第321話 「ありがとうございました!」

 ぽん、と遠くの方で、木琴マリンバの響く音が聞こえる。

 やっぱり広いところで吹くのって気持ちいいな、と湊鍵太郎みなとけんたろうは感じていた。



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「どうした浅沼あさぬま。ぼーっとして」


 コンクールも間近、ホール練習のその日。

 舞台上のセッティングをしていた鍵太郎は、同い年の浅沼涼子あさぬまりょうこがじっと客席を見ていることに気づいた。

 ぼーっとしていると言いはしたが、彼女の場合は独自の嗅覚で、何かを感じ取っているという風にも見える。

 それほどまでに、こと演奏に関しては野生の勘というか、天才的なものを持っている涼子である。

 そんな同い年が立ち止まって、ずっと何かを見つめているということ自体が、鍵太郎にとっては不思議なことなのだ。

 すると涼子は、問いかけにいつものように、笑って答えてくる。


「うん、ここで吹くのも、ひょっとしたら今日が最後になるのかもしれないと思ってさ」

「ああ……そうか」


 自分たちは三年生。

 そして今からやるのは、県大会に向けての練習だ。

 つまりそこで支部大会まで抜けられなければ、その時点で引退――このホールで演奏することはもうないということでもある。

 もしかしてもしかしたら、続けていればいつかまた、機会が巡ってくることもあるのかもしれないけれど。

 少なくとも自分たちが今現在分かっている範囲では、ここに来る予定はもうないのだった。

 もちろん、東関東大会に出られればいい。

 けれども、物事に『絶対』はあり得ない。

 ここで部長として「大丈夫、これで最後にはならない」などと断言できれば、それはそれでかっこよかっただろう。

 けれども、それが虚勢でしかないと、ある程度の嘘があると。

 ここにいるみなは、気づいてしまっている。

 だからこその、今の涼子のセリフだ。彼女も本能的に、真実を見抜いている。

 その上で、『この光景』を目に焼き付けようとしている――そういうことなのだと理解して、鍵太郎は涼子と同じく、客席を見た。

 赤い布張りの、ふかふかした椅子。

 木の壁に、高い天井。

 そして照らされていない、薄暗くて広い空間――かつてそこに、ホールの精霊でもいるのではないかと、初めて来たとき自分は思ったものだったが。

 静かで澄んだ空気の中からは、やはりどこかからこっそりと、ここにいる『なにか』に見られていそうだった。

 こちらからは分からないだけで、『それ』は演奏の手伝いをしてくれる。いつもは感じない響きをもって――そう思って、鍵太郎は同い年に言う。


「なあ、浅沼」

「なに?」

「今日はさ。本当にいい演奏しような」


 一年生のときから今まで、通った数は少ないけれども、印象に残る思い出がたくさんあるホール。

 そんなところで、練習だからとかそういうことではなくて、本当によい音を響かせたかった。

 それがこの空間と、どこかで笑っている『なにか』への最高の恩返しだ。

 そう考えての鍵太郎の提案に、涼子はきょとんとして言う。


「うん? それって、いつものことだよね?」

「そうか。そうだよな、いつものことだ」


 相変わらず単純明快な同い年の思考に、おかしくて笑ってしまった。

 そう、いつものこと――変に気負わず、必死の圧力もかけず。

 ただ自然体で、吹けばいい。

 きっとそれを、このホールは望んでいる。自分たちの力を、何倍にも引き出してくれる。

 だったらいつも通り、楽しんで吹けばいい。涼子の返答に、鍵太郎がそう考えていると――彼女は首を傾げた後、「あ、でも」と言った。


「いつものことじゃないけど、やりたいことなら今思いついたよ! ねえ湊、練習終わったら、やろうよそれ!」

「ん? 何やりたいんだ、おまえ」

「えーっとね、あたしたち三年生のみんなでさ――」


 続く涼子の提案に。

 鍵太郎は先ほど以上に大笑いして、「もちろん、やろうぜ」とうなずいた。



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 ぽん、と木琴マリンバの音が弾けて。

 その空気の震え具合に、鍵太郎は内心で笑みを浮かべていた。やはり、広いところで吹くのはいい。

 今まで聞こえなかったものが聞こえる。

 見えなかったものが見えるような気がする。

 そのまま吹き進めていくと、ザアァァァァァ――と風が吹くようにして、曲の光景が広がっていった。

 澄んだ空気と、穏やかな流れ。

 それに、草木の揺れる音。

 そのざわめきに混ざって、ホールの精霊が――後輩の言葉を借りるのなら妖精が、顔をのぞかせていたような気がした。

 姿形は、まるで見えないのだけれども。こういうところに来ると、自分の力がいくらでも増幅されたように感じるのだ。

 それは、この場所の力を借りているからだと思えてならない。

 これまで出なかったような音が出て、これまでに描けなかったものが描ける。

 薄暗かったはずの空間は、一気に光度を増して、今まで見えなかったものを映し出した。

 一面の花畑。

 それを見回して進んでいると、頭上でトンビの鳴くような甲高い声がして、空がとんでもなく高いことを知る。

 その鳥についていくと、いつの間にか花畑に足を踏み入れていて――ゆっくり進んでいくと、色とりどりの花々が、自分を迎え入れてくれた。

 部長だから、やらなくてはならないからと気弱になるときもあったけれど。

 それでも折れずに進んでこられたのは、この花が――みんなの音が、自分を支えていてくれたからだと思う。

 やりたいことをやれ、なんて言ったから、そこにある花々たちは不揃いで、不格好のように見えるかもしれないけれど。

 それでも全部が一緒に同じところに咲けば、見事な景色を作り出すことができる。

 そんな色付いた大地に、そっと、でも確かに足をつけて歩いていく。旅路はもうすぐ終わるかもしれないけれど、今はまだ、その響きを楽しんでいたかった。

 でも、できればもう一度。

 ここに来たい。また吹きたい。まだまだ続けていたい。

 そんな身勝手な願いを、ここのホールは聞き届けていたくれたのだろうか――

 次に広がった景色は、これまでよりもずっと大きく広く、見上げるほどのものだった。

 旋回したトンビなのかヒバリなのか、そんな空高く舞うものが、ずっと遠くまで飛んでいく。

 それを追いかけて少しずつ足が速くなっていく。つまずいて、転んで――でもまた起き上がって、どこまでもその翼を追い続けていく。

 花畑の中。

 舞い散る花弁は、ただの幻。

 飛ぶ鳥の羽には届かない。

 けれどもそれでも、手を伸ばして――光の中に、太陽がまぶしく輝く中に。

『自分の一番の望む結果』を。

 その奇跡を、つかみ取りに行こう。



###



「はいはーい! じゃあみんな、並んで並んでー!」


 そうして、ホールでの練習が終わった後に。

 自分たち三年生がやったのは、ごくごく些細ささいなことだった。

 舞台の前方で、同い年たちを連れてくる涼子に鍵太郎は苦笑する。彼女が言ったのは、他でもない。

『このホールにお礼がしたい』――ただそれだけの話だ。

 後輩たちにとっては、どうでもいいことかもしれない。

 自分だって二年生のときだったら、先輩たちは一体何をやってるんだと思っただろう。けれども、最後を目前にした今になっては、やれることは人目を構わず、全部をやっておきたかった。

 それは他の同い年たちも、一緒だったらしい。

 なんだかんだ言いつつも、結局は三年生全員がここに集まってきている。浮かべる表情も、乗り気なもの、やれやれといった呆れ笑いのもの、しみじみとしたものなど様々だったが――

 みな、この場所に特別な気持ちがあることには間違いなかった。そういえば、合同バンドのオーディションのため、練習や録画をしたのもこのホールだったな――と、思い出しつつ。

 鍵太郎は同い年たちと、準備を進めていった。色々なことがあって、ぶつかり合ったこともあった三年間だったけれど。

 それでもあの女子高のように、それを乗り越えてきたからこそ、今があると思う。

 あのときは大変だった――そう言いつつ。

 どこも一緒だ。あの他校のコントラバスを弾く部長も、近所なのだから最後のホール練習にはここを使うに違いない。

 彼女たちは今、どうしているのだろうか。まあ、なんだかんだありつつも、自分たちのようになんとかしているのだろうな――などと。

 そんなことを考えているうちに、同い年たちの用意も済んだらしい。

 舞台中央、だいぶ前に立って横一列に並び、全員で手をつなぐ。

 本当はいつも楽器を吹いているのと同じで、一番端っこを希望した鍵太郎だったが――部長ということで、無理やり真ん中に立たされていた。

 左右には、副部長であるトランペット吹きと、言い出しっぺである涼子がいる。

 こちらの左手に触れるとき、そのトランペットの同い年は「な……ちょ、今回だけ、今回だけなんだからね!」などと、顔を真っ赤にして言っていたのだが――そんなに自分に触るのが嫌なのだろうか。そう思ったのだけれども。

 まあ、どちらにしても、こんなことはそうそうない。

 もう二度とないかもしれないのだから、勘弁してほしい。そう言って副部長とも手をつなぐと、彼女は観念したようだった。

 みなで呼吸をそろえ、真っすぐ正面を向く。

 そこには赤い布を張った、ふかふかの椅子と。

 さらには木々がそびえ立つように綺麗な、薄茶色の壁があって。

 さらにはその暗がりからこっそりと、クスクスと笑いながらこちらをうかがっているであろう、ホールの精霊がいて――それに向けて。


「せーの!」


 打ち合わせ通り、涼子が掛け声をかけて。


『ありがとうございましたー!!』


 まるで、本番が終わった後の、役者たちのカーテンコールのように。

 鍵太郎たち三年生は、全員でつないだ手を高々と上げて――そして、深々と一礼して、笑い合っていた。

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