第209話 泥の中に咲く花
「東関東大会、見に行ってきたのか……!?」
彼女が何か、大変なものを聞いてきたのはその口調から察してはいたが。
まさか今年自分たちが戦ってきた舞台の、さらに先を見てきたとは思わなかった。
しかも、高校A部門。
それは鍵太郎が選抜で出会った強豪校たちの出る、また次元の違う大会である。
まさか隣花が、そこまでしていたとは思わなかった。
同い年の予想外の行動に鍵太郎が驚いていると――しかし隣花は呆れたようにため息をつき、再び人工湖に目をやりながら、言う。
「……別に。そんなに驚くことじゃないでしょう。同じ関東なんだから、ちょっと足を伸ばせば高校生も聞きに行ける範囲。今後の参考のためにと考えれば、むしろ聞きに行かない方がおかしい」
「……だったら、俺も誘ってくれればよかったのに」
東関東大会は九月の下旬だ。
確か土曜日の開催だったというし、今後の参考にと考えれば彼女の言う通り、実際に聞きに行った方がよかっただろう。
実は結果だけは、また違う楽器の同い年に聞いているのだが――そう思って少し離れたところにいる、その同い年のことをちらりと見ると。
隣花はなぜか半眼になって、こちらに言ってくる。
「だってその頃のあんたは。自分が部長になることの重圧で、いっぱいいっぱいだったでしょうが」
「う゛っ……!」
完全に図星を突かれて、鍵太郎はうめいた。
今ぐらい気持ちが定まった状態ならともかく、確かにあの頃の精神状態では聞きに行ったとしても、またさらに混乱するだけだった可能性が高い。
自分が部長になったら、どうすればいいのか――
それがはっきりと自分の中で掴めていなかった以上、彼らの演奏を聞いたとしても、それは余計な重圧にしか感じられなかっただろう。
いや、今でもそこまで掴みきっているわけではないのだが、それでもあの時の自分よりはだいぶマシになっている。
だから隣花も、このタイミングになって自分の行動を打ち明けてきたのだ。
なので彼女はそんなこちらの反応に肩をすくめ、そして言葉をつなげてくる。
「……そういうわけで。あんたには声をかけずに一人で行ってきたの。まあ本当は、
「……それは」
そこで先ほど見やった、もう一人の同い年。
もう一度、他の部員たちに混ざって何やらおしゃべりをしている光莉のことを見る。
今でこそああして、みなと同じようにテーマパークのキャラクターの耳をつけ、笑えるほどになった彼女ではあるが――それでもまだ、正面切って過去の記憶と対峙できるほど回復しているわけではないらしい。
同じく中学からの経験者ということで、隣花は光莉に声をかけたのだろう。
それは、分かる。
しかしその中学で一緒だったメンバーと、光莉は絶対に会場で鉢合わせしたくなかったはずなのだ。
成り行きだが、あの同い年の中学のときの話は知っているからこそ、大体のところは想像がつく。
そのことで光莉は、隣花の申し出を断った。
けれどもその理由は、軽々しく他人が口にするべきものではなくて――
そしてそれを思うと、今の彼女の笑顔が、むしろ痛々しいものに見えてしまって。
鍵太郎は光莉から目をそらし、隣花には、今言える範囲で精一杯の言葉を伝えることにした。
「……すまん。そのことは、あいつが自分の口から話せるようになるまで待っててやってくれないか。いつかあいつが、本当に心から笑える日が来るまで。それについては……触れないで、やってほしい」
「……ふぅん。そう。あんたは知ってるんだ」
あっそう。
そうなの。じゃあまあ、いいけど――と、全然納得いってなさそうな口調ながらも、隣花はこちらの提案を受け入れてくれたらしい。
彼女はそれ以上そのことには触れず、「……で。その東関東大会を聞いてきた感想だけど」と話を本筋に戻してくる。
「私も聞きに行くまで知らなかったんだけど。うちの県ってレベル低いのね。
「そっか、マジか……」
そしてそんな隣花の優しさに感謝する間もなく突きつけられた現実に、鍵太郎は額を押さえた。
県の選抜バンドに行った際、その二つの強豪校のすごさは目の当たりにしていたが――やはり世の中は広いということか、それを上回る学校はわんさといるようだった。
しかしそういえばあの二校も、最近は確かに東関東止まりが多いとも言っていたのだ。
その原因はどこにあるのか。
それを直に演奏を聞いてきた、隣花は言う。
「……やっぱり。全体としてのまとまりがある学校が強かったって印象ね。私から見ても個性的な学校は、全部代表から落とされてたから。いくら音楽が『生きて』いても。奏者が楽しそうに演奏していても。全編を通して全体のバランスが取れていなくちゃダメだってことなんでしょう。
それぞれが個性を発揮して、それをまとめれば大丈夫だなんて――そんなの全部綺麗ごとなんだなって、思わされたくらいだから」
「……」
淡々と。
ただ事実を述べているだけといった調子の隣花を、鍵太郎は何も言わずに見返していた。
一生懸命がんばっていればできる、とか。
心をひとつにすれば金賞が取れる、なんて。
そんな物語に出てきそうな言葉を、ただ無邪気に信用することなど、もはや彼女にはできなくなってしまったのだろう。
この同い年は部員の中で誰よりも早く、『現実』を見てきてしまったのだ。
だからこのテーマパークでは、はしゃぐ他の面子には馴染めなかったし。
『楽しく金賞を取りたい』と言った自分にも、反対意見を口にすることになった。
理性的で論理的で、現実的。
これはそんな隣花らしい――事実を真剣に受け止めた上での、立場でもあるのだ。
いつの間にか人工湖には、小さな船が一艘、浮かんでいる。
彼女はその船を見つめ――そして独り言のように、自分の考えをつぶやく。
「……人の心は、善意だけでできているわけじゃない。ロマンだけで人は動かない。楽しさだけで人がまとまるとは、私にはどうしても思えない。
……だったら。あんたには本当だったら、理想に溺れて溺死しろ――と言いたいところだけど。けれどあなたのその
なら私はその船を、どうあっても沈ませるわけにはいかない」
千渡も誰も考えないのなら、『そこ』は私が考える。
綺麗ごとだけじゃ済まない部分。
人の心の裏にある、薄汚くて暗い部分まで――
そう言って、沈黙する隣花のことを。
「……」
鍵太郎はやはり、無言で見つめていた。
今の話から察するに――彼女はつまり楽しさだけでは済まないだろう部分を、全部一手に引き受けようとしているらしい。
こちらの思いを全否定しているわけではない。
けれども現状から考えて、いくら気持ちが入っていても泥舟は泥舟――理想論であると。
だからそのせいで全部が藻屑となってしまわないよう、周囲からすれば耳の痛いことであっても、誰に何と言われようと指摘し続けると。
自身が泥にまみれようが何だろうが、その
隣花は今、そう宣言したわけであるが。
「……なあ、片柳」
しかしそんな彼女の横顔は、既にもう、どこか疲れてしまっているようにも見えたので。
鍵太郎は自分も湖に浮かぶ船を見つめながら、そんな同い年に自分が思っていることを、正直に話すことにした。
「俺だってさ、人の心が全部善意でできてるなんて、思ってるわけじゃないよ」
「……」
返事はない。
が、聞いてはいるのだろう。
反応はないが、気配でなんとなく察せられる。
なので鍵太郎は、ゆっくりと進む船を見ながら――そのまま先を続ける。
「それはなにしろ、俺自身がそうだし――ここから一歩外に出れば、見たくないものや聞きたくないものがたくさんあることだって、知ってる」
学校祭のアンケートの一部には、できれば無視したくなるようなものが混じっていた。
東関東大会の結果を受けて、どこかの誰かが強豪校たちの争いを、無責任にはやしたてていることも知っていた。
そしてその他にも、どうしようもないくらいの過酷な現実が、この先に待っていることも――
「けどな片柳。俺はそういうものからみんなを守れるくらい強くなりたいって、そう思ったんだよ」
でも、もうそんなことはみんなみんな覚悟の上で、決めてしまったのだ。
自分自身の信じる道を、それでも貫き通すことを。
現実に負けないだけの力で、その
湖の船は次第に速度を増して、水の上を駆けていく。
その船がしぶきをあげる様をまぶしく思って見つめながら――鍵太郎はニッと笑う。
「だから大丈夫。俺の泥舟はそう簡単に沈んだりはしないぞ。何しろ今年のコンクールで散々叩かれまくっても、しぶとく生き残ったくらいだからな。ここまで来たら夢でも現実でも何でもかっ食らって、それをエネルギーにして進むだけさ」
「……だからって」
と――
そう言ったところで隣花が、初めて反応を見せた。
未だこちらの言うことが、信じられないのだろう。
彼女はやはりこちらを見ることなく、湖を見ながらつぶやく。
「だからって。あんたが嫌なことを全部……背負い込むことないでしょうに」
「その言葉、そのままそっくりおまえに返す。だったらおまえだって、汚れ仕事を全部引き受ける必要はないだろ」
「む……」
しかし間髪入れず言い返され、それ以上の言葉をつなげなくなったらしい。
自分自身がそうである分、論理で言い返されると隣花は弱い。
意外な弱点を見つけたな――と彼女の仏頂面に苦笑しつつ、鍵太郎はようやく顔を向けてくれた同い年に対して、素直に礼を言った。
「ありがとな、片柳。東関東のことも、これからの部活のことも。俺のこと心配して言ってくれたんだろ」
「……別に。私は単に、あいつらが全部あんたに任せっきりにして、自分たちだけが美味しいところを持っていこうとするのが、気に入らなかっただけ」
「あのなあ、おまえはもう……」
またしても拗ねたようにプイッと顔を背ける隣花には、やはりやれやれと笑ってしまうのだが。
しかし他の部員にしたって、そこまで彼女が言うほど現実を知らないわけではないのだ。
みんなそれぞれ、傷ついたり苦労したり――
ここに来るまでに、大変な目に合ってきているのは知っている。
そう思って、鍵太郎はやはり少し離れたところにいる他の連中を見た。
そしてその中でも、先ほど話に出たあのトランペットの同い年などは、その最たるもので――
「……なあ、片柳。俺は千渡があんな風に笑えるようになって、よかったと思ってるんだよ」
さっきは目をそらしてしまったあの笑顔も、今ならなんとか、見ることができた。
例えその回復がまだ、不完全なものだったとしても。
この部に入ったときよりははるかに彼女の心の傷が癒えていることは――自分の中で確認できたからだ。
なら、目指す方向はこれで間違っていない。
そのことを改めて見定めて、鍵太郎は隣花に声をかける。
「あいつだって、ただ能天気にああしてるわけじゃないんだ。まあ、事情を知らないおまえに、分かってくれって言うのも無理な話だけどさ――でも、何も考えてないってわけじゃない。それは他のやつらにしても同じだよ」
「……それは。私にあいつらと同じところに立てっていうこと? そんなのはもう……無理よ」
「うーん。たぶん、そういうことでもないと思うんだよな」
確かにここまでのことを考えてしまった以上、隣花の性格的にもあの中に混じって騒げ、というのも少し酷なことではあるのは分かる。
しかしだからといって、彼女をこのまま一人にしておくのも自分の主義に反するのだ。
ならば――
「なあ片柳。おまえは、どうしたい?」
この同い年の気持ちも守ったままで、進んでいくことはできないだろうか。
そう思って鍵太郎は、広大な湖を見ながら隣花にそう訊いてみた。
しかし当の本人は、不意を突かれたといった様子で目を瞬かせる。
「私?」
「そう。現実がどうだとか、他人がどうだとか。そういうの関係なく、おまえ自身が何をやりたいかって話」
「……私、は……」
問われ、彼女は戸惑った様子で視線をさまよわせた。
そして空を見上げ、しばらく考えた後――
そのままの姿勢で、隣花は自分の思いを口にする。
「……パフォーマンスとか。人を喜ばせるとか。私には、そういうのはよくわからない。
けど、私はやるんだったら、『音楽』で真剣になりたい。だってせっかく楽器をやっているんだから――そうでなきゃ嘘でしょう」
「そっか。じゃあ、それでいいんじゃないか」
「……いいの?」
「いいも何も。それは立派なおまえの『正解』だろ」
というかそれは思った通りというか――むしろ文句もつけようもないくらいに隣花らしく。
そしてそれ以上ないくらいに正鵠を射た、彼女の本当の願いでもあるのだから。
ようやく聞けた隣花の本音に、鍵太郎は立ち上がって身を乗り出し、湖の周りの柵に手をかける。
「真剣に音楽をやりたい。大いに結構じゃないか。曲を作ることも、楽器を吹くことも。それはこれから何をやるにしても絶対必要な、根幹の根幹にあたる部分なんだし」
むしろそれがなければ、なんだって中途半端に終わってしまう。
そんなものはこちらも願い下げだった。
そしてそれは奇しくも、先ほど隣花とケンカした、打楽器の双子姉妹も言っていたことでもあるのだ。
――『みんな人を喜ばせるってことを、もっと真剣に考えるべきだと思うんだよね!』
そのセリフの意味を考えれば、彼女たちの望みだって両立する可能性が出てくる。
そこに至るための道程は違うかもしれないが、導かれる結論は同じだ。
真剣に人を楽しませるんだったら、真剣に音楽をやることだって確実に必要なのだ。
だったら――
「よし! そうと決まれば行くぞ片柳! こんなとこで落ち込んでる場合じゃない。俺たちにはまだやれることが、滅茶苦茶たくさん残ってる!」
「ちょ、ちょっと!? どこ行こうっていうの!?」
これからやるべきことは、やはりまるで変わらなかった。
それを確信して驚く隣花を引っ張り、鍵太郎は近くにあったテーマパークの案内看板へと向かう。
急に腕を掴まれて、振りほどくことすら忘れているのだろう。
隣花は声はあげるものの特に抵抗なくついてきて――そんな彼女に、鍵太郎は看板を指差して言う。
「ショーだよ! こういうところは生演奏だってやってるはずなんだ、それを見て参考にするんだよ!」
そしてそんな調子で案内看板の元にまで辿り着けば、そこには『今週のショーの予定』という文字の下に、園内の生演奏のスケジュールがびっしりと並べられていた。
どれを見に行こうか鍵太郎は、上から順にそのリスト全部に目を通していく。
もちろん、こういったところで演奏してるのはプロだ。
演奏もパフォーマンスも完璧だ、ならばそれを見て自分の中に取り込まない手はない。
つくづく、こんなところまで来て自分は一体何をやってるんだとは思うのだが――しかしもうこれは業のようなものだった。
ここまで来たらもうどうしようもない。
何に遠慮する必要もない。
真剣に人を喜ばせる音楽を作るんだったら、こっちだってそんな自分にとことんまで真剣に向き合うまでだ。
そう思って、看板の演目にどんどん目を走らせていくと――
「――え?」
そこに予想もしなかったものがあったので。
鍵太郎はそのことに驚き、大きく目を見開いていた。
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