第277話 松脂ない事件

 松脂まつやに

 それは弦楽器にとって、なくてはならない道具である。

 弓の毛の部分に塗って、滑り止めとして利用する。そうすることで、弦をしっかり擦って音を出すのだ。

 逆に言うと、弦楽器は松脂がなければ、ほとんど音が出せないということでもある。

 そんなわけで――



###



「バカ……私って、ほんとバカ……」


 その松脂を忘れたという他校の部長は、湊鍵太郎みなとけんたろうの前で打ちひしがれながらそう言った。

 彼女――柳橋葵やなぎはしあおいの担当は、弦楽器であるコントラバスだ。

 そしてここはリハーサル室。

 つまり本番直前である。パニックになってガクガクと震える他校の部長に、鍵太郎は声をかける。


「落ち着いてください、柳橋さん。忘れたって、どこにですか? 学校にですか? それともバスにですか?」

「が、学校を出るときには確認したのれ……た、たぶんバスだと思いまふ」

「じゃあ、今から取りに行けば間に合います!」


 泣きそうな顔で言う葵に、あえて力強く断言する。

 慌てる人間を目の前にすると、かえって冷静になるものだ。

 彼女には先ほど勇気づけてもらった、今度はこちらの番である。このテーマパークに来る際に、乗ってきたバス――それはここから、少し離れたところに止まっている。

 急いで戻れば、リハーサルが終わるまでに帰ってこられるはずだった。

 するとこちらの言葉に、葵は困ったように瞳をさ迷わせる。


「で、でも、部長の私が抜けたら、うちの学校……」

「それは俺が代わりを務めますから! 柳橋さんはまず、自分のことを考えてください!」

「そうよ、葵!」


 突然後ろから声がしたので振り向けば、そこには葵の学校の吹奏楽部顧問、西宮にしのみやるり子が立っていた。

 担当者との打ち合わせは、もう終わったらしい。

 西宮は腰に手を当てて、相変わらずの調子で言ってくる。


「何をトンチンカンなこと言ってるの、葵! 本番で何もできなかったら、部長もへったくれもないでしょうが! この学校はね、の。だからそんなところで泣いてないで、とっとと忘れ物取りに行ってきなさい!」

「は、はい――!」


 以前と変わらず嵐のようなしゃべり方ではあるが、内容は生徒のことを考えるものに変わっていた。

 それを受けて、他校の部長は弾かれたような勢いで、リハーサル室を出ていく。そして、そんな葵の後ろ姿と今のやり取りに――鍵太郎はああ、この先生も生徒のことを『見て』くれるようになったのだな、と確信した。

 これなら、薗部そのべ高校は一時的に部長がいなくとも、なんとかなりそうだ。

 そう思っていると、西宮がフッと息をつく。


「そう、これで栄光ある薗部高校の歴史に、また新たなる一ページが刻まれるのよ。本番で何があってもへこたれない精神。ピンチを華麗に切り抜ける部長。題して『松脂ない事件』! これは今日の本番で輝かしい成功を収めて、後世まで語り継がれるべきね!」

「その事件の名前、本人は絶対望んでないと思うので変えてもらっていいですか」


 一応、葵の代理としてこの場を預かると決めたので、他校の顧問の先生には突っ込んでおく。

 聞いているかどうかは微妙なところだが、少なくともあの他校の部長の名誉のためにそうしておきたかった。

 多少はこちらを向いてくれたとはいえ、この人もいろんな意味でブレない。そう思いながら、自分の学校の部員たちを集める西宮を見送っていると――

 後ろから、心臓に氷を刺すような冷たい声が飛んできた。


「確認を怠るなど、意識が足りないとしか言いようがありませんね」


 そう言ったのは泉恭子いずみきょうこ

 今回の本番の担当となった、ここフォクシーランドの職員だ。

 そう、担当者との打ち合わせが終わったということは、彼女も解放されたということで――

 テーマパークのスタッフとは思えない厳しい雰囲気の泉に、鍵太郎はせめても葵の弁護をする。


「……誰にだって、間違いはあります」

「はい。ですがそのリスクを最小限に抑えるように努めるのもまた、プロとしての行いです」

「……そう、ですね」


 正論といえば正論、ただし非常に耳の痛い切り返しに、渋々ながらもうなずくしかない。

 泉はこちらを責めているわけではなさそうだった。

 顔つきや態度に、そういった印象は感じられない。しかし、だからこそそのセリフは鍵太郎の心に、重くのしかかってくる。


「再度、申し上げます。あなたたちは本日、『学生』ではありません。このテーマパークでお客様の前に立つ『スタッフ』です。そのことを、ゆめゆめお忘れなきよう」

「……はい」

「自分たちが楽しければ、お客様も楽しんでくれるというのは間違いです。それは単なるエゴでしかありません。

 人の夢を保つのは容易ではありません。ですが私たちは、それを守るために全力を尽くさねばならないのです――いつ、いかなるときでも」

「……肝に、銘じておきます」


 ギリギリ、と胃を締め付けられるような言葉の数々を、今は大人しく呑み込んでおく。

 悔しいが、彼女の言っていることは真実だ。内々でいくら盛り上がったところで、それが伝わらなければ意味がない。

 自分たちがこれからやろうとしているのは、そういうことだ。それを改めて、鍵太郎が認識していると。

 泉は「お分りいただけたのなら、大変結構」とふっと表情を緩めた。

 それに、え、と目を瞬かせれば――テーマパークのスタッフは、そのまま続ける。


「では、リハーサルを始めてください。お客様の笑顔こそ、私たちの至上命題です。本日のステージは、ぜひよろしくお願い致します」


 そう言い残し、ぺこりと会釈して立ち去って行く泉に。

 先ほど垣間見えた、かすかな微笑みを重ねて――鍵太郎は複雑な気持ちで、頭をかいた。


「……悪い人では、ないんだろうなあ」


 プロ意識が並外れて高いだけで、別に彼女だって、今日の本番の成功を願っていないわけではないのだろう。

 むしろ、誰よりもその結果を望んでいて――だからこそ、脇の甘い自分たちに対して言葉がきつくなる。

 難しい。が、裏を返せばそれは、舞台さえ大盛況に終われば何の文句もないということでもあった。

 なら――


「ま、やるしかない――か」


 今はここにいるメンバーで、その本番に向けて力を尽くすより、他に手段はない。



###



 怪我の功名というか、雨降って地固まるというか。

 葵の不在を知らされて、薗部高校の部員たちは気を引き締め直したようだった。


「じゃ、またよろしくお願いしますね、湊さん!」


 そう言ったのは、薗部高校のファゴット吹き、植野沙彩うえのさあやだ。

 葵が帰ってくるまで、両校の取りまとめは一時、こちらが行うことになった。わずかな間ではあるが――それでも、何も起きないようにと鍵太郎が祈っていると。

 沙彩はこちらを励ますように言う。


「大丈夫ですよ。葵ちゃんがいない間は、わたしたちががんばりますので。まあ、できることは数少ないかもしれませんけど――ファゴットは、他の楽器との音の接着剤のようなものだと、わたしは思ってますから。みなさんがまとまっていけるように、お手伝いさせていただきます!」

「ありがとうございます、植野さん……」

「微力ではありますが」


 それでも、そんなわたしにもできることはあるって言ってくれたのは、湊さんですから――そう言って、彼女は自分の楽器を吹き始めた。

 音量はあまり出ないファゴットではあるが、あるとないとでは大違いである。

 沙彩がいることによって周りの楽器たち、特に中低音部の楽器たちが安定してきた。

 それにほっとしていると、彼女は言う。


「行きましょう、ここで合同バンドは変形するのです。今こそ、異なる者が組み合わさる、その力を見せるとき! 人馬一体、ツインバードストライクです!」

「植野さんにとって、この合同バンドって合体メカみたいな扱いだったんですね……」


 本番直前に知った衝撃の事実だが、ノリとしては確かにそれに近い。

 二校の部員たちが状況に合わせて力を合わせ、在り方を変えていくその様は、なるほど変形ロボさながらである。

 いささかこのテーマパークのイメージからすると熱すぎるような気もするが、今はそのくらいでちょうどいいのかもしれない。人がひとり、しかも重要な人物がいないのだ。

 ピンチを華麗に切り抜ける――先ほど他校の顧問の先生が言っていたようなことをするためにも、そのくらいのパワーはあっていい。

 リハーサルが始まった。

 『リトルマーメイド』――その曲のコントラバスの部分を、代理で吹く。

 今頃、葵はどうしているだろうか。目的のものを見つけて、必死で走って戻っている頃だろうか。

 あまり慌てすぎて、あの泥だらけの荒野で転んでいなければいいのだが――そう思っているうちに、あっという間に一曲目が終わってしまった。

 時間は刻々と過ぎていく。おそらく間に合うと分かっていても、隣にいるべき人間がいないというのは、やはり嫌な汗が浮いてくるものだ。

 本番では何が起こるか分からない。リスクを最小限に抑えるように努めるのもまた、プロとしての行いです――そう言っていた泉が、部屋の隅でじっとこちらを見つめているのが目に入ってきて、最悪のケースがちらりと脳裏をよぎる。

 すると次の曲で、そんな黒ずんだ思考を断ち切るような、鋭い高音が飛んできた。

 トランペットのハイトーンだ。『ファンティリュージョン』――その曲の途中で、何度も出てくる高い音。

 パレードの行進を彩る、きらびやかなそれ。とてもいいのだが、リハーサルなのにそんなに思い切り出して大丈夫なのかと少し心配になった。

 あの楽器は本番前によく、体力を残しておくためにあえて高音を吹かない場合があるくらいなのだ。

 自分の学校の同い年は、たぶんそうしているだろう。というか、音色からして今の音は、彼女の音ではない。

 となれば吹いているのは戸張櫂奈とばりかいな――薗部高校のトランペット奏者のはずだ。

 彼女の音が、演奏に力強さと、華やかさを生み出していく。

 完全に本気でやっていることが分かる、そんな吹きっぷりだった。それはいいのだけれども、その後のことを想定しているのだろうか。そんなことを考えていると――

 リハーサル室の扉が、勢いよく開いた。


「柳橋、戻りました!」


 そこには、葵が息を切らせて立っている。

 そして手には、彼女が演奏するのになくてはならない、松脂が握られていた。

 よかった――とその姿に、鍵太郎がほっと一息つくと。

 楽器を下ろした櫂奈が、ぽつりと言った。


「……来たの」


 部長って大変ね、とつぶやくその様に――このトランペット奏者が、一時的に葵の代わりをしようとしたのだと知る。

 今の演奏は、多少無理をしてでも部員を盛り上げたかったという、彼女の気持ちの表れだろう。

 話によれば、櫂奈は葵の前の部長候補だったというし――であれば、中心人物のいない穴を少しでも埋めようと、彼女が気張ったのも理解できた。

 いいメンバーだな――と薗部高校の部員たちを見て、改めて感じていると。

 その肝心の部長は、松脂を必死に弓に塗りたくりながら叫んでくる。


「しゅ、しゅみましぇん! 私のことはいいので、リハーサルを続けてくだしゃい!」

「いや、『あなたがいなくちゃ始まらない』んですよ、ここは」


 未だパニックの葵をなだめて、代理の立場を返上する。

 彼女たちの中心は、間違いなくこの部長だ。

 ほんの短い間だったが、それがよく分かった。きょとんとする葵に、彼女がいない間の話を、どう伝えようかと考えつつ――

 『松脂ない事件』。

 名前はともかく、これは確かに後世まで語り継がれるべきだと、鍵太郎は思った。

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