第201話 メリーウィドウ・セレクション
「さて、楽しい時間はあっという間で、今回の演奏会もこれが最後の曲となってしまいました」
確かにあんなに練習してきたのに、本番といえばあっという間だった。
まあ、本当はこの後にもうひとつ、アンコールとして『例の曲』を用意しているわけだが――それは言わないお約束である。
プログラム上としては、これが本当に最後の曲だ。
その名は――
「喜歌劇『メリー・ウィドウ』セレクション。『メリー・ウィドウ』は和訳すると『陽気な未亡人』という意味ですが――この曲もその名の通り、明るく楽しいものとなっております」
その曲をやりたいと言い出した部長、
彼女がどういうつもりでこの曲を選んだのかは分からないが――少なくとも今の優はわずかに顔を伏せ、穏やかな表情で先生のアナウンスを聞いている。
そしてそれはこの会場のどこかにいる、彼女と同じ楽器のあの先輩も――
「優しく快活で、少々意地っ張りな未亡人・ハンナと、彼女の周りで巻き起こるドタバタとした恋愛コメディであるこの作品。今回はその中からいくつかの曲を、抜粋してお送りします。楽器を使った様々な仕掛けが用意されておりますので、どうぞ楽しんでお聞きください」
いや――それについてはあまり多くを語るまい。
先生の言う通り、これは楽しい曲なのだ。
そう思って思考を切り替えるため、鍵太郎は楽譜に視線を戻した。
ただでさえこの間は、レディに失礼なことを訊いてはいけませんよ、と言われて叩かれたくらいである。
だったらその意向通り、こちらはそのドタバタに付き合っていけばいい。
真実は、彼女の心の中にだけ。
そっと、そこにあればいいのだ。
だから――
「では、最後に相応しく華やかに演奏して参ります。『メリー・ウィドウ』セレクション! 本日はご来場いただき、誠にありがとうございました!」
拍手の上がるその隙間に、そのレディのソロの成功を祈って。
振り下ろされる指揮棒と共に、鍵太郎は彼女の選んだ最後の曲を吹き始めた。
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『メリー・ウィドウ』はこう言ってはなんだが、最初はあのカタブツ部長が選んだとは思えないほど、無茶苦茶に遊び心に溢れる曲だった。
木管楽器はおしゃべりをするようにさえずり、打楽器は元気よくリズムを刻み。
低音はやっぱり下を支え、ホルンは咆えて――
それぞれの楽器のよさを、余すことなく生き生きと引き出していく。
しかしそんな中にもどこか愛嬌があって、曲を聞いたときは先輩こういうの好きだったっけな――と、内心首を傾げたくらいだ。
でもそういえばこの人は、部長になる前は案外こういう、遊んでいる感じも好きな人でもあった。
真面目で練習熱心でありながらも、どこかに子どもっぽさもある。
それで部長という役目を背負わされたのだから、その時は正直たまったものではなかっただろう。
副部長になったあの先輩とはまた違う意味で、また相当に大変だったはずだ。いいや、他の部員との関わりがあった分、彼女が一番大変だったと言ってもいいかもしれない。
駆け込むように下ってくる音符たちを受け止めて、鍵太郎は優との思い出を振り返る。
そんなこの人の最後の
楽しい時間はあっという間だけど。
せめてそのくらいは、させてほしいと思う。
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華々しく部長デビューした、と言えば聞こえはいいが。
しかしその実、優は不安でいっぱいだったのだと思う。
それは、今の自分がそうだから分かる。だからせめても味方を増やそうと、同じく先輩がいなくなってがんばろうとしていた当時の自分に、声をかけてきたのだろう。
来年のコンクールこそは、絶対に金賞、取りたくないですか――
そう真っ直ぐに言われたことを、今でもとても鮮明に思い出せる。
それは、遠いクリスマスの出来事。
導くように鈴が鳴っていた、もはや一年近くも前の話。
けれどその鈴の音は一向に近づくことがなく、さらに彼女の不安を募らせた。
行けども行けども見つからず、どこもかしこも真っ暗な中を、それでも踏み出すしかない。
それが優の精神をどれほど削っていったのか、その後の彼女の行動を見れば分かる。
恐る恐る歩いていった先で、一段一段階段を登る作業の繰り返し。
それで『部長』としての貝島優は、その生真面目さゆえにいつの間にか『自分』を閉じ込めた。
その奥にあった、繊細な気持ちに気づかぬまま。
もしくは――ひょっとしたら、気づかないふりをしたままで。
それが最善だと思わないと進めなかった。
『それ』を認めてしまったら、自分は部長ではなくなってしまうから。
『部長』としての自分と、『個人』としての貝島優。
その間で複雑に揺れ動いていた彼女の思いを、あのバカ先輩は知っているのだろうか。
ずっとずっと今の今まで閉じ込めていたその思いに、果たして気づいているのだろうか。
まあ――気づいていてもいなくても良い。
なにせ今日で、この人の役目は終わる。
固く閉じ込めていたその思いに、蓋をする必要もなくなる。
だから今だけ――
彼女の歌うその思いを、聞いていてやってくれ。
そう願って、鍵太郎は楽器から口を話した。
だってここから先は、この先輩だけの
自分は聞いていることしかできない、彼女だけの大切な時間。
そして。
優はゆっくりと、その旋律を弾き始める。
それは金賞のためでもなく、名誉のためでもなく。
ただあの人に捧ぐ歌。
色とりどりにあった花のごとき思い出の中で、彼女はただの真っ白い、おもちゃみたいなマレットを選んだ。
それでメロディーを描きながら――ゆっくりと丁寧に、優は自分の思いを紡いでいく。
それはまるで、閉じられていた小さなオルゴールを開けたような、どこか拙い――けれども聴く者を惹きつける、綺麗な音色だった。
ささやかな音たちの中で、一番高いものをピン――と叩いて、彼女は僅かに、間を空ける。
けれども次の瞬間には――微かに笑ってマレットを振り下ろし、優はそこから先に向かった。
その微笑みに込められた意味を、鍵太郎は推し量ることはできない。
そこにいるのは小さなレディ。
ならば、あれやこれやと詮索するのは無粋というものだ。
最後の一言を伝え終えた彼女は、天に昇るかのようにはかなく、優しく消えていく。
それはもう一度、オルゴールに蓋をするような行為でもあったが――
それを引き継いで、今度は周りが同じ歌を歌い出す。
まったくなんて先輩なんだ――とその歌を底から支えながら、鍵太郎は優のことを思う。
部長だとか、個人の思いだとか、そんなのは関係なく。
ただ「私がやりたいからだ」って言えば、みんな最初からこうして協力したのに。
彼女の思いを聞いた周りの人間たちは、そのメロディーをさらに大きく――ドラマチックに広げていく。
こんな未来もひょっとしたら、あったのかもしれない。
けれどもそれに気づいたのは、この先輩も――全部が終わった後だったのだろう。
だからそれはもう、過去の話なのだ。
部長として、その一方でどこかただ一人の少女として、両方を追い続けたこの人は。
今でもこうして、ここで一緒に叩いている。
だったらもう、それでいいじゃないか。
ずっとずっと息を止めていたのかもしれない。
その手に今、何を手にしているのかも分からない。
けれどこの人は、それでも最後の最後に、ここにいてよかったと言ってくれた。
だからここからは――思い切り楽しく叩こう!
全てを吹っ切って、彼女は踊るように歩き出す。
用意するのはたくさんの楽器。
そのなかでもとびきり選りすぐった、自分のお気に入りのおもちゃ。
そしてまるで花のようなマレットを持って――回るように歌うように、最後の舞台を突き進んでいく。
そんなこの人の姿を、あの大馬鹿先輩は見ているだろうか。
見てなくてもいい。だって彼女は――もうそんなこと関係なく、ただ自分のやりたいことを、やっているだけなんだから!
そんな部長についていかない手はない。フルートもトランペットも合いの手を入れるように、好きなように遊んで音を出していく。
ユーフォニアムが歌い、バスクラリネットが刻む。この先輩たちとも演奏も今日が最後だ。
だったら自分も好きなように、この本番を吹こう。
おちゃらけた主題の合間に、あくびのようにトランペットが吹いてティンパニが飛び跳ね、トロンボーンが自分も混ぜろと次々にやってくる。
派手な仕掛けの連発だ。サーカスのような展開に、楽器を叩いて大喜びする部長に合わせて、気持ちが加速していく。
流れるように美しく、熱が入って大きくなって。
その気持ちが幸せと言うのなら――その心に共鳴して、周囲の笑顔も大きくなっていくのだろう。
楽譜の最後の一ページ。
これが終わったらみんなとお別れ。
楽しい時間はあっという間だ。ワガママお姫様とも、正確無比なスナイパーとも、うっかりなぽっちゃりさんとも、おっさん女子高生とも。
そして、そんな個性豊か過ぎる面子を率いてきたお子様部長とも。
今年は本当に色々あった。ありすぎて目が回りそうだった。
それも振り返ってみればとても愉快で、波乱に満ちた日々だった。
だから――と思う。
最後に言いたいことがある。あんたたちだってひとつ上の先輩のことをあれやこれやと言っていたが、自分たちだって結局好きなことを散々やってきただろう。
それに俺たちがどれだけ振り回されたと思ってるんだ。あのクラリネットの後輩を見てみろ、あんたたちのその勢いに上へ下への大忙しだぞ。
それそれがそれぞれ好き勝手にやって、自分たちはそれに翻弄されっ放しだったんだ。
人のこと言えたもんじゃないだろう、それでこっちがどれだけ迷惑したと思ってる。
分かってるよ、まとまりがなかったのは、お互いにやりたいことがあったからだ。
譲れなくてケンカになったのは、それがあなたたちにとってそれだけ大切だったからだ。
ふざけんな、この女傑ども。
あんたたちがここにいて幸せだったと言うのなら――
こっちこそそんなあんたたちと一緒にいられて、楽しかったぜ!
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