第313話 あなたは、がんばりました

『これより、閉会式、並びに結果発表の準備を行います。各学校の代表の方は、舞台袖までお越しください。繰り返します、これより――』

「あ。これ、俺が行かなくちゃなのか」

「しっかりしてください、先輩」


 と、コンクール県大会の、予選の演奏終了後。

 会場で放送を聞いた湊鍵太郎みなとけんたろうは、後輩の大月芽衣おおつきめいに突っ込まれていた。

 出番が終わって、楽器をしまって、そしてひと段落ついて。

 ほっとしてぼんやりしていたところに、この放送だったのだ。そうだ、そういえば俺、部長だからこういう舞台にも出なきゃならないんだった――と、初めてのコンクールでの呼び出しに、改めて驚く。

 演奏でいっぱいいっぱいで、そこまで頭が回っていなかった。

 高校に入ってから、ずっとずっと、結果は客席で聞いていたのだ。なので今回はステージ上で合否を聞くと思うと、なんともむず痒い気分である。

 なんにせよ、毎度のことながら、最初は上手くいかない。

 まあそれは、いつものことなのだ。そう考え直して、立ち上がろうとすると――ふと、こちらを見上げる芽衣の姿が目に入ってきた。


「大月さんは、どうだった? 今日の演奏」


 本番前に不安そうにしていた同じ楽器の後輩に、そんなことを訊いてみる。

 中学からの経験者とはいえ、彼女も高校生になって初めてのコンクールだ。

 なおかつ、今日は自分が声をかけたこともあって、これまでとは違う心持ちでこの後輩は吹いていたはずなのである。ひょっとして、ひょっとしたら、これで先輩としての仕事は最後になるかもしれない――そんな考えもちらりと頭をかすめて、彼女にはそう尋ねたわけだが。

 芽衣は問われた瞬間、びくりとその小さな身体を震わせ、戸惑いながらも答えてきた。


「あ……あの! なんていうんでしょうか、今までにない感じだったといいますか……! 身体がふわっとなって、勝手に動いて、びっくりしたけど、これは拒絶しない方がいいからこのまま行っちゃえ! というか……。と、ともかく、そういう感じで、どうしてこうなったのかはよく分からないけど、ええと、とにかく――い、意外と、吹けたと思います!」

「うん、そっか。ならいいや」


 彼女自身も理由は分からないようだが、ともかく『ちゃんと吹けたという実感』が持てたのなら、よしとする。

 この部活に来た最初の頃は、吹けているのに出来ている気がしないと言っていた、この後輩なのだ。

 それが今回の本番で違う手応えがあったのなら、それだけで価値がある。

 もし、このまま自分が本選に行けなくて、引退することになったとしてもだ――そう思って鍵太郎は、ひとつうなずき、立ち上がった。


「じゃあ、行ってくるか。大月さんは客席で見ててね。みんなで集合して――」

「あ、あのっ!」


 そのまま、舞台袖に行こうとすると。

 芽衣はまだ言いたいことがあるといった風に、制服のすそを掴んできた。

 そして、はっと自分の行いに気づいて、その手を引っ込め――

 しかし目線を下げつつも、そのまま言葉を紡いでくる。


「あ、あの……先輩は、どうですか? 今日の演奏、県大会まで行けると思いますか?」

「ん? そうだなあ」


 全体的には大きなミスもなかったし、ちゃんと練習もしてきたし、例年通りの感じだったら予選は通過できると思う。

 けれども、この後輩にかける言葉は、そういったものではない気がした。

 よしんば自分がいなくなっても、この一年生がひとりでやっていくためには――その回答では違うのではないかと感じた。

 なので、演奏が終わってぼんやりした頭でなんとか考え、鍵太郎は芽衣に返事をする。


「大丈夫だよ。ちゃんと吹けたって実感があるんだろう? だったらもっと、自信を持っていいんだよ」


 予選を突破できるか――と、訊いてきたということは。

 彼女はもっと、吹きたいと思っているということだろう。

 それまでの恨みつらみも、関係なしに――求めるものがあるということだ。

 だったら、本番前に言った通り、リベンジなんて楽勝だ。そう答えると――後輩は。

 その言葉の意味を噛みしめるように、ゆっくりとまばたきをして、胸に手を当てる。


「……なんだか、不思議です。今までに体験したことのない感じです。でも決して、不快ではないです」

「自信って、そういうもんなのかなあ。何もないところから、急にふっと芽吹いてくるっていうか。まあ、いいや。俺もなんとなく吹けたような感じはあるし。きっと大丈夫だと思うんだよね」

「はい。そんな気がしてきました」


 そう言うと、未知の感覚に困惑していた芽衣は、ようやく安心したように微笑んだ。

 だから――その次に出たセリフは、きっと彼女の本音だったのだと思う。


「よかった。これでもうしばらく、先輩と一緒に吹けますね」



###



 舞台袖には、部長である自分と、副部長である千渡光莉せんどひかりが向かった。

 各学校の代表者たちが顔をそろえ、緞帳どんちょうの下りた舞台の中で、係員の誘導を受けている。

 そんな、いかにもといった空気の中で――鍵太郎は当たり前のようにガクガクと震えていた。


「ああ、やべえ。緊張する」

「な、ななな何言ってるのよ。こここのくらいで、緊張してどうするっていうの」

「おまえもおまえで、滅茶苦茶震えてるじゃねえか……」


 横で似たようなことになっている光莉に、半眼で突っ込む。芽衣にはああ言ったものの、やはりいざ発表となると、不安なものは不安なのだ。

 いつもとは違う場所にいるだけに、特に。こういうところは低音楽器、スポットライトを当てられるのに慣れていない――なるべく注目はされたくない。

 そういうのは、メロディー楽器にでも任せておけばいいのである。そう思って、その最たるものである、トランペットを担当する光莉に言う。


「そういえば、おまえはどうなんだよ、千渡。わりとちゃんと吹けてたじゃねえか、ソロ」

「まあ……ね。なんだか、大丈夫な気がしたから。予選っていうことで、ハードルも低かったし、あんまりプレッシャーを感じなかったのかも」


 だからこそむしろ、本選の方が怖いのよね――と、顔を引きつらせて冷や汗を流す同い年に、おまえもう予選突破する気になってるのかよ、などと言いたくなるが。

 高慢でも驕りでも、それが彼女らしいプライドの保ち方なら、それでいいと思えた。

 むしろ光莉がそれで奮い立ってくれるなら、願ってもないことだ。

 だったら今度は、彼女の自信が次のカギになるのかもしれない――そんなことを考えていると。

 舞台からお呼びがかかる。


「次ですね。12番、川連第二高校さん。こちらにどうぞー」

「はーい」


 ステージ上には演奏のときと変わらない、けれども演奏の用意だけが取り除かれた、ひな壇があり。

 各学校の代表者たちが、その上に並んで立っている。足元には講評用紙。これにはまだ手を付けられない。

 これまで客席側からは目にしてきたその光景だが、自分がそこに立っていると思うと、やはり不思議な感じがした。

 今は緞帳が閉まっているからいいけれども、これが開いた瞬間に会場のほぼ全員から見られるのだ。いや、それほど注目はされないだろうが、なんというかその状況だけでも心臓に悪い。

 心臓――そう、心臓だ。

 自分たちは、曲の心臓を掴めただろうか。

 現状ではむしろ、その前に自分の心臓が握りつぶされそうなのだけれども。右手と右足が同時に出そうな勢いだ。演奏のときよりもはるかに緊張する。

 早く閉会式が始まってほしい。けれども始まってほしくない――そんな相反する気持ちでいると。

 上がりまーす、という声とともに、スッ――っとあまりにあっさりと、緞帳が上がった。

 そして視界いっぱいに、各学校の生徒たちが居並ぶ様子が広がっていく。ライトの当たらないその黒々しい圧迫感に、あの先輩たちはこんな景色を見ていたのか――と、先代と先々代の部長副部長たちの、偉大さを思い知った。

 あの人たちは、一体どんな気持ちでこの光景を目にしていたのだろうか。

 少なくとも自分の記憶の限りでは、取り乱さずにしゃんと立っていたように思う。なので、できるだけそれにならって――

 鍵太郎は真っすぐ前を向いて、気持ちを落ち着かせるために、小さく深呼吸をした。

 舞台前方中央では、マイクスタンドのところで吹奏楽連盟の役員のひとりだろう、誰かが話している。

 そのマイクのところで、結果発表をされるのだ。そう考えると身体の中の自分の鼓動が、早く強くなる。やはり意識するとダメだ。

 どんな結末でもいいから今すぐ知らせてくれ――動くこともできずに、鍵太郎がそう思っていると。


『それでは、予選を通過した学校を発表します。名前を呼ばれた学校の代表者の方は、前にお進みください』


 アナウンスがあって、客席に一瞬の歓声と、ざわめきが満ち溢れた。

 いよいよだ。もう視界がよく分からないことになっている。音と光でしか、状況が判別つかない。

 自分の学校は何番だったか――12番だったか。その数字が呼ばれることを、切に願う。

 演奏の順番が早い学校から先に、名前が呼ばれていく。その学校の部長と副部長は、係員に案内されて前に出ていった。

 カウントが進んでいく。自分の学校の番が、どんどん近づいてくる。

 それを逃さずに、掴むことができるか――結果はとうに出ているのに、どうしてもそう思わずにはいられなかった。

 やがて、ふとした沈黙があったところで。


『――12番。川連第二高校』


 聞こえてきたその名前に、鍵太郎は我知らず、溜め込んでいた息を吐き出した。

 演奏や楽器積み込み、今日の手配などでただでさえ大変だったのに、この上こんなプレッシャーなんて本当に勘弁してほしい。

 極度の緊張から解放された安心感から、ふらつきそうになりながら進む。どっちの手足をどう動かしてるかなんて、もう考えることもできなくて。

 誘導されるがままに、舞台前方のマイクへと向かっていった。

 そこには確か、この県の吹奏楽連盟の、理事長だという人がいて――『連盟』なのに、どうして『理事長』っていうんだろう? などと、この場とはまるで関係ない疑問が出てくるくらいに、現実感がないのだけれども。

 長い眉毛とわずかに下がったような目、そして顔に刻まれたしわ――そんな風格もあって、この場でおそらく、最も偉いのであろうと思われるその人は。

 こちらの学校の名前を読み上げて、賞状を渡しながら、こちらにこう言った。


『がんばりましたね』


 そのホールの中に小さくも、確かに響いたその声に。

 鍵太郎は、舞台上でようやく笑うことができて――深々と、その人に一礼した。


第22幕 曲の心臓を求めて~了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る