第196話 目に見えていることだけが真実とは限らない

 そして、そのまま笑顔で、後輩たちを見送って――

 湊鍵太郎みなとけんたろうはその姿が見えなくなってから、後ろを振り返った。


「じゃあ、始めましょうか。都賀つがさん」


 そう言って、そこにいる都賀に改めて向き直ると。

 彼は珍しく顔を引きつらせて、若干後ずさりすらしながらこちらに言ってくる。


「あのさあ……この間きみは僕がすごい顔してたって言ってたけど、今のきみだって、結構すごい顔してるよ?」

「あ、そうですか?」


 努めて笑顔でいようとは思っているものの、心の底に押さえ込んでいるはずの怒りは、どうやら外に滲み出してしまっているらしい。

 後輩たちを、あれほど傷つけた『なにか』への怒りが。

 そう思って口元を覆うと、そんな鍵太郎に対して、都賀はやれやれと苦笑して言ってくる。


「とりあえず、状況を説明してもらえないかな。それが分からないことには対策も立てられない」

「……って、都賀さん? 全部分かってて話しかけてきたんじゃないんですか?」


 ついさっき、全てを見透かしたセリフを吐いてきたあの態度は何だったのか。

 鍵太郎が眉をひそめていると、都賀はさらに苦笑いを深めて言う。


「あのね。今日の僕は近所の学校の学校祭を楽しみに来ただけのつもりだったんだ。ひと通り見て回って、たこ焼きでも食べたら帰るつもりだったんだよ。

 それでその通りに食べ終わって容器を捨てに来たら、何やらきみたちがこの世の終わりみたいな顔してるじゃないか。

 だから、もしかしたらと思ってカマをかけてみたわけなんだけど――どうやら、その様子だと大当たりだったみたいだね」

「こ、この、腐れ楽器屋……」


 悪びれもせずいけしゃあしゃあと言ってくる都賀に、鍵太郎の口から思わず顧問の先生が言っているのと同じ悪態が出てくるのだが。

 当の楽器屋は、いつものようにそれを受け流し――

 先日店で見たのと同じ営業スマイルを浮かべて、こちらに言ってくる。


「で? 一体今何が起こってるんだい?」



###



「――ふぅむ。宣伝のチラシが捨てられていた、か。なるほど」


 いいように踊らされている感があるのは、とりあえず置いておくとして――

 鍵太郎は都賀に、ここであったこととそれに至る経緯を説明した。


 後輩たちは一生懸命チラシを配ったが、そのチラシがこうしてここに捨てられていたということ。

 今日の本番の客席が全部埋まらなかったこともあり、彼女たちはそれを見て、ひどく落ち込んでしまったということ。

 しかし自分にはそんな後輩たちにかける言葉が見つからず、ただ強い憤りを抱えることしかできなかったということ――


 全部を話し終えて都賀が口にしたのは、まず驚くべき一言だった。


「うん、それ全然気にする必要ないから。明日もガンガンチラシは配っちゃえばいいと思うよ」

「だから、それができないから都賀さんにこうして相談してるんでしょう!?」


 思わず怒鳴ってしまったが、それが鍵太郎の偽らざる気持ちだった。

 それができればそもそも、こんな状況になってはいない。

 気にしなくていいなんてお気楽なこと、さっき後輩たちの前では絶対に口にできなかった。

 だから解決策を求めて、こうして相談しているというのに――そう鍵太郎が楽器屋を睨んでいると、都賀は肩をすくめて言ってくる。


「じゃあ訊くけどさ――きみたちが今日配ったチラシって、全部で何枚あった?」

「え?」


 その質問に、虚を突かれて都賀を睨んでいたはずの目が丸くなる。

 そういえば、先ほどの自分たちはチラシが捨ててあったショックでそれしか見えていなかったが――実際に配った数は、果たしてどのくらいだったろうか。

 誰がどのくらい配ったかは定かではないが、鍵太郎自身がもらって配ったチラシは十枚ほどだ。

 それを単純に、部員数で掛けると――


「……三百枚強、くらい配ったかと思います」

「で? 捨ててあったものは?」

「……返されたものとここにあるのを含めたら、九枚くらいですね」

「ほれ見ろ、全体のたった三パーセント弱しかないじゃないか!」

「……え? あれ?」


 なんだか数のマジックに騙されたようで、首を傾げてしまうが。

 しかし、言われてみれば確かにその通りだった。

 ここに捨ててあるチラシは、全体からすればほんのわずかに過ぎない。

 『捨ててある』ということ自体のショックが大きすぎて、そこまで考えが及ばなかったが――数字に直してみると、意外と枚数的には大したことがないということが分かる。

 なら、気にせずどんどん配ってしまえばいい――

 そう言った楽器屋の論理に、鍵太郎の理解がようやく追いつくと。

 都賀はこちらの表情を見て、「少し冷静になったかい」と言ってきた。


「これで分かっただろう。目に見えてるものだけを真実だと思い込むんじゃない。残りの二百九十枚以上は、ちゃんと人の手に渡ってるんだ。

 だから『これ』はほんの一部であって、全てじゃない。。だからむしろ残りの九十七パーセントに全力を傾けるべきだと、僕は思う」

「そ……そうです、ね」


 まだ狐につままれたような気分だが、もっともな話ではあった。

 人間は、いいことと悪いことがあったら、悪いことの方に目が行きがちな生き物だ。

 それは自分でも分かっていたが――まさかこんな風に、そのことを思い知らされることになるとは思わなかった。

 そして単なる気休めではなく、明確な論拠を伴った上で『きみたちの努力は、全否定なんかされてない』と。

 そう言い切られることの、なんと心強いことか。

 やはりこの楽器屋、腐ってもいち個人営業主ということなのだろう。

 そう思って鍵太郎が内心感心していると、都賀は言う。


「で――ここからが肝心なんだけど、その九十七パーセントをどうやって会場に引き込む? あの客席の埋まり具合からして、チラシは数を配れていても、会場の体育館まで足を運ばせるほどの宣伝力は発揮できてないって様子だった。だから明日も明日で配ってもらうのはもちろん、配り方にももう一工夫加えたいところではあるけど――」

「ちょ――ちょっと待ってください都賀さん! 都賀さんうちのコンサート見に来てたんですか!?」


 明らかにそうとしか思えない発言に、ついつい都賀のセリフをさえぎってしまったが。

 言われた当人は何を今更といった調子で、こちらの質問に答えてくる。


「なんだよ、きみは都賀楽器店うちに宣伝のポスターを貼っていったんだぞ。ご丁寧に会場までの地図と、両方の日にちの開場と開演の時間入りだ。毎日嫌でも目に付くよ」

「そ、それは……ありがとうございます」

「言ったろう? 僕は今日は、いち観客のつもりだったんだって。まあ僕は子どもじゃないから、お菓子はもらえなかったけどね。それはそれでいいものを見せてもらったから、よしとするよ」


 売るだけじゃなく見に行くってのも、たまにはいいものだね――と。

 わずかに視線を逸らして笑う都賀に、ふとよぎる姿があって鍵太郎は尋ねてみた。


「……ひょっとして都賀さん、城山先生を見に来たんですか?」


 この楽器屋と音大の同期だという、あの指揮者の先生。

 因縁浅からぬこの二人ではあるが、都賀の方は少し前まで、あの先生がこの学校の指揮をしていることを知らなかったらしい。

 だったら、こっそり様子を見に来てもおかしくないのではないか――と。

 そう予想した鍵太郎に、楽器屋は「さあ、どうだろうね」と答えをはぐらかしてきた。


「たまたま近所の学校の子がうちにポスターを貼りに来て、気が向いたから学校祭を見に行ったら、昔なじみが指揮を振っていた――それだけのことだよ。特別な事情なんて何もないさ」

「……そうですか」

「……まあ、あいつは、いい顔をして指揮を振ってたね」


 だからそうさせただけの演奏者たちのことは、みすみす放ってはおけないからね――と。

 こっちが苦笑したくなるようなことを言って、そして都賀もまた、苦笑いをした。


「部活全体のテンションが下がるってことは、購買意欲も下がるってことだ。それはこちらとしても大変よろしくない。よろしくないよ。だってきみたちにはこれからどんどん活躍してもらって、どんどんうちから物を買ってもらわないと大いに困るんだから」

「なんで素直に、終生のライバルの様子が気になったから見に来たって言えないのかね、この人は……」

「さあさあ、もう余計なことを考えている時間はないよ! なにせこれが、明日の本番の客席がいっぱいになるかどうかの瀬戸際なんだからね。しかし宣伝と売り込みなら大の得意分野であるこの楽器屋が来たんだ、大船に乗ったつもりでどーんとお任せあれ!」

「大人って、大変だなあ……」


 どうあっても建前を崩さない都賀は、だからこそ楽器屋なのかもしれないが。


「では――まあ、はい。続きを、よろしくお願いします」


 目に見える部分だけが真実ではないのなら――口にしていることだけが真実とも限らない。

 なら一見性根の腐ってるようなこの人のことも、十分信用できる。

 そう判断して鍵太郎は、都賀に商談の続きを促すことにした。

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