第322話 直前のリスタート

 悠々と空を飛んでいた鳥が、ふっと風を見失ったかのように落ちていく。

 そんなトランペットの同い年の吹きっぷりに、湊鍵太郎みなとけんたろうはああ、今年もこの時期がやってきたなと思った。



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「人を季節の風物詩みたいに言わないでくれる!?」


 ということを、合奏が終わってから話すと。

 そのトランペットの同い年である千渡光莉せんどひかりは、当たり前のようにこちらに抗議をしてきた。

 今はコンクールの県大会の、本番直前。

 そんな段階にきて、これまで順調だった光莉のペースが狂い始めたのだ。

 大丈夫なときは大丈夫なのだが、時折電源を落とされたかのように、上手くいかなくなることがある。

 以前から、重要な本番であればあるほど責任を感じてしまって、緊張から吹けなくなっていた彼女だ。

 そう思うと、コンクールの大舞台が近づいてきたという感じではある。しかも自分たちは三年生。

 これで、最後かもしれない舞台なのだ。そう考えると光莉がプレッシャーを感じるのも無理はない。

 本番に弱い。

 最後の最後に立ちはだかるのは、結局この壁だった。

 本当に、初めて会ったときからこれまで、ずっとこの問題には直面してきたよなあと思いつつ。

 鍵太郎は同い年に言う。


「いやあ、なんかそうだよな。おまえがそうなってからがむしろ本番、みたいな感じあるよな」

「失敗前提で話されるの、すっごいムカつくんですけど!? わ、私だって別に、ミスしたくてしてるんじゃないのよ!?」

「それは分かってるよ。ていうかむしろ今年はこれまで、よく何事もなくやってこられたなと思って」


 予選のときも、老人ホームでの本番のときも。

 今年に入ってからの光莉は、案外とソロのような緊張する場面でも、自分の楽器を吹きこなしていた。

 それが、今になって急に――ということは、やっぱりコンクールというのは特殊な舞台なんだな、と鍵太郎が再確認していると。

 光莉が言う。


「……予選のときは、そうよ。そんなに、失敗するかもとか思わなかったんだけど。なんだか最近になってから、吹いててそういう考えが、チラチラ頭をかすめるようになって……。そういうときに限って、よくないのよね。練習して慣れてきて、変なことまで考える余裕ができちゃったのかしら?」

「他の事にまで気が回るようになった、ってことか。いいことなのか、悪いことなのか……」


 確かにこの同い年は、隙あらば練習をして、自分のソロを成功させようと努力してきた。

 それが裏目に出た、ということなのだろうか。いいや、そういうことじゃないと思うんだよな――と、鍵太郎は天を仰ぐ。

 慣れてきたというのはあるかもしれないが、練習してきて上達することはあっても、できなくなるという構造は何かがおかしい。

 なら、その原因はもっと、他のところにあるはずだ。

 それは、一体なんだろう――と、そのまま考えていると。

 そういった悩み事とは、一切無縁そうな同い年が話しかけてきた。


「あれ。なんか湊が、また難しいことを考えてそうな顔をしてる」

「おまえか、浅沼あさぬま……」


 同じく三年生のトロンボーン吹き、浅沼涼子あさぬまりょうこだ。

 部員全員、先輩後輩関係なく満場一致で『アホの子』と共通認識のある彼女である。

 しかし、才能だけは間違いなく天下一品――この部の中では、誰も涼子に敵う者はいない。

 それを生かして、高校を卒業したら音大に行ってプロになろうという彼女だ。そんなこの同い年なら、この状況を打破する何かを持っているだろうか。

 涼子くらいになると、自分たちが真似できるものなど、もはやなさそうな気もするが。けれども、駄目で元々と思って訊いてみることにする。


「なあ、浅沼。おまえさ、ソロ吹くときとかって、何を考えてやってる?」


 前に、人に教えるのは苦手、と言っていたこの同い年ではあるのだけれども。

 音大に行くと決めてから、彼女はあの外部講師の先生のところへ習いに行っているはずだった。

 だったら、何かそこで言われていないだろうか。そう思って尋ねたのだが。

 涼子はこちらの問いに、不思議そうに首を傾げて言ってきた。


「なんにも考えてないよ?」

「ああ、実におまえらしい返事をありがとう!? まあそうだよな、おまえに訊いた俺が馬鹿だった――」

城山しろやま先生には、なんにも考えずに吹きなさいって言われたし」

「そうだよな、あの先生はすっごい、おまえに合った指導をしてくれてるな! なんにも考えずに吹け、なんにも考えずにって……え?」


 そこで同い年の言葉に、自分が思ったこと以外のことが含まれていることに気づいて、鍵太郎は動きを止めた。

 涼子の言っていることは、彼女くらいの才能の持ち主でないとできない、といった方法ではない。

 もっと幅広いものに根差した、誰にでもできることを教わっているように思えた。

 それが、この同い年をさらに進化させているのか――けれども、そんな自覚すらないのかもしれない。

 涼子はきょとんとした顔のまま、こちらに続けてくる。


「先生が言ってた! 練習中でも本番中でも、何かやっちゃっても気にしないで、そのまま吹いた方がいいんだって! 反省は後からできるから、そのときはそのときで、曲をやることにだけに集中しなさいって!」

「あ……」


 そんな、同い年のセリフに。

 鍵太郎は、『演奏中は、曲のことしか考えていない』と言い切った、ひとつ上のフルートの先輩のことを思い出していた。

 あの人も、そういえばその方法で、部員を圧倒するほどの演奏をしていたのだった。

 そうだ、すっかり忘れていた。そして振り返ってみれば、光莉も。


「なあ千渡。そういえば今年おまえが上手くいった本番も、なんにも考えずに思いっ切り吹いたやつじゃなかったか……?」


 新入生歓迎演奏でも、老人ホームでも。

 そして、この間のコンクールの予選でも。

 彼女は何も考えない方が、いい結果を残してきた。

 あれこれ考えるよりも、その場の雰囲気に乗ってしまった方が、よく響く音を出していた。

 それは、光莉が本番で余裕がなく、いい意味で『曲のことしか考えてなかった』からではないか――そう考えていると、彼女は言う。


「ま、まあ、確かにそうかもしれないけど……。でも、なんにも考えてないって、練習してるって言えなくない? 考えながら吹く方が、いいことのような気がするけど……」

「あ、それねえ、城山先生が言ってたよ。『考えながら吹くと、考えることと吹くことの二つを同時にやってることになるから、どっちかにした方がいいよ』って。そーだよね。両方やってたら、パワーがどっちにも行き渡らない感じはするもんね」

「な……」


 あっけらかんと、自分の前提を崩されたことに。

 光莉はそんなこと思いもしなかった、といった風に絶句した。

 それこそ、余裕がなくてそこまで考えが至らなかったという感じだ。そして、そんな同い年たちの様子に――鍵太郎も、自らのことをかえりみて、額を押さえた。

 やってる。

 結構自分も、考えることと吹くことと、二つを同時にやっている。

 人の振り見て我が振り直せ、とはまさにこのことだ。すみませんでした先生、これからはちゃんと、本当の意味で集中してやります――と、先生の笑顔に心の中で謝りつつ。

 鍵太郎は、光莉に言う。


「あー……なんとなく、分かってきた気がする。千渡、おまえ吹きながら、自分の演奏のチェックしてるだろ」


 自分もそういったところがあるから、分かる。

 おそらく彼女は練習をしながら、自分の演奏に点数を付けている。

 石橋を叩くように慎重に、入念にチェックをしながら歩こうとしている。

 でも、それでは周りのスピードについていけないのだ。


「慣れてきて、他のことを考える余裕ができてきたのはいいと思うんだよ。でも、その余裕を、自分にダメ出しする方に使わない方がいいと思うんだ。だったら先生の言うように、何も考えないで演奏に百パーセント注いだ方が、いいと思うな。俺は」

「け、けど! 自分で自分のやったことを見ないで、どうするっていうのよ!? それをやらないって、なんだかサボってるみたいで、落ち着かないんだけど……」

「あのさ、千渡」


 それでもどうしても、自分のやり方を頑なに守ろうとする同い年に。

 鍵太郎は待ったをかけて、そこから少しだけ躊躇ちゅうちょした。

 自分がこれからやろうとしていることは、ある意味では彼女を傷つけかねない行為だ。

 ひょっとしたら、それこそダイヤモンドのごとく、光莉の心は砕け散ってしまうかもしれない。

 けれども、この三年間を一緒に過ごしてきた日々を信じて――鍵太郎はいったん、目をつむり。

 そして開いて、引っ込めかけた自分の意思を、口にする。


「ごめん、ちょっとキツい言い方かもしれないけど……できないやり方を『やってる気にならないから』で、いつまでも続ける方が、よっぽどサボってることになると、俺は思う」

「……!」

「別に、おまえを責めたいわけじゃない。けれどもその方法を続けていたら、今よりもっと本番の後で、後悔するんじゃないかと思って……」


 無理をして羽ばたいていた鳥が、地に落ちていく姿はもう見たくない。

 自分で自分を追い込んでいった挙句。

 全部が終わった後に、取り返しのつかないことをしたと今よりも深く傷つくくらいなら、ここで言ってしまった方がいいはずなのだ。

 彼女のため、なんて言葉でごまかさない。

 泣きわめかれても叩かれてもいい。

 そうされても仕方がないくらいのことを、自分はやっている。

 だったら何をされても、全部引き受ける――そんな覚悟を持って、言ったセリフだったのだけれども。

 それに反応したのは、光莉ではなく涼子の方だった。


「大丈夫だいじょうぶー。間違いって誰にでもあるよね。あ、そうだ。もし不安だったら、あたしが隣で聞いてるから、どうだったか訊いてみて! なんか言うから!」

「……浅沼」

「……涼子、ちゃん?」


 表情を失いかけた同い年を救ったのは、やっぱりなんにも考えていないアホの子で。

 周りを巻き込んでいる自覚のない、台風の目のような彼女は。

 三年生になって、より光莉の近くで吹くようになった涼子は――その大きな風をもって、同い年を再び舞い上げる。


「あたしも結構間違うし、だったら今度、一緒に聞き合って練習しようよ! なんか難しい顔して考えながらやってるより、その方がずっといいじゃん!」

「……いい、の?」

「うん! 助け合い助け合い!」

「助け、合い……」


 そんなの、今まで考えもしなかった、といったように。

 光莉は、その単語を小さく口の中で転がした。

 かつて『他人と一緒に吹く努力をおこたった』と中学のときに同じ部活で吹いていた人間から言われた、彼女からしてみれば。

 それは見えていても、意識できなかったものなのかもしれない。

 この前、『人の助けを借りてもいい』ということは、同い年の双子姉妹にも言われたけれども。

 分かっていてもなかなかそれを、光莉は実行できないでいた。それはそうだ。言われて簡単にできるなら、とっくの昔にやっている。

 考え方の癖は、自分だけでは気づかない。

 だから彼女はひとりで、ループにはまっていて――けれど、この三年間でこの同い年にも、一緒に吹く仲間ができてきたのだった。

 例えば――


片柳かたやなぎさんも入れてさ。三人でやればいいよ。二人っきりだとお見合い? ていうのかな。なんか言わなきゃーってお互いに緊張しちゃうけどさ。もう一人いたら色々、言いやすいんじゃないかなーって思うし」

「……あいつも入れて、か」


 気持ち的にはすごく、複雑だけど。

 まあ言ってることは信用できるし、悪くはないわ――などと、ボソリとつぶやく光莉に。

 鍵太郎はとりあえず、彼女が自分の状況を受け止め始めたと判断して、ほっと一息ついた。

 だいぶ突っ込んだことを言って、下手をしたら全部がぶち壊しになるのではないかと思っていたけれど。

 涼子のおかげで、なんとかそうはならずに済みそうだった。しかし、正論という刃で光莉を傷つけたことに変わりはない。

 必要だったこととはいえ、ひどいことをしてしまった。

 もっと違う方法はなかったのだろうか――そんな考えが重くのしかかってきて、目線がどうしても下を向く。


「……ごめん、千渡」

「……なんで謝るの。あんたはやるべきことをやったんでしょう。だったら顔を上げなさいよ」

「……うん」


 言われて、うつむいていた頭をなんとか持ち上げ、光莉を見る。

 彼女は、いつも通り少し怒ったような顔をしていて――けれどもその表情の中には、それでもこちらを気遣うような、そんな色がある。

 それは、先ほどまでの自分と同じ顔なのか――分からないけれど。

 この三年近くを一緒に過ごしてきた同い年は、ため息をついて自分の思ったことを口にしてくる。


「人に注意をすることが苦手なあんたが、ここまで言ったんだから……私だって、それがどのくらい重要で大変なことだったのか、少しは分かってるつもりよ」

「……うん」

「……大丈夫。おかげで、目が覚めたから」


 ショック療法――っていうんじゃないけど。

 あんたのおかげで、私自身が作ってた壁を、ぶっ壊せたような気がするから――そう言う光莉の瞳には、これまでになかった、強い輝きが宿っていた。

 壁ばかりを見つめて、空を見ることを忘れていた鳥が、太陽の輝きを目に映したように。

 同い年はこちらを真っすぐに見つめて、言い放つ。


「……私なら言ってもいいだろうって、そう思って言ってくれたんでしょう」

「……うん」

「それって、私のこと信用してくれてるってことでしょう。なら、平気。許してあげる」

「……ありがとう」

「さあ、そうと分かればあとは練習するのみよ! なんか観念的なことばっかりで話がフワッフワしてたけど、要は金管楽器のパートリーダー同士で集まって練習しようってことでしょう。だったらここから先は、私の領分!」


 だからあんたは、そこでウジウジしてないでやることやりなさい! ――なんて。

 ビシっと指をさしてくる光莉は、すっかり元の調子に戻ったようだった。

 サボるな、と人に言っておきながら、いつまでも同じ場所に留まっているのはそれこそ怒鳴られかねない。

 だったら、少しでも前に行けるようってでも進むしかない。

 本番はもう、目の前だ。

 それに、間に合うかどうかは分からないけれど――


「ていうか、金管のパートリーダーっていうんなら、チューバの俺もそうなんだけど……」

「あんたはいらない。私が練習したいの、ソロの部分だし。伴奏楽器のあんたは別のことやってなさい」

「ええ……」

「湊も湊で、考え過ぎだと思う」

「おまえに言われたくないぞ、浅沼」


 新しい風とやり方を得て、鳥は再び飛び立った。

 なら、その方向を目指していけば――今度は壁の先にある、また新しい景色を目にすることができるのだろう。

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