第195話 優しさの中にも強さを秘めた、響きを

 見に来なければよかった――そう思いながら。

 湊鍵太郎みなとけんたろうは呆然と、学校祭のために急遽作られたゴミ箱の、その中にある紙切れを見つめていた。

 それは今回の吹奏楽部のコンサートの、宣伝のために作られたチラシだ。

 そのチラシが、使用済みの割り箸や紙ナプキンなどと一緒に、『燃えるごみ』として捨てられている。

 くしゃくしゃになったもの、誰かに踏みつけられたのであろう足跡がついたもの――

 それは確かに、何の関係もない人からすれば単なるゴミだろう。

 ただ――


「あ……」


 その光景に、力を失って。

 鍵太郎の後輩の宮本朝実みやもとあさみが、その場にへたりと座り込んだ。

 彼女は本番前に、張り切ってそのチラシを配っていたのだ。

 それだけに、ショックは大きいのだろう。

 朝実の隣では同じく宣伝をしていた一年生の野中恵那のなかえなも、顔を青くして黙り込んでいる。

 先ほど鍵太郎たちは見知らぬ生徒から吹奏楽部のチラシが捨ててあったという話を聞いて、その真偽を確かめるべく、ここにやってきたのだ。

 本当はそんな言葉なんて無視して、当初の予定通り三人で一緒にラーメンでも食べに行けばよかったのかもしれない。

 けれどもその話は、鍵太郎たちにとって看過することのできないものであった。

 何かの見間違いだ――そう言いたい気持ちも、どこかにあったのかもしれない。

 だから何かに追い立てられるように、吸い寄せられるようにここにやってきて。

 見てしまったのは、見たくもない現実だった。


「どう、して……」


 へたり込んだままの朝実が、誰にでもなくつぶやく。


「どうして一生懸命配ったのが、こんな風になっちゃうんですか……。なんであんなにがんばったのに、こんなになっちゃうんですか……」

「……」


 その言葉に、鍵太郎は応えることができなかった。

 確かに、コンサートに興味がない人にとって、このチラシはもらっても意味のないものだろう。

 けれどもそれを言ったところで、この後輩を慰めることはできない。

 むしろ余計に傷つけてしまう可能性のが高い――そう思って歯噛みしていると、今度は恵那が言う。


「……仕方が、ないんですよね」


 彼女は朝実のように崩れ落ちてはいないが、心の中ではどうか分からない。

 むしろ、この目の虚ろさからすると、こちらの方がよりまずい精神状況にあるのかもしれない――そう悟ってゾッとしていると、恵那は続ける。


「仕方が、ないんです。応えてくれない人は応えてくれない。聞いてくれない人は、いつまでも聞いてくれない――そうなんです」


 忘れてました。

 ここの人たちは優しいから、そのことを、すっかり忘れていました――

 そう、自分に言い聞かせるように口にする恵那に。


「……違う」


 鍵太郎はボソリと、心の底からふつふつと、湧きあがってきた言葉を口にした。

 確かに、今日一日目のコンサートの客席はいっぱいにはならなかった。

 けれども、来てくれた人の顔は、あんなにも嬉しそうだったじゃないか――そう、言いたいのだけれども。

 しかしこの無残に打ち捨てられたものの前では、その言葉はそこまでの力を発揮できないだろうということも、重々承知していて。

 むしろそちらとの落差が大きい分、余計に目の前の現実に目が行ってしまうだろうことも分かっていた。

 人間は『よかったこと』よりも『悪かったこと』の方に目が行く生き物だ。

 ハンカチにシミができれば、シミにしか目が行かなくなる。

 いくら他の部分が綺麗でも、人はそれを消そうと躍起になる。

 その消し方は人それぞれだけど――この二人の受け止め方は、まずい。

 いくらがんばっても、しょせん無駄。

 何をしたところで、結局何も変わらない――

 そんな諦めの雰囲気が、こちらの方にまで悲しいほどに伝わってくる。

 そしてそんな彼女たちを勇気付ける方法を、今の自分は持っていない。

 どんな言葉も、どんな行動も。

 その心にできた傷を拭うに値しない。


「違う……っ!」


 ほんの少し前に、いい演奏をしていればいつかは客席もいっぱいになる、などと呑気に考えていた自分を殴り飛ばしてやりたかった。

 そんな悠長なことを言っていないで、もっと必死になってでも、どこかで感じていた違和感に向き合わなければならなかったのだ。

 土曜日だから、仕方がない――違う。

 雨が降っているから、仕方がない――違う。

 会場が学校祭の一番片隅の体育館だから、仕方がない――違う、違う。違う!

 そんな言葉に押し潰されないだけの、彼女たちの悲しみを振り払うだけの強さが、今すぐ欲しかった。

 先輩たちが引退したらなんて話ではない、もうとっくにそうならなければいけなかったのだ。

 もっともっと。

 もっと強くならなくちゃ、いけないのに――!

 そんな願いが、通じたのか。


「あーあ、だから言ったのに」


 後ろから聞こえてきた声は。

 この場に最も相応しい、楽器という武器を売る商人の声だった。



###



都賀つが、さん……」


 振り返った鍵太郎が見たのは、苦笑いで首を傾げる都賀楽器店店主、都賀雅人つがまさとだった。

 一体いつからそこにいたのか。そしてどうしてここにいるのか。

 それは今の鍵太郎の沸騰した頭では分からないが。

 ただひとつ、言えることは。


「都賀さん、今すぐ俺に、この間言っていた方法を教えてください」


 この楽器屋が、この状況を打開できるほぼ唯一の存在だということだった。

 最強のリーダーになる方法を教えてあげるよ――ほんの数週間前に、彼がそう言っていたことを思い出す。

 対価は、自分の将来。

 その道を選べば、もう後戻りできない――そう告げられていたことも、連鎖して思い出すが。


「もう、そんなこと考えてる場合じゃない。今すぐ強くならなきゃ、俺が自分を許せない」


 もはやそんなことを言っている場合ではない。

 都賀はそんな詰め寄ってくる鍵太郎と、その近くにいる後輩を見て――


「なるほど」


 そこで、ひとつうなずき。

 そして、最終確認をしてきた。


「じゃあ、取引開始、ってことでいいのかな」

「お願いします」


 その覚悟は先ほど、既に済ませた。

 信じることが武器になるなら、いくらでも信じてやる――

 そう固く心に誓って。

 鍵太郎は、自分たちの知らないところで話が進んでいることに戸惑う後輩たちへ、言う。


「宮本さん。野中さん。きみたちは今日すごくがんばった。だから来てくれたお客さんがいた。それは城山先生も言ってたことだろ? だから今日は、もういいよ」

「それはそうですけど……でも」

「……」


 チラリ、とゴミ箱を見る後輩たちに、しかし鍵太郎は構わず持っていた食券を渡す。

 いつもならびっくりして手を引っ込めるだろう恵那も、このときばかりは不思議そうな顔で、それを受け取ってくれた。


「ほら、これあげる。一枚しかないけど。これで先輩のとこで、二人でラーメン食べてきなよ」

「……」

「先輩は……これからどうするんですか?」


 そう言って、未だ不安げにこちらを見つめてくる、後輩たちへ。

 鍵太郎は今の自分にできる、精一杯の笑顔を作って答える。

 そして、今年の夏に言った、あの――

 彼女たちが今、最も信じることができる一言を添えて。


「あとは、俺がなんとかするから」

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