第200話 エルザの大聖堂への行列

 これは、彼女の歩みの曲。

 誰かと一緒に吹くことを望んだ、彼女自身の道の曲。



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「――はい、みなさんお菓子はもらえたでしょうか? もらえた? それはよかった」


 そんな顧問の先生の司会の声が響き渡る、体育館の中で。

 学校祭二日目、今日も吹奏楽部コンサートの演目は順調に進められていた。

 昨日と同じく、部員が客席に配ったお菓子もやはり、なかなかに好評だったらしい。

 湊鍵太郎みなとけんたろうはそれでざわめく客席の中で、知り合いのオーケストラ団員の女の子が渡されたクッキーをじっと見つめているのを、笑って眺めていた。

 子ども中心に配るように話していたが、まさかこの大勢のお客さんの中で、彼女の手に渡るとは思っていなかった。

 というかはしゃいでいるのはむしろその子の周りの大人たちで、頭を撫でたりうらやましげに話しかけたり、楽しげに笑ったりと――もはやどっちが子どもなのか分からないような反応を見せている。

 そんな光景が今、会場ではあちこちで見受けられて。

 鍵太郎が目を細めていると、そんな客席のざわめきが少し収まるの待って、顧問の先生が言う。


「――さて、次にお送りしますのはガラッと趣向を変えまして、歌劇『ローエングリン』より、『エルザの大聖堂への行列』です。

 この曲は、劇中でヒロインのエルザが婚礼の儀のため、礼拝堂へと向かう際に演奏されるものとなっています」


 そして、その先生のアナウンスに。

 三年生の関掘せきぼりまやかが、スッ――と顔を上げるのを、鍵太郎は見ていた。

 そう、この曲はこの先輩のソロから始まるのだ。

 ならば、これは彼女の為の曲と言っても過言ではない。


「婚前の花嫁の繊細な美しさ、心の機微、そういったものがよく表された曲になります。みなさんそういった場面を想像しながら――どうぞ、お聞きください」


 舞台袖で先ほどこの先輩は、自分の辿り着いた結論を聞いてもらえれば、と言っていた。

 確かにこのコンサートで引退となる彼女にとって、この曲はこれまでの集大成となるものだろう。

 なので静かに楽器を構えるまやかのことを、鍵太郎は敬意を持って見つめる。


 『エルザの大聖堂への行列』――


 それは、彼女自身の歩みの曲。

 であるなら、今は――この人がこれまで辿ってきた道を、せめて一緒に振り返ってみよう。



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 最初に聞こえてきたのは――透けるような純白の布がひるがえるような、そんな美しい音だった。

 穢れを知らず、悲劇も知らず。

 そんな初心者の女の子じみた、それでいて聞くものを惹きつける――ただただ綺麗で純朴な音。

 それが関掘まやか、最初の音だった。

 そしてそこに、他のフルートの音が重なってくる。

 それは、彼女が最も平和だった時代。

 この人に大切なものを与えてくれた先輩たちがいた、儚くも愛しき――そして、自分の知らない時代。

 お姫様みたいだった、と彼女の同い年の先輩は言っていたことがあるが、どうだったのだろうか。

 その頃のまやかに、できれば会ってみたかった気がする。

 それは全く、叶わないことであるが――きっとこの曲の題材であるお姫様のような、そんな存在であったのではないかと思うのだ。

 そして彼女は、そこからゆっくりと歩き出す。

 自身も知らない、けど行く先だけはなんとなく分かっている、そんな足取りで。

 それに、そっと一緒についていく。

 その時代のまやかのことは知らない。

 けれど、この曲で共に歩むくらいなら――と思って。

 踏み出した一歩が重すぎて、なんだか先輩に睨まれたような気がした。

 わたしの体重、そんなに重くないんだけど――という声すら聞こえたように思えて、鍵太郎は慌てて次の音をもう少し細くする。

 今自分が吹いているのは、花嫁の歩みを表す、ゆっくりとした足取りだった。

 だがここは本来ならば、『1st Tuba if no B'ss'n』――『バスーンがいなければチューバが一本で吹く』という、つまり楽器が足りていれば、やらなくて済む場所でもある。

 しかし川連第二高校にバスーンファゴット奏者はいない。

 正直この攻城兵器に、針の穴を通すような木管楽器あなたと同じものの繊細さを求めないでほしいと思うのだが、それでも楽譜に書いてあるので、やるしかないのだ。

 そうでなければ、誰もその行き先を感じることはできない。

 数週間前に上手く吹けなくてため息をついていたのは、実はこの部分でもあった。

 そのときは、まやかに喝を入れられて、なんとなくできるようになったのだが――たまにこうして、暴発してしまうときはある。

 けれどそれだって、結局はあなたの歩いてきた道そのものだったんじゃないですか――と先輩に対して心の中で突っ込みを入れながら、鍵太郎は吹き進めていった。

 いくら今では姫というより女王様といった風格を漂わせているとはいえ、この頃の彼女は、まだそこまでではなかったはずである。

 むしろ初心者ゆえに、失敗も多かったのではなかろうか。

 自分と同じく、先輩に教えられながら育った身であれば――と。

 そう思ったところで。


 曲が。

 ハーモニーが。


 馴染みのない調に移り変わって、大きく歪んだ。

 上ずる音を、必死で押さえ込む。

 他の楽器の音も居場所が分からなくなって、一瞬曲がバラバラに壊れる。


 そう、ここが関掘まやかの転換点。

 彼女の歩む道が大きく変わってしまった、そのときの話。


 自分が知っているのはそこからのまやかで、そしてしばらくそのまま曲は続いていくのだ。

 どこか不協和音を抱えた、不安定な足取り。

 ヒリヒリとした緊張感を抱えながらも、それでも歩くことしかできなかった、彼女自身の選んだ道。

 同じ旋律をやっているはずなのに、同じに聞こえない。

 どこもかしこも声が上ずって、彼女と対等に吹いてくれる誰かは一向に現れない。

 そんな中を進んでいって、やがていつしか、最初の音を忘れていって――


 でも心の奥底に、その願いはいつまでも残っていた。


 かつて彼女と一緒に吹いてくれた人は、もうここにはいない。

 おそらくこれを見に来てもいない。

 今どこでどんな思いを抱えて、どうしているかも分からない。


 けれどこの人は今も、こうしてここで吹いている。


 自分で閉じ込めていた気持ちを掘り起こして、そしてまやかはかつての旋律を、もう一度歌い始めた。

 それは強く、大きく、優しく――かつてより響きを増して、高く高くどこまでも遠くに飛んでいく。


 その境地に辿り着くまでにあった道程は、決して平坦であったわけではない。

 環境にしても、とても恵まれていたとは言い難い。

 けれどそれでも、この人に、あなたはこれまで幸せだったのでしょうかと訊けば――

 きっと彼女は「幸せだった」と言って、笑うのだろう。


 深みをたたえ、輝きを増し――

 美しき姫は、再び望んでいた場所へと歩き出す。

 至るべき場所は大聖堂。

 劇中で騎士と結ばれるために、赴いた場所。

 その歩みを祝福するように、トロンボーンの音が鳴り響くが――こちらの出番はまだだと、今指揮を振っている先生には言われていた。

 きみの出番は最後の最後。

 それまで待っていてね、と言われていたことで――鍵太郎はこれまでの、まやかとの歩みを思い出す。

 結局この先輩とは最後の最後まで、対等に吹くことはできなかった。

 自分が関わったのはこの人の歩んできた道のほんの一部で、それにしたってあまり大したことができたとは言えないだろう。

 でも、それでも今は、彼女の幸せを願おう。

 誰かと一緒に吹くことを望んだ、この人の幸せを願おう。

 劇中では次の場面があるため、さらに邪魔者が現れて展開するこの曲ではあるが――今回はひとつの曲として完結しているため、ハッピーエンドで演奏は終わる。

 悪しき者は無く、ただ騎士と共に在り、彼女の物語は終わりを迎える。

 そのことを名残惜しく感じながら、鍵太郎はそこに向かって吹き進めていた。

 階段を登るように、トロンボーンの音が昇っていく。

 ――まだだ。

 後ろを振り返るように、ホルンの音がそれまでの歩みを映し出す。

 ――まだ。

 そして、歓喜に花開くような笑顔を、シンバルの音が照らし出した時――


 ――ここ!


 鍵太郎はありったけの力を注ぎ込んで、この瞬間に最後となる祈りを捧げた。

 彼女の待ち望んだ騎士が、そこに現れていたのかは杳として知れない。

 ただそれでも、最後くらいはこの人と共に在りたかった。

 そしてその祈りは、届いたのか。

 煌きと共に、彼女は扉の向こうへと消え去っていく。

 その薄らいだ光は、最後の一瞬、ひどく大きく瞬いて――


「……」


 目を開いたときには、そこはもう体育館の中だった。

 大きく息をつくと、万雷の拍手喝采の中、まやかがこちらを振り返ってくる。

 そして彼女が、そこでにっこり笑うのを見て。

 鍵太郎は最後の最後に――ようやくこの先輩に認められたのだと分かって、苦笑いした。

 どうにも最初から最後まで、手厳しい人ではあったが。

 その歩みにほんの少しでも関われたことを、今となっては光栄に思う。


 『エルザの大聖堂への行列』。


 それは、彼女の歩みの曲。

 誰かと一緒に吹くことを望んだ、彼女自身の道の曲。


 そんなこの人が今、幸せだと言うなら――

 貴方の望んだ騎士は、最後の最後に、迎えに来てくれたのだろうか。

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