第214話 世代を超えた約束

 休日の音楽室からは、今日もテナーサックスの音が鳴り響いてきている。


「……」


 その音を、湊鍵太郎みなとけんたろうは音楽室の外で黙って聞いていた。

 話には聞いていたが、この音の主はやはり、かなり熱心に練習をしているようだ。

 そしてその人物が、どうしてこんなに一生懸命にやっているのか――それはもう、こちらには分かっている。

 だからこそ鍵太郎は、あえてひとりで音楽室に入った。

 他にも話せる機会はあったのだろうが、それでもこの場を選んだのは。

 現場を押さえることで言い逃れができないようにする、という意味ももちろんあったが――

 何よりも『その人』自身のために、なるべくプライベートな空間で話し合いたい、という思いの方が大きかったからだ。

 そしてその音の主は、扉を開けると楽器を吹くのを止め、ひどく驚いた顔でこちらを見る。


「み、湊……」

「こんにちは、藤原ふじわら先生」


 果たしてそこには、この学校の社会科教師の藤原建次ふじわらけんじが。

 アンチ吹奏楽部派であるはずのその先生が。

 その手に楽器を持って、ただ呆然とこちらを見ていた。



###



「どうして……おまえがここに……」

「それはこっちのセリフですよ。というか俺がここに来たってことは、先生はもうどうしてなのか、分かってるんじゃないですか」

「ぐっ……!」


 こちらがそう言い切ったことに、藤原は焦りを滲ませて黙り込む。

 まさかここまで早くこの場にやって来る人間がいるとは、思いもしなかったのだろう。

 それもそうなのだ。自分だって周囲の数々の証言がなければ、事の真相に辿り着くことはなかったろうから。

 だから鍵太郎は、まずはその発端になった発言のことから話し始める。


「藤原先生。本町ほんまち先生に土日に音楽室に来るなって、圧力をかけましたね」


 その言葉の通りに吹奏楽部の顧問の先生は、今日も学校には来ていない様子だった。

 教職員にあるまじきあの赤いスポーツカーが駐車場にないことは、既に確認済みだ。

 だからこそ藤原は、こうして誰もいない音楽室を使って気兼ねなく練習できている。


「年齢も立場も上の先生にそう言われれば、さすがに本町先生だって従わざるを得ません。ましてや、日頃から吹奏楽部に批判的だった先生に言われたのなら。しばらくは大人しくしておくのが上策ってもんでしょう。

 その隙に、先生はここを練習場所に選んだ」


 カラオケボックスやどこかのレンタルスペースを借りるという手もあっただろうが、藤原にはそこまで時間がなかったのだろう。

 最近はカラオケボックスも楽器の練習を禁止しているところがあるというし、調べてみるとレンタルスペースも利用登録や事前予約などで、意外と手間がかかるということが分かった。

 なら、職場でもある学校を利用してしまえばいい――そう考えるのも当然の成り行きだったのかもしれない。

 この先生は、『ただの一ヶ月間だけ』、ここを使えればよかったのだから。


「ここなら気兼ねなく、無制限に練習できますからね。万が一、その音が休日学校に来た誰かの耳に入ったとしても――事情を知らなければ、吹奏楽部が練習をしているんだなと思ったでしょうし」


 実際、野球部の友人はそう思い込んでいたのだ。

 吹奏楽部が休日の練習を禁止されているというのは、その当の吹奏楽部の部員たちか、一部の教師陣しか知らない。

 なら校内の大多数の人間は気にせずにいるか、よしんば関係者の耳に入ったとしても、藤原がここで練習しているのは今月いっぱいまでだ。

 その間に事実まで行き着かなければ、『あれは何だったんだろう』で終わってしまったことだろう。

 でも、自分たちは気づいてしまった。

 『あの動画』にまで辿り着いてしまったのだ。

 だが藤原は、まだしらを切り通せると思っているらしい。

 気まずそうに目をそらしたまま、けれども「し、知らん……っ!」と言ってくる。


「……仮に、おまえの話が本当だとしよう。しかしだとしても、それで一体どうしたというんだ? 職権乱用と言わればそうかもしれん。だがおまえらには、全く関係ない話だろう!」

「……そうですか」


 ここまで来てもまだ威圧的な態度を崩さない社会科教諭に、鍵太郎は目をスッと細くした。

 この時点で全部を白状してくれれば、事を荒立てないまま穏便に済ます予定だっただのが。

 そうまで言われてしまっては仕方がない。

 これは説得と同時に、交渉でもある。

 だから鍵太郎は、用意しておいた最も凶悪なカードを――この先生に対して、切ることにした。


「失礼ながら、ここに来るまでに先生の出身校のことを調べさせてもらいました」

「……!」


 その一言で、こちらが『あの動画』まで掴んでいることを悟ったのだろう。

 藤原はビクリと身体を竦ませ、鍵太郎がここに来たときの比ではないほど、四方八方に視線をさ迷わせ始める。

 その有り様たるや、先ほどまでの威厳はどこへやらといった調子ではあるが――しょうがない。

 『あれ』を生徒に知られることこそが、この先生の最も恐れていたことなのだから。

 鍵太郎は手の中にある自分の携帯を握り締めながら、調べ上げた情報を述べていく。


「今月末に、先生の出身校の吹奏楽部は、OBOGを招いての大規模な演奏会をやるそうですね。演奏曲は『ローマの松』。大曲ですね。こうやって時間を見つけて練習しないと、間に合わないくらいに」

「……」


 反応はない。

 というか、もう何も言えないのだろう。

 藤原は頭から滝のような汗を流し、真っ青な顔で震えている。

 それに、さすがの鍵太郎もちょっと申し訳ない気持ちになってくるのだが――ここで追及の手を緩めるわけにもいかないのだ。

 何しろ自分はこの先生と話し合いをしに来た――

 吹奏楽部の、部長なのだから。


「先生が最近になって急に練習を始めた理由は、これで分かりました。あと――先生が経験者にも関わらず、吹奏楽部おれたちに対して妙に当たりがきつかった訳も」

「……やめろ」

「やめません」


 藤原の些細な抵抗を無視して、鍵太郎は持っていた携帯を突きつける。

 そこには、この先生をここまでの窮地に陥れた、『あの動画』が映っていて――


「や、やめろ……っ、やめろおおおぉぉぉぉっ!?」

「ポチっとな」


 頭を抱えて悲痛な叫びをあげる先生をよそに、鍵太郎は容赦なく、再生ボタンを押した。

 すると画面に、若き日の藤原教諭が映し出される。

 動画のタイトルは『【爆笑】昭和のアニソン【吹奏楽】』。

 その題名に違わず、携帯からは藤原が学生だった頃のアニメソングが流れ始めた。

 それは虎縞模様のビキニを付けた、宇宙から来たあの、鬼の押しかけ嫁がヒロインのアニメのものだったが――問題は。

 学ラン姿の藤原が、真面目な顔のままで。


 その曲に合わせて、キレッキレに踊り始めたことだった。


 その姿たるや、結構上手いポップな演奏と相まって、いっそシュールと言ってもいい。

 振り付けに関しては当時のことは分からないが、たぶんオリジナルのものだろう。

 画面の中の藤原は曲と一緒に身をくねらせたり、投げキッスをしたりと――どうにも見ているこっちが全身むず痒くなってくるような動きを見せている。

 そしてこれは数十年後の当の本人にとっては、黒歴史以外の何物でもないだろう。

 その証拠に、現在四十代後半ぐらいであろう目の前の藤原は、頭を抱えた姿勢のまま過去の自分の行動にひたすら悶絶している。

 そこにはもう、授業中に見せていたあの威厳のある姿は微塵も残っていない。

 だがこちらは――さらにこの先生から、望む状況を引き出さないとならないのだ。

 なので追い討ちをかけるため、鍵太郎は藤原の傷口に塩を塗るような真似をしなければならなかった。


「『うっふん』だって。あはははは」

「うぎゃああああああああああああああっ!!??」


 楽器を持ってなければ、床を転げまわっていたに違いない。

 そんな断末魔の叫びをあげて、藤原は鍵太郎の前に撃沈した。

 これはあの楽器屋や打楽器の双子姉妹、そして第二の師匠であるおっさん女子高生の手口を真似したものだったが――やっぱりちょっと、えげつないというか。

 いささかやりすぎたかもしれない。

 そう胸中では思いつつ、しょうがないので顔にはニヤニヤ笑いを貼り付けたままで、鍵太郎は言う。


「ああ、気持ちは分かります。分かりますよ? だって俺もこの間の学校祭では、死ぬほど恥ずかしい思いをしましたからね。吹奏楽部の男子部員として、妙な役回りを押し付けられて大変な思いをする辛さは、よーく分かってるつもりです」


 おそらく藤原が吹奏楽部に対して異様なまでに厳しかったのも、これが原因なのだろう。

 音が聞こえる度に、かつての自分を思い出し。

 曲が聞こえる度に――かつての自分の醜態が、脳裏に蘇ってくるのだから。

 適当な理由をつけて練習を中断させないと、やっていられないときもあったのかもしれない。

 だが、この人も自分たちも、そんな状況とはもうおさらばだ。

 そう思っていると――こちらの笑い含みの声を、完全に脅迫と受け取ったらしい。

 藤原は、もはや泣きそうな顔をして言ってくる。


「も、目的は何だ、湊……っ!? 内申点か、次の期末テストの問題か……っ!?」

「いやだなあ。そんなつまらないもんじゃありませんよ」


 怯える先生に鍵太郎は、あくまでにこやかにそう答えた。

 学年主任でもあり、この学校でもそれなりの発言権のあるこの人に頼みたいのは、そんな小さなものではない。

 ようやくここまで漕ぎ着けた。

 動画を表示した携帯をちらつかせ――鍵太郎は、にっこり笑って、ここに来た真の目的を告げる。


「先生の練習が一段落してからで構いません。音楽室ここを俺たちも休みの日に、使わせてもらえませんか?」



###



 そして、そんな『話し合い』を終えて出てきた鍵太郎を出迎えたのは――

 先日一緒に遊園地に行ってきた、同じ学年の部員たちだった。


「どうだった?」

「どうもこうも。二つ返事で承諾してくれたよ」


 副部長の千渡光莉せんどひかりの問いかけに、鍵太郎は苦笑してそう答える。

 最悪の場合を考えて、藤原が実力行使に出たときのために彼女たちに声をかけてはおいたのだが。

 あの様子からして、そんな必要もなかったのだろう。

 事が事だったために役職に就いている光莉にも話を通したわけだが――本当だったらあまり話を広めないほうが、この場合はよかったのだろうから。


「あの動画を校内にばら撒かないことを条件に、来月から休みの日も吹奏楽部が音楽室を使えるように、取り計らってくれるってさ」


 終わってみればあっけないほど、藤原はこちらの提案を呑んでくれた。

 まあ、こちらには切り札があったのだし、そこまで警戒する必要もなかった。

 そう言う鍵太郎に――片柳隣花かたやなぎりんかは「やるわね」と笑い、浅沼涼子あさぬまりょうこも「何だかよく分からないけど、休みの日もみんなと練習できるならいいや!」とバンザイする。

 しかし――ただ一人。

 宝木咲耶たからぎさくやだけは、滅多に見せない半眼でこちらのことを非難してくる。


「……こういうやり方は、あんまり感心しないよ」

「まあ……うん。確かに人の弱みに付け込むみたいで、あんまりいい方法じゃないと言われれば、そうなんだけどさ……」


 みなから説得されて渋々この場にいるものの――やはり彼女としては、このやり方は納得できないものだったらしい。

 けれど藤原としてもこれは吹奏楽部と、そして自分の過去と決着をつけるための、いい機会であったはずなのだ。

 あの動画のコメントたちを見る限り、藤原は遅かれ早かれ自分たちへの態度を軟化させていたはずだ。

 だから咲耶には今回のこの行動は、そのタイミングを前倒しした、と受け取ってもらえればと思う。

 そう言うと――かなり不満げな表情ながらも、彼女はその理屈を飲み込んでくれたらしい。

 黙り込む咲耶に、鍵太郎は改めて声をかける。


「大丈夫だよ。約束は守る。というか守らないと、今度は俺たちが練習場所を失うことにもなるんだし。

 というわけでおまえら、面白がって先生のことこれ以上からかうなよ?」

「分かってるよー」

「匿名で掲示板とかに上げたりしないよー」

「おまえらが言うとどうしてなのか、全く信用ならねえんだよな……」


 この動画の発見者である越戸ゆかりとみのりに、もう一度公表しないように釘を刺して。

 そこで鍵太郎はようやく、やれやれと一息ついた。

 慣れないことをしたせいか、少し疲れた。

 今日はもう帰って、休むとしよう。

 そう思って校舎の階段を下っていくと――

 再び音楽室から、藤原が練習する音が聞こえ始める。

 『ローマの松』。

 それを聞いて鍵太郎がふっ、と微笑むと。

 ゆかりとみのりが言ってくる。


「でもさ、ひとつ疑問が残るんだよねー?」

「なんで藤原先生は、あの動画を消そうとしなかったのかな?」

「ああ、それはな……」


 あの先生がどうして、自分の恥ずかしい過去を削除しなかったのか。

 確かにそうしてしまえば、話はとても簡単だったのだろう。

 あんなもの、すぐに消してしまえばこんな辱めを受けなくても済んだはずだし。

 誰かに見つかるリスクを冒してまで、こんな風に練習をすることはなかったのだ。

 全部無視して素知らぬ顔を決め込んでいれば、それでよかった。

 それなのに、なぜこんな行動に出たのかといえば――


「……あの人は、それでもやるしかなかったんだよ」


 そんなことはきっと、あの先生にはできなかったからだ。

 あの動画のすぐ下に書かれていたコメントたちを思い出して、鍵太郎は思う。

 最初にあれを見てしまったときは、いたたまれなくて思わず画面をスクロールしてしまったが――

 そこにあったのは。

 投稿者だけでなくその下まで数多く書き込まれた、彼宛へのメッセージだった。


『建坊、おまえ今回こそ演奏会来いよな! 待ってるぞ!』

『先輩、先輩が来ないと始まらないんですよ! 本当に来てくださいね!』

『絶対また一緒にやろうぜ、約束だかんな!』


 それらを思い出して――鍵太郎はもう一度笑って、階段を降り始める。

 あれを見て藤原が何を思ったか、そこまでは自分には分からない。

 だがああして懸命に練習をしている以上、あの人があれを見て、何かしらの思いを抱いたことは事実なのだろう。


「でもまあそれは、俺たちも知らない、先生だけの時間だってことで」


 『ローマの松』は、在りし日の栄光と、その輝かしき時間を謳った曲だ。

 ならばそれを吹くあの先生を邪魔することは、もうこれ以上したくない。

 だから、音楽室から鳴り響いてくる音を背に――

 鍵太郎は、休日の学校を後にした。



###



 そして、それから数日後――


「おい湊。なんか藤原がさ、期末テスト明けたら土曜日だけ練習してもいいって言い出したんだけど……。おまえ、何か知ってるか?」


 顧問の先生が気味が悪そうにそう言ってきたので、鍵太郎は思わずそれに噴き出しそうになった。

 どうやらあの先生は、約束を守ってくれたらしい。

 だかしかし。

 明後日の方向を向きながら、鍵太郎は顧問の先生の質問に答える。


「いやあ、俺は何も知りませんよ」


 例えこの顧問の先生といえども、あのことを口外することはできないのだ。

 あのコメントの中で、一際印象に残ったあの一文を思い出しながら思う。


 ――『絶対また一緒にやろうぜ、約束だかんな!』


 だって、何しろこれは吹奏楽部の部員たちの――


「でもまあ、先生もきっと何か、心境の変化があったんじゃないですか?」


 世代を超えた、男と男の約束なのだから。


第15幕 新たなる航路へ〜了

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