第274話 始まりからの旅立ち
本番の会場に『ふるさと』を歌う声が響く。
それを
今日は部活での慰問演奏。学校近くの老人ホームでの本番だ。
演奏前には歌詞カードが配られていて、客席にいる人たちは、それを見ながら曲に合わせて歌っている。
そして――と、鍵太郎は客席にいるその人を見た。
車椅子に座るキクさんは、あのときと変わらず演奏を聞きながら指揮を振っている。
歌詞も全部覚えているのだろう。口を動かしながら腕を動かしていて――にこにこしながらこちらを見るその様は、鍵太郎に一年生のときのことを思い出させていた。
初心者で吹奏楽部に入って、初めて臨んだこの舞台。
そこで「ありがとう」とこの人に声をかけられたことは、今でも鮮烈に覚えている。
自分で何かをやって、それで誰かに喜んでもらえると知ったこと。
それがその後の自分たちの方向性を決める、大事なものになっていたと思う。
素朴で単純かもしれないけれど、それが全ての始まりであり、原点だ。
『ふるさと』――そう意味ではここも、自分にとってのふるさとなのだろう。
あれから二年経って三年生になり、もうここに来るのは、きっとこれで最後になるだろうけど。
あとは後輩たちに任せればいい。前に座るバリトンサックスの二年生と、隣に座る同じ楽器の一年生のことを意識しながら、鍵太郎はそう思った。
この本番の直前にあった、彼女たちとのやり取りを考えれば、まあしばらくは安心だ。
元気で明るい『ふるさと』が、誰かに声を出させていく。この調子で来年も再来年も、こうしてこの本番は続いていくのだろう。
キクさんの描く三角が、三拍子のこの曲を物語る。
そして歌は三番に入った。それがまるでこの三年間を表しているようで、鍵太郎はここであった出来事を思い出しながら、曲を吹き進めていった。
右も左も分からないまま楽器を始めて、小さな幸せをもらった最初の本番。
それを糧にやろうと思ったら、勘違いをして悔しい思いをした二回目の本番。
そして今、案外と安らかな気持ちでこれを吹けている、この本番――。
この曲をやると泣いてしまう人もいるのではないかと思っていたけれど、意外とそんなこともない。
そしてこちらも、心の中は不思議なほどに澄んでいた。これで最後ということで、もっと複雑な心境になるかと思っていたのだが、いっそ清々しいほどに何も浮かばない。
それはなぜかと言えば、目の前でにこにこ笑いながら、こちらの演奏を聞いている人がいるからだと思う。
そんな顔をされてしまったら、もう観念して吹くしかないのだ。一小節ごとの三つの音を丁寧に入れつつ、鍵太郎はその三角の行方を見守った。
あっという間の三年間だったけれど。
それでも、この
曲は終わりを迎え、キクさんは指揮を振っていた手を、くるりと引き結んだ。
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「……あっという間だったわね」
と、本番の片づけをしながら。
鍵太郎と同じく三年生の、
彼女もこちらと同様に、この本番に感慨深いものを抱いていたのだろう。
光莉も一年生のとき、一緒にキクさんに声をかけられているのでなおさらだ。そう思いつつ鍵太郎は、「そうだな」と同い年に返事をした。
「なんか、よく分かんない演奏もしちゃったし……。『八木節』のソロ、あれでよかったのかしら?」
「そうだよ、あれどうしたんだ? 千渡」
先ほどの本番の最中、この彼女が予想以上の吹きっぷりを見せたことを思い出し、訊いてみる。
以前に比べればだいぶ復調してきた光莉ではあるが、それでも極度の緊張しいであることに変わりはない。
そんなこのトランペットの同い年が、あそこまでソロをこなしたことは、こちらにとっても驚きだったのだ。
何かそうなるきっかけというか、思い当たる理由はあるのだろうか。今後の本番のためにもそれを知りたいと思っていると、光莉は言う。
「いや、何か……あのときは、いろんなことを考えてたんだけど。頭が真っ白になって、訳が分かんなくなって――ああもう、飛び出したらごめん! って思って、とにかく腹をくくって吹いたのよね。タイミングが合ったのは分かったけれど、正直やってる最中は、自分の音がどうなってるのか、よく分からなくて。あんなのでよかったのかしら……?」
「よかったよ。すげーよかった」
自信なさげに首を傾げる同い年に、そう答える。
彼女自身にも思い当たる節はないようだが、ともかく一度でも、ああして吹き切れたことは大きい。
あとは、これからの練習でまたああいった演奏ができるよう、探っていけばいいのだ。
そんな風に考えていると、光莉は言う。
「あんまり、ちゃんとやれた感はないんだけど……本当によかったの?」
「なんでそんなに疑り深いんだ……よかったって言ってるだろ」
「うーん……」
まだ煮え切らない様子の同い年に、どうしたものかと鍵太郎は呆れるのだが。
彼女の中で手応えがないのが、そんな態度になる原因なのだろう。
やれた感。達成感。自分の中の到達ラインに、今日の演奏が達しているのかいないのか、測れないからそういうことになる。
それは他人がどうこう言って、どうにかなる問題ではない。
光莉自身が、納得できるかどうかの話だ。
だったらこちらが届けるべき言葉は何もなくて――と鍵太郎が考えていると。
「……あ」
ふと、あることを思い出した。
そうだ、そういえば一年生のときもこんな感じだったのだ。
この同い年は、あのときもこんな風に、自分の演奏に納得がいかなくて悩んでいた。
そして、そのときは――
「おまえの場所からは見えなかったかもしれないけどさ――キクさんも、笑って拍手してたよ」
「……」
あの人に声をかけられて、光莉はその場に踏みとどまったのだった。
お客さんの言葉に嘘はない。
同じ演奏者なら、どこかで配慮されているのではないか、優しい嘘をつかれているのではないかと勘ぐってしまうところもあるかもしれないけれど――
少なくとも、あの人がそうしていたことは、素直に受け止めることができる。
それほどまでに自分たち二人にとって、ここであったことは大切なことなのだ。
考えてみれば、彼女がここまで演奏のクオリティにこだわったのも当然だ。
最後に「ありがとう」を届けたい。
受け取ったものを返しに行きたい。
それが出来たか出来なかったか、自分で判断したかった気持ちは、痛いほど分かる。
けれど、こちらが話したその事実に――光莉はふっと、表情を緩めた。
「……そっか。なら――まあ、あれでよかったのね」
「ああ、よかったんだよ」
観念した、といった風の同い年に、うなずく。
やっぱり、あの人には敵わない。
あんな顔をされたら、出来たか出来なかったかなんて、もはや些細なものになってしまう。
何かをやって、それで誰かに喜んでもらえるのなら、こんなに嬉しいことはないのだから――そんな、自分たちの原点となった場所を見上げ。
鍵太郎は楽器を運ぶため、トラックの荷台に飛び乗った。
次は息つく暇もなく、合同バンドの本番だ。
そこでは、もっと厳しいことを言われるかもしれない。
一体、どんなことが待っているのかも分からないけれど――
「……行ってきます」
それでも、その黄色い壁が印象的な自分たちの故郷に。
鍵太郎は挨拶をして、そのまま楽器を積み込み始めた。
第19幕 原点よりK点を越えて〜了
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