第312話 我らが前に敵はなし

 自由なテンポテンポ・ルバートで、と書かれたその箇所で、バスクラリネットの旋律が響く。

 その名の通り自由に、どこか吹っ切れたその音は、ホールの中ではっきりと聞こえた。



###



「さっきみなとくんが言ってたことは、本当にその通りだなあって思ったよ」


 コンクール、県の予選会の会場にて。

 ホール脇の通路で順番を待ちつつ、湊鍵太郎みなとけんたろう宝木咲耶たからぎさくやはそう言った。


「『敵』がいなくても、私たちはそれでも吹くんだ、っていう――それでようやく、ずっと疑問だったことが解決できた。去年のここであった出来事にも、気持ち的に一区切りつけられそう」

「宝木さん、それは……」


 彼女の言っていることは、先ほど自分が同じ楽器の後輩を勇気づけるために、言ったことだ。

 誰かを倒そうとして力を振るうと、結局は上手くいかない。

 だったら、それよりもやりたいという気持ちを原動力にして吹いた方が、ずっといい――そんなようなことを、あの一年生には言ったのだが。

 近くにいた咲耶は、それを聞いていたのだろう。「ごめんね。立ち聞きするつもりはなかったんだけど、耳に入ってきちゃって」と彼女は少し申し訳なさそうに言って、そして続ける。


「でもね。私はずっと思ってたの。一年前にあったことは――私たちがやったことは、本当にあれでよかったのかって」

「……貝島かいじま先輩と勝負をした、あのときのことだよね?」

「うん。いくら自分たちの主張が曲げられないからといって、身内同士で争いをしたのは、やっぱり悲しかった。もっと他に方法があったんじゃないかって――ずっと引っかかってたんだ」


 お互いがお互いの言うことをきかせるため、仕掛けることになったあの勝負。

 そのとき咲耶は、言っていたのだ。『この勝負の先にあるのは、一体なんなんだろうね』――と。

 あの時点では、彼女の吹くバスクラリネットを以前に担当していた、ひとつ上の先輩の意図が読み切れていなかった。

 なので、本気で部内の誰かの息の根を止める未来しか予想できなくて――それを救いがないと、咲耶は嘆いていたのだった。

 結果的に、その争いは部員たちの手によって収束したのだけれども。

 それでも、彼女の言う通り心の中に、虚しさというか、無常感があったのは事実だ。あれ以外に何か方法はなかったのかと、考えなかったといえば嘘になる。

 同い年の中でも、咲耶は特にその感情が強かった方だ。

 仲のいい後輩が、当事者になっていたというのもある。そしてそれ以上に、彼女自身がそういったいさかいを好まない性格だったというのもある。

 だからこそ、ずっとずっと疑問だったという――そう口にする咲耶は、これまで長らく考えていたであろう、その思考を打ち明けてくる。


「結局私たちは、『誰か』を悪者にしないとまとまれないのかって。敵を作って、それに反抗することで――誰かをつるし上げることでしか、ひとつになれないのかって。勝った方は正義になれるかもしれないけど、一歩離れてみればそれは単なる暴力だよ。そんなことを普通にしてたら、犠牲が前提の、自分の正しさを証明するための生贄を、ずっと探すことになる。そんなのは嫌だなあって、誰にも言えなかったけど、考えてた」


 あの争いを経て、確かに自分たちはひとつにまとまった。

 それしかなかったから、そうするしかなかった。前部長を一時的に悪者にすることで、後輩たちを味方につけた。

 普通ではない考え方だ。

 けれど、周りを見渡してみれば、そんな状況はどこにでもある。

 クラスの中で。インターネットの中で。

 なんなら、国際情勢の中だって――誰かが誰かを非難して、それで自らの安全を確保しようとすることは、よくあることだ。

 そして――この同い年がこれまで明言したことはないが、鍵太郎の予測では咲耶はその『犠牲にされてきた方』のはずだった。

 つまはじきにされて、周囲が自分を『敵』とみなし、ひとつになってつるし上げるのを見てきた。

 だからこそ、あの状況に余計に思うところはあっただろう。なら去年の件だけではない。それよりもっと昔から、彼女はその疑問を抱えてきたはずだ。

 誰かが誰かを悪者にしなければ、集団はひとつにならないのではないか、という――

 冷えて暗いところにある、そんな疑いを。

 けれども、それが晴れたという咲耶はこちらを見て、にこりと笑う。


「だけどね。そんなことをしなくても私たちは大丈夫なんだって、湊くんの話を聞いてたら、安心できたんだ。そりゃあ、去年はああなっちゃったよ。けれども、それだけじゃないんだって。今年はそんなことはないんだって、私たちは何かをしたいっていう気持ちでひとつになれるんだって――そう思えたから」


 一年前の今頃だって。

 最終的にはそんな方法は手放して、敵味方問わずに楽器を吹いていたのだ。

 誰かを倒そうとする気持ちではなく、自分の願いを実現させたいという思いで動いていた。

 去年あったことが、しょうがないことだったとは言わない。

 だけどその先に――あの勝負の先にあったのが、誰かの息の根を止めることではなく、何かを生み出すことだったのだと。

 それを知れたことは、彼女にとって大きなことのようだった。

 この同い年の中に、相変わらず『嘆き』はあるのかもしれないけれど。

 それでも、それに負けないくらいのものを持てた。

 そのことは、曲の中で争いの場面を先陣切って吹く咲耶の、強い芯になる。

 今なら、自分たちがやってきたことを、自信を持って歌うことができる――そう言って、暗闇の中でも人を気遣うことを忘れなかった、優しい彼女は。

 その綺麗な目を見開いて、清々しい顔で息をついた。


「さあて、そろそろ本番かな? 人のごうは深いけれど、ここまで悟った私なら、それに報いられそうだよ」

「なんかさ……。宝木さんは強いよね、本当……」

「強い? そんなことないよ。むしろ弱いから、こんな風に思えたの」


 こんなことを、今まで誰にも相談できなかったくらいにね――と笑って。


「でも、そんな弱い私の話を、聞いてくれてありがとうね。湊くん」


 そして同い年は自分の思いを形にするため、そのままホールに向かっていった。

 迷いは消えた。

 人の昏さは変わらない。けれども、心の内を打ち明けた彼女になら――文字通り、もはや敵はないのだろう。



###



 自由なテンポテンポ・ルバートで、と書かれたその箇所で、バスクラリネットの旋律が響く。

 その名の通り自由に、どこか吹っ切れたその音は、ホールの中ではっきりと聞こえた。

 最初に音楽室で合奏をしたときよりも、咲耶のそれは、はるかに明確な像を結んでいる。まずは楽譜に書いてあることを、しっかりやってみて――今そこで指揮を振る先生がそう言ったように、自分たちはその音を、そしてそこに込められた思いを、正面から見つめてここまでやってきたのだ。

 それがいかに醜い自分の姿でも、怖かった記憶でも。

 何があったとて、それでも吹くことには変わりない――だったら思い切り息を吸い込んで、そして歌うだけ。

 不穏な幕開けを告げるかのように、高音が静かにさえずり、打楽器が激しく吠える。

 そしてそれに対応するように、クラリネットが、あの気弱な後輩が低い音を奏で。

 そこにミュートで抑えられたトランペットの金属音が、思い切り割り込み――そこから争いが始まった。

 臨時記号が付きまくったメロディーを、無我夢中で指を動かし吹き切る。上がり切ろうとして上がり切れず、下がり切ろうとして下がり切れない――そんな中途半端な状況の中で、それでも戦況は進んでいく。

 バチン! と鞭のような乾いた音が打楽器から聞こえて、その高圧的な音に、内部からはさらに反乱の気配が高まっていった。

 そんな中で、この有り様をなんとかできないかと、かつての自分はひたすら突き進んだのだ。不満ばかりが募って、風通しがどんどん悪くなって、そのうち呼吸もできなくなりそうな――そんな目の前の現状を、どうにかしたかったから。

 山の中を遭難するようにして、低音部がのたうつ。

 あのときはどうすればいいのか分からなくて、どこにも答えなんか載ってなくて。

 挙句の果てには外に飛び出してひどい雨に打たれて――そして、自分と同じように悩んでいる仲間たちを見つけたのだった。

 いろんなものを見た。

 強豪校で全部が思い通りになりそうなのに、そうはならなかった人を見た。

 勝負の中で誰と何を争っているのか、自分でも分からないままに戦っている、間の悪いヤツを見た。

 貪欲に勝ちを狙っていく無口なハゲタカに、何よりも価値のある宝をうちに秘めた臆病者。

 あんなに練習した四拍三連が、瞬く間に通り過ぎていく。

 それを振り返る暇もないまま、迫り来る音符を一本の線を突き通すように貫いていった。周りは散り散りに好き勝手ばかり言って、まるで雷が落ちんばかりの悲鳴の嵐。

 真っ黒な雲は晴れず、太陽は無く――そんな景色に嫌気がさして、ついに蜂起は始まってしまう。

 誰かを悪者にすれば、そこに光が射すのではないかと思って。

 細いスネアの音をかき消すように、全員の音が広がって全部を埋めていく。極めて重く、暗くて寒い――そんな中で、それでも一番下にあった熱を目指し、深く深く潜っていく。

 天井から降ってくるのは、はじまりの火の粉。

 それに導かれ目にしたのは――ふわふわと舞う蝶と。

 そこに咲く、一輪の花だった。

 ポン――と、木琴マリンバがひとつ鳴るごとに、小さな花がひとつ咲いていく。

 一緒に吹くのはクラリネット。あんなに相性の合わなかった先輩と後輩が、息をそろえて、声をそろえて。

 誰かが誰かを責めることを放棄して、そうして見つけたのはそこに根付いた、小さな願いだった。

 マリンバのマレットが、鍵盤の上を踊る。

 その様は、本来の自分を取り戻したあの先輩のようにも見えて。

 手にしたスティックの先端には、花のような丸い球があって――ひとつ叩くごとに、その硬く結ばれた色が開いていくかのようで。

 少しずつ、景色が広がっていく。人が集まって、いろんな色が増えて――賑やかになって、花が多くなって。

 一気に開けたそこにあったのは、たくさんの思いが詰まった花畑だった。

 この勝負の先にあるのは、一体なんなんなんだろうね――と、そうあの同い年は言ったけれど。

 どうということはない。

 そこにあるのは、ただの雨粒に輝く、虹色の景色だ。

 倒すべき敵がいなくても、他の誰かを傷つけなくても。

 自分たちは、何かを生み出すことはできる。

 手を取り合って、誰かを応援することができる。

 こんな光景を、作り出すことができる――そう思って、鍵太郎は再び吹き出した風の中に、足を踏み入れた。

 力を尽くした先に、道は開かれるのなら。

 新しい行先は、この音だけが知っている――そう信じて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る