第272話 本番の日の空気
トラックの荷台の上に立って思う。
あそこに行くのは、今日で最後なのだと。
「重いですー!」
と叫んでティンパニを運んできたのは、二年生となった
去年はその楽器の、持ってはいけない部分を持って先輩に怒られていた彼女だったが、今年はちゃんとフレームの部分を持っている。
その細かな違いに目を配りつつ、
「はい、ご苦労さま。あとは自分の楽器を持ってきてね」
「うう。こういうときに、大きい楽器を選んだことを恨みたくなります……」
「それは、俺もそうなんだけど」
朝実の吹くバリトンサックスと鍵太郎の吹くチューバは、両方とも吹奏楽部の双璧をなす大型楽器だ。
なので、三階の音楽室から一階に運んでくるだけでも一苦労である。ヨロヨロとまた自分の楽器を取りに戻る後輩を、鍵太郎は荷台の上から見送った。本番前に余分に体力を消費するわけだが、まあそこは本番の力でどうにかしてほしい。
そう、今日はこれから、あの老人ホームに慰問演奏に行くのだ。
最後だからって辛気臭くなるな、とはあの打楽器の双子姉妹に言われたものの、いざ実際にその日を迎えると思うところがないわけではない。
吹き抜ける風を感じつつ、楽器を積み込んでいく。
空がやけに高く感じられて、次の楽器が運ばれてくるまでしばらく、鍵太郎はトラックの上でぼんやりとしていた。
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老人ホーム『福寿荘』は、相変わらず黄色い壁が印象的な建物だ。
持ってきた楽器を下ろして、本番の会場となる部屋にセッティングしていく。そこからは本職の打楽器パートの人間に任せることにして、鍵太郎は自身も準備をすべく、音出し用の部屋に向かった。
途中ですれ違う施設の人が、こちらの持っている楽器の大きさに驚いた顔をする。
いつもとは異なる反応にはにかみつつ、挨拶して通り過ぎた。音楽室の外に出ると、途端にこういった新鮮なリアクションに遭遇することになる。
部活の中では普段なんでもないことのように過ごしているが、自分たちのやっていることは世間からするとやはり、物珍しいものであるらしい。
けれどそういった眼差しを向けられると、それはそれでくすぐったいものだ。こちらとしては特別なことをやっているつもりはないのだけれど、他の人たちからすれば馴染みがないということなのだろう。
だからこそ、こうして慰問演奏に呼ばれたのだろうが。ひるがえすとそれは、どんなことがこれから始まるのか、ワクワクして待たれているということでもある。
そう考えると、やっぱりどこか気恥ずかしいものがあった。でも、それはそれでこちらも浮き足立つというか、ソワソワするもので――そんな本番独特の空気を感じながら、鍵太郎は部員たちが音出しをしている部屋の扉を開ける。
中ではそれぞれがこれから始まる本番のため、準備をしていて――
聞き慣れた音も、場所が違うとなんだか違うものに感じられて、心臓の鼓動が少し早くなった。
こういう場所だ、元々音出しのために作られた空間ではない。各楽器の音が床にも天井にも反響して、大きく渦を巻いている。
そんな中で、鍵太郎は部屋の隅にいた同じ楽器の、
一年生の彼女も、高校生になって初の本番だ。落ち着いた雰囲気の後輩ではあるが、さすがにこういった場面では、若干頬が上気しているように見える。
視線もたえずキョロキョロと動き回っていて、気もそぞろといった様子だ。自分も初めてここに来たときは、こんな感じだったのかな――と苦笑しつつ、鍵太郎は芽衣の隣に腰かけて、音出しを始めた。
すると少しして、後輩がある一点に目を留める。
「先輩。『すあま』って何ですか?」
「え?」
何を言っているんだろうと思って芽衣が指差した方を見れば、そこには『今日の献立』と書かれた小さな看板が置いてあった。
その献立の一番下に、デザート枠なのだろう。『すあま』という文字がある。
こちらも食べたことはないのだが、とりあえず甘いものだという認識はあった。なんと説明したらいいかと頭を悩ませつつ、鍵太郎は芽衣に言う。
「えーっとね。なんかこう、ピンク色のお餅みたいなやつ」
「そうなんですか。酸っぱいんですか? 語感からして、酸っぱくて甘いみたいな」
「俺も食べたことはないんだけど、たぶん酸っぱくはないんじゃないかな……?」
携帯で検索してみたいところだが、あいにくと今は荷物の中に入れてあるので手が出せない。
後で調べてみようかな、と興味津々の後輩を見ていると、いつの間にか来ていたのだろう。顧問の
「すあまは物にもよるが、ほの甘いくらいの、和菓子の一種だよ。縁起物として『寿甘』って字を充てることもあるな。おまえらにゃ縁遠いかもしれんが、まあ、じいちゃんばあちゃんにとっては馴染み深い食い物さ」
『へー』
先生の解説に生徒二人が、揃って声をあげた。
確かにこういった施設で出されるくらいなのだから、そのくらいの年代の人が好きな食べ物なのだろう。
優しい甘みだというのも、健康的でこういったところに合っているのかもしれない。今度買ってきて、この後輩と二人で食べてみようかな――と、鍵太郎はかつて卒業した先輩に、お菓子をもらったことを思い出して考えた。
あの偉大な先輩のようにスマートにはいかないかもしれないけれど、それでも芽衣と一緒に食べてみたい気がする。
どんな食べ物なのか。どんな味がするのか。
それを想像して二人で食べてみるのも、なかなかに楽しいだろう。それはきっと、今から演奏を聞く人と同じ感覚で――いつもと違うことに、少しだけ心が弾むような、そんな感じなのだと思う。
お互いに知ってるものと知らないものがあって、物珍しい顔をするものが、それぞれ違うだけの話だ。
きっと今のやり取りを、これから演奏を聞くお客さんが聞いたら、新鮮な反応だと笑うことだろう。
そういえば、あの人はまだ元気でいるのかな――と鍵太郎は、去年も見たひとりの観客のことを思い浮かべた。
本当の名前は誰も知らないが、ただ部内でその存在を語り継がれる、あの人。
今年もまた、ニコニコしながら指揮を振ってくれるといいのだけれど。
これが、自分がここに来る最後の機会になるわけだし――と思っていると。
その指揮棒を掲げ、先生が言う。
「ほんじゃ、そろそろ移動だ。おまえら、気合い入れていけよ!」
『はーい!』
「よし、忘れ物はないな? じゃあ出発!」
生徒たちの返事を受けて、本町が部屋を出ていく。
心なしか、あの先生も気合いが入っているように見えた。せいぜい張り切ってやりましょうかねえ、と言っていたことは、どうやら現実になっているらしい。
部員たちが動き始める。舞台の狭さの都合上、会場には奥に座る、下手の人間から先に入らないとならない。
そのため、上手側に座る鍵太郎たちは出来た列の一番後ろにつけた。
位置的には低音楽器のバリトンサックスである朝実、チューバの鍵太郎や芽衣が一緒になる形だ。
列の先を見れば、既に客席は施設の入居者たちで埋まっている。
すると、その人たちを見つめ、朝実が言った。
「今年もキクさんはいますかねえ」
「――」
後輩の何気ない一言に、鍵太郎は口をつぐんだ。
キクさん。
それは先ほどこちらが思い出していた、この施設にいる人の名前だ。
かつては音楽の教師をしていたという、こちらの演奏に合わせて指揮を振るおばあさん。
一年生の最初の本番であったあの日、自分とあの同い年のトランペット吹きは、この人の言葉にどれほど救われたことだろう。
そしてこの本番が終われば、たぶん一生会うことはなくなる。
けれど――
「キクさんというのは、誰ですか?」
「ああ、その人はですね――」
「……」
芽衣の質問に、朝実が解説をし出したのを見て、鍵太郎は自分がひどく勘違いをしていたことに気づいた。
確かに三年生であるこちらにとって、この本番はここに来る最後の機会だ。
でも、この二人にとってはそうではない。
来年も、そして再来年も――この本番がある限り、このやり取りは続いていくのだろう。
最後なんかじゃない。
俺『たち』はまた来る。
それを自覚して、鍵太郎は後輩たちの頭を撫でた。
「ほえ? なんですか先輩?」
「いや。宮本さんも、先輩になったんだなあって思って」
「? 何を当たり前のことを言ってるんですか?」
「んー。偉い偉い」
ひとしきり二人の頭を撫でて、髪をぐしゃぐしゃにする。
後輩たちには文句を言われたが、そこはこの嬉しさを表現するためだと思って我慢してもらいたい。
列の移動が始まり、自分たちもその後に続く。ザワザワとした空気の中、会場に入って――
その空気を思い切り吸い込みながら、鍵太郎は笑って自分の楽譜を譜面台にセットした。
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