第323話 足りないピース

「よう、久しぶり。準備はできてるか?」


 そう、二つ上の先輩である滝田聡司たきたさとしが話しかけてきたことに。

 湊鍵太郎みなとけんたろうは、バスから降りながら苦笑した。

 今日は吹奏楽コンクール、県大会本番。

 自分たちが今いるのは、その会場となるホールの駐車場だ。学校ごとにバスとトラックの止まっているそこには、聡司たちOBOGの姿がある。

 二つ上の卒業した先輩たちには、今回打楽器運びを手伝いに来てもらっていた。

 ちなみにひとつ上の学年の部長は、そういうことならと今日は、客席にいる予定らしい。後輩たちの演奏を聞きたいから――という意味も、もちろんあるだろうが。

 もうそろそろ、ひとつ上の先輩とは、面と向かって顔を合わせてもいいのではないか。そんなことを、あの前部長に対しては思うのだけれども。

 まあ、当の本人がそう希望したのだから、無理は言わない。

 心の準備ができてから、いくらでも話せばいい。そう思って、鍵太郎はその、OGの先輩たちを見る。

 無論そこには、あのちびっこ鬼軍曹のさらに前の部長である、あの人の姿はない。

 当たり前だ。あの自分と同じ楽器の二つ上の先輩は、数日後のコンクール一般の部――つまり、別の日の大会に出るのだから。

 今頃はあの人も最後の追い込みや準備で、忙しいことだろう。寂しいけれど、それでいいのだ。

 どこか遠く離れた空の下にいようとも、あの人が元気でやっているのなら、それでいい。

 それでいいのだ――そう自分に言い聞かせて、鍵太郎は聡司に言う。


「トラックは別便でそろそろ着くはずです。そうしたら、越戸こえどたちをそっちに向かわせますので。あとは、あいつらと一緒にやってください」

「りょーかい。まあ、勝手知ったる領分だ。何かあっても、こっちで対応するから心配すんな」


 そしてそんなこちらの苦笑を、どう捉えたのだろうか。

 先輩が頼もしくもそう言ってくれるのを聞いて、鍵太郎は今度こそ笑ってうなずいた。あの人はいないけれど、今日は自分たちの大会だ。高校三年生、最後のコンクール。

 しかも今年は、自身が部長――そんな特別な日だ。

 だったら落ち込んでいる場合ではない。演奏に最善を尽くさねばなるまい。そう思って、頬を叩き気持ちを切り替える。

 楽器を積んだトラックはこちらとほぼ同時に出たので、もうそろそろ着くはずだ。

 バスの窓からは、先輩たちに向けて打楽器の双子姉妹が手を振っている。それに、「あいつらも上手くなったんだろうなあ」などとしみじみと言う聡司と、手を振り返すOGたちを鍵太郎は見渡した。

 あの人はいないけれど、そこには自分が一年生のときの三年生が、ほぼそろっていて――


「……って、あれ?」


 しかしその面子の中に、もう一人あるべき人物がいないことに、首を傾げた。

 マイペースなトロンボーンの先輩はいる。チェシャ猫みたいに笑う、イタズラ好きのサックスの先輩はいる。

 けれども、あのハイテンションなトランペットの先輩の姿がない。

 学年の先頭に立っていた、豊浦奏恵とようらかなえがそこにはいない。

 こういうところには、必ず顔を出すような人なのに――人員集めは先輩たちに丸投げしてしまったので知らなかったが、何か外せない用事でもあったのだろうか。

 そう思って、よくその人とつるんでいた、事情を知っているであろう聡司に訊いてみる。


「先輩、豊浦先輩は?」

「……豊浦は、なんか調子悪いみたいでな。今日は来られないって言ってた。おまえらにはよろしく言っておいてくれって頼まれたよ」

「……ふーん」


 らしくない、と思う。

 あのお祭り騒ぎが大好きな先輩が、こんな風にみなで集まる機会を逃すなんて、あり得ない。

 それほどに、豊浦奏恵という先輩は、鍵太郎にとって印象的な人だった。

 まあ、誰にでも事情はあるだろうし、たまたまということもあるだろうが――どこか、気になる。

 何か、あったのだろうか。去年のコンクールのときのことを思い出して、考えていると――聡司が頭をかきつつ、言ってくる。


「詳しいことはオレも直接は会ってないんで分からないんだが、ちょっと体調が悪いみたいなことを言ってた。だから今度、みんなで会いに行こうって話になってて――ああ、だから、さっきも言ったけど心配すんな。その辺の話は、オレたちが当たってみるからよ」

「……そう、ですね。分かりました」

「今日はおまえらが主役なんだ。思いっ切りやってこい。そのために今、オレたちはいるんだからな」

「はい」

「おう、やらかしてこいよ」


 ちっとばかり、足りないものもあるかもしれないけど。

 それもそのうち、なんとかなるもんだからな――そう言って、これまでの様々なことをくぐりぬけてきた先輩は、わずかな不安を笑い飛ばし。

 そしてその視線の先には、ちょうどみなの楽器を乗せたトラックがやってきていた。



###



 聡司たちと別れ、楽器を運び、リハーサルまで自由時間になって。


「さて、と。とりあえず何か飲むか」


 鍵太郎は、水分補給をするべくホールの自動販売機まで向かっていた。

 いくら屋内はいえ、吹奏楽コンクールは夏の大会である。ここまで来るにもだいぶ汗をかいたし、本番までにひからびて枯れないように、何か飲まなくてはならない。

 他の部員たちは、それぞれ楽器置き場で休んだり、他の学校の演奏を聞きに行ったりしている。そう、他の学校だ――と思いつつ、鍵太郎はすれ違う、知らない学校の生徒を横目で見送った。

 これまでもそうだったが、コンクールの会場に着くと突然違う学校の制服を目にすることになるので、少し緊張する。

 いつもは自分たちだけで練習しているから、それはそうだ。いきなり見ず知らずの人たちだらけのところに、しかも順位のつく場で出会うのだから、心の奥底に張り詰めたものを感じる。

 思えばこの三年間、ずっとそうだった。

 どの学校も、どの生徒も、それぞれ持っている価値観が違う。

 金賞県代表に命をかけているところもある。

 参加することに意義があると思っているところもある。

 どこだって間違いではない。結果の捉え方すら、一概に同じとは言えない。

 けれども、ここで自分が一番望む結末を手にしたい――それは誰だって、同じのはずだ。

 たとえ学校ごとに考え方が、相容れないものだったとしても。そう思って、自動販売機の前でミルクティーにしようかレモンティーにしようか、指をさまよわせていると。

 後ろから、どこか知らない学校の生徒の声が聞こえた。


「あーあ。あそこもレベル落ちたねー。あそこであんな音ミスする? ありえなくない?」

「しょーがないでしょ。でもあれで、うちの学校にもチャンスが出てきたじゃん。今回ならいけるかもよ、東関東」

「かもねー。今年こそ、うちらが金賞を奪い返してやるんだから」

「……」


 そんな会話を、鍵太郎は。

 スイッチを押せないまま、振り返らずに聞いていた。

 別に、ここで何をしたところでその生徒たちの意見は変わらないだろう。

 自分はこの大会に参加している、ひとつの学校の、いち部員に過ぎない。なら、聞き流せばいいのだ。

 雑音だと思って、瞬間的なノイズだと思って忘れればいい。

 何を言われたところで、それでも演奏をすることには変わりはないのだから。

 今日までどんな考え方でやってきて、どのくらいそれが発揮できるかだけの話。

 たった、それだけの話――なのに、なぜ。

 こんなにも、気持ちが暗くなるのだろうか。そう思いつつ鍵太郎は、目についたレモンティーのボタンを押した。こんなときくらい、せめて口にするものは爽やかでありたい。

 ホール内は飲食禁止なので、ペットボトルを持って落ち着ける場所へと移動する。

 なるべく一息つけるところへ。警戒の解けるスペースへ。

 そう思ってやってきたのは、あのひとつ上のバスクラリネットの先輩がよくいた、舞台を映すテレビの前だった。

 ここなら、演奏の音に耳が行くし、腰を下ろして気を休めることができる。

 あの第二の師匠がここに入り浸っていたのは、こういう意味合いもあったのかもしれない。そう考えつつ鍵太郎は、椅子に座ってレモンティーを飲んだ。


「なんだかなあ……」


 思わず、ため息と共にそんな声が漏れる。

 本番の前にテンションを下げるようなことはしたくなかったし、するつもりもないのだけれども。

 それでも周囲のざわめきが、悪意のあるものに思えて仕方がなかった。決してそんなことはないのだろうが、獣か何かに取って食われそうな気すらする。

 見方を変えれば、ここはそういう場なのだろう。点数を競って、誰かを打ち倒して、代表の権利を勝ち取る場所。

 だけども一向に、そういった気になれないのだ。

 あの野球部の友人が言っていたように、やはり自分は根本的に、競争に向いていないのかもしれない。

 点数が付くから、なんなのだろうか。

 上手いから、なんだというのか――ああいうことを聞くと、そう考える自分がどこかにいるのだ。

 もっとがっつかないと、望むものは手に入らないよ、などと言う人もいるのかもしれないけれど。

 そういう人の言いたいことは分からないではない。それは誰だって、金賞を取れたら嬉しい。

 他の人より評価してもらいたい。より多くのポイントをもらいたい。

 SNSでたくさんイイねと言ってもらいたい。だって、みんなが見ているのだから。

 だけども、全部そのために行動するのだとしたら、とても疲れる――そんな風に考えて、鍵太郎は天を仰いだ。

 以前にあの指揮者の先生も言っていたが、これはきっと、永遠に結論が出ない部分なのだろう。

 自分自身で答えを出さない限り、どうにもならないのだ。

 準備はできているか――そう、先ほど先輩には言われたけれど、準備なんてできていなかった。

 まだどこか、足りないピースがある。

 この底の抜けた理想を埋める、重要な部分がある――そんなことを考えて、再びペットボトルの蓋を開けようとしたとき。


「……湊くん?」


 ずいぶん昔に聞いたような、懐かしい声がして。

 そちらを向いてみれば、そこには背の高い人物が。


「ああ、やっぱり湊くんだ! 久しぶり!」

「おまえ……!?」


 南高岡高校三年、入舟剛いりふねつよしが。

 かつて選抜バンドで一緒に演奏したことのある――どこかあの人にも似た、煌めいた理想を持つ人間が、そこには立っていた。

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