナウンスに、ホールの中で爆発的な歓声が起こった。

 聞こえるその黄色い声に、卒倒しかけた自分が戻ってくる。もはや結果にそうなったのか、彼女たちのどこまでも響く力強い声に、張り倒されそうになったのかも分からない。

 けれども、そんな自分たちにも、そこの一番大きなトロフィーが渡されるのだ――瞬間で騒がしくなった客席に、内心で苦笑しながら。

 鍵太郎は、賞状と、そして金色に輝く大きなトロフィーを受け取った。

 けれど、自分の楽器より圧倒的に軽いそのそれを持って、思う。

 まだだ。

 まだ、肝心なものが残っている。

 去年はここまで行った。この大きさのものは、今も学校の音楽準備室に飾ってある。

 だから、もうひとつ。


『では、これより東関東大会への、推薦校を発表します』


 今度は、この先への切符が必要なのだ。

 自分たちが演奏をし続けるためには、もう一段、上がらなくてはならない階段がある。

 聞いている人たちからのアンコール。次はもっとたくさんの人たちに聞いてもらってきなさい、という、審査員たちからのエール。

 去年はここで、代表の座を逃した。

 今回の高校B部門の参加校は四十校。そのうち金賞を受賞したのは、十校。

 そこからさらに、代表の枠は絞られることになる。例年通りなら、東関東大会に行けるのは、半分の五校といったところだろうか。

 自分たちが金賞を受賞した学校の中で、どのくらいの位置につけているのかは全く分からない。光莉の言うように明らかな間違いもあったし、どんな基準で評価されているかも正直あいまいだ。

 話によれば、自分たちの学校はこれまで、一度も県代表になったことはない。

 だから、金賞を取ったとはいえ、その一角に食い込めるかどうかの保証なんてまるでない。けれども、どうか。

 もう少し、吹かせてください。

 結果はもう出ているはずなのに、そう思わずにはいられなかった。祈っても願ってもしょうがないのに、心の中で手を組まずにはいられない。

 代表一つめの学校が、名前を呼ばれた。発表は、やはり演奏順にされることになる。

 金賞を取った学校から本番が早い順に、学校名が言われていく。だからそこで自分たちを通り過ぎて後の学校が呼ばれてしまえば、そこで終わりだ。

 客席では、名前を呼ばれた学校の生徒たちが飛び上がりそうな勢いで、喜びを分かち合っている。

 自分たちの学校は、何番だっけか。そう――



『――二十八番』



 え、とその瞬間。

 鍵太郎の思考は完全にフリーズした。

 けれども、どこかで。

 もう一度ヒバリが鳴くような、そんな甲高い声が聞こえたような気がした。



『川連第二高校、吹奏楽部』

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