第188話 遠き山のくまさん
違う世界への扉が開くような音が鳴り終わって、やってきたのは燕尾服の老人だった。
結構な歳にも見えるが、その背筋はシャンとしていて老いを感じさせない。その立ち振る舞いを見て、
吹奏楽部の外部講師の先生に誘われてやってきた、初めてのオーケストラの演奏会。
その先生がいる舞台上を見ながら――
鍵太郎は客席で、演奏が始まるのを待つ。
燕尾服のすそをひるがえし、老人はそのまま指揮台の上に立った。
『新世界より』。
そう冠された曲が、これから始まろうとしている。
###
静かに、かつ大胆に棒が振られて、始まったのは弦楽器たちのどことなく暗く不安げな音楽だった。
それはまるで、今ここにいる自分たちを表しているようでもある。
ちらりと隣に座る同い年の
初めてオーケストラの演奏会に連れてこられ、よくわからないままここに座っている自分たち。
これから部長と副部長として、部を引っ張っていかなくてはならない自分たち。
その先行きは、この曲のように手探りで暗いトンネルを進んでいくような、恐れと緊張でいっぱいなように思えたからだ。
わずかな光が見えるような方向へ、怖々と歩いていく。
これまでも似たようなものだったけれど、今は反発したいと思う道標すらない。
どこまでも自由に進んでいいと言われた暗闇の中をただひたすら歩き続けるというのは、かえって迷いを生むものだった。
わからない。
わからないけどその先に行きたいから、歩き続けるしかない。
そんな状況が、ずっと続くかに思われたのだが――
「――!」
突如として演奏が荒々しいものに変わって、鍵太郎はびくりと身を竦ませた。
暗いところから急に視界が開けたようで、思わず固まって目の前を凝視してしまう。
それは光莉も同じだったようで、隣からもぎょっとした様子が伝わってきた。
困惑したこちらを取り巻くようにして、演奏は刻一刻と変化していき――
「あ、城山先生」
と、そこで自分たちをここに呼んだ
そういえば、この先生が本気で吹いたところというのは見たことがなかった。
学校に楽器を持ってきて練習や遊びがてらに吹いているのを見たことはあっても、こうしてのプロとして彼の本番を聞くというのは実は初めてだ。
一体先生は、どこまですごい音を出すんだろう。
そう思って期待して見ていると――
「……あれ?」
ちょっと吹いて、すぐに楽器を下ろした。
そこからすぐにまた、弦楽器たちの旋律が始まる。
うん、確かに――オーケストラというのはバイオリンなどの弦楽器が主体で、管楽器はそこまででもないとは、光莉からも聞いていたのだが。
それにしたって、出番が少なすぎではないだろうか。
そして鍵太郎が普段吹いているチューバに至っては、ここまで何もしていない。
というか、ぴくりとも動く気配がない。
自分が普段、吹奏楽部であんなに死にそうになりながらずっと吹いているのは、一体何なんだというくらい――全くもって動かない。
その分、弦の低音楽器であるコントラバスがひたすら働いている。
えーと先生、カルチャーショックというのはこういうことですか、と、鍵太郎は壇上にいる先生のことを引きつり笑いをしながら見返す。
すると先生は、またちょっと吹いて楽器を下げた。
「……」
いやその音も十分、すごい音ではあるのだけど――
「……なんか、金管の出番少なすぎない?」
すると、同じく金管楽器であるトランペットを担当している光莉も、同じことを思ったのか怪訝な顔をしてこちらに訊いてきた。
「要所要所でしか吹いてないというか、ちょっと吹いては休憩して、ちょっと吹いては休憩して、みたいな。なんか、使われ方が効果音みたいな感じなんだけど」
「というか俺の楽器なんか、まだ一音も出してないぞ」
効果音どころかいらない子扱いされている自分の楽器を悲しげに見つめて、鍵太郎は光莉にそう返した。
いや、確かに弦はいいのだけど――
こうやって聞いていて、正直ずるいと感じるくらい、管楽器には絶対真似できない艶やかな響きがあると思うのだけど。
それでもどうしても楽器経験者としては、自分がやっている楽器を中心に見てしまうのだ。
優雅で情熱的で、大人っぽい演奏の中にまるで参加してない自分は、果たしてここにいる意味があるのだろうか――などと。
そんな風に自分の存在意義を考え直してしまうくらいに、この展開の仕方は衝撃的なのである。
これが、文化の違いというやつだろうか。
基準点をズラすだけで、こんなにもやることに差が現れるものなのか――と、口から魂が出て行きそうになりながら、鍵太郎はそんなことを考える。
カルチャーショック、ここに極まれり。
椅子からずり落ちそうになる身体を、なんとか支えていると。
曲は最後の盛り上がりを見せ――城山もさっきよりずっとずっと大きく咆え。
そして、その隣のチューバはやはり何もしないまま。
第一楽章が終わった。
###
全四楽章のうち、既に四分の一が終了した状態で、ようやくチューバ奏者が楽器を構えた。
「出番!? 出番なの!? そうですよね!? ここまでは前座みたいなもんですよね!?」
「ちょっとあんた、うっさいわよ!?」
その喜ぶべき事態に感極まって涙を流しそうになっていたら、なぜか光莉に怒られた。
いいじゃん、おまえの楽器だったらさっき十分に出番があったじゃん――と言い返す暇もなく、二楽章が始まる。
それはどこか遠くから、何か大きなものがやってきて、そして去っていくような。
そんな畏敬を以って聞き入るような壮大な
うんそうだよね、こういうときにこの楽器はやっぱり必要なんだよね――と鍵太郎がうなずいていると。
そのコラールが終わると共に、チューバ奏者は楽器を下ろした。
「……終わり!?」
冒頭三十秒で終わった自分の出番に、愕然とする。
え、ちょ、ちょっと待って。
これで終わりじゃないよね、終わりじゃないよね――!? と、鍵太郎がダラダラ汗をかいていると。
ふいにそこで、どこかで聞いたことのあるメロディーが流れてきた。
吹いているのは、曲が始まる前にチューニングの音を出していたあの、オーボエの美女だ。
しかし今彼女吹いている楽器は、そのときのものではない。
もう少し長い、オーボエに似た――なにか違う楽器だ。
「なんだろ、あれ……」
そしてなんだっけ、このメロディーは――と鍵太郎が頭を悩ませていると。
隣で光莉も同じように考えていたらしく、「なんだっけ……夕方……閉店間際とかに、よく聞くような……」とぶつぶつ言うのが聞こえてきた。
「ああ」
そうだ。
「『遠き山に日は落ちて』」
これは小さな頃、夕方に公園で遊んでいたときに、よく聞いていた曲だ。
すると光莉もこちらのつぶやきを聞きつけたようで、「あ、そうそう。それ」と言って表情をぱっと輝かせる。
「あれってこれが出典なのね。知らなかったわ」
「単純に、あれ単体の曲だと思ってたな……」
胸のつかえが取れたのか、すっきりとした顔をする同い年とは逆に、鍵太郎は苦い顔になった。
さっきから、知らなかったことや、物の見方が変わることの連続だ。
『新世界より』――この曲を聞き終わったら、ひょっとしたら自分の価値観は、根本から違うものになっているのではないか。
今も静かに、弦と木管楽器が優しい旋律を奏でているのを聞きながら、そう思う。
それはたぶん、いいことなんだろうけれど――
「……結局城山先生は、本当は俺に何を伝えたかったんだろうなあ」
舞台上で相変わらず、全く動く気配のないチューバ奏者を見つめながら。
そしてその隣の、やっぱり動かない先生を見ながら――
鍵太郎は苦笑いで、一体どういうつもりなのかを後であの先生に、問いただしてみようと思った。
###
そして、三楽章が終わって。
四楽章が始まる頃には、さすがの鍵太郎も気がついていた。
「出番が……ない!!」
オーケストラにおいて管楽器は――特にチューバは。
本当に本当の出番のときしか使われない、最終兵器扱いなのだと!
「春日先輩が言ってたのは、こういうことだったのか……」
二つ上の卒業した同じ楽器の先輩が、「大学にはオーケストラ部しかないから、社会人バンドに入る」と言っていた理由が、今ならわかる。
吹奏楽とオーケストラのチューバは、曲における役割と運動量が、あまりにも違いすぎるのだ。
『第二の指揮者』はどこ行ったという感じである。
基本吹きっぱなしの吹奏楽と違って、オーケストラのチューバは今だって楽器を床に置いたまま、ただ石像のように座っているだけだ。
これに関してはもう半ば、諦めかけてはいるが――確かにこれを知っていれば、いくらなんでもあの先輩だって吹き足りないと思うだろう。
そして――
「あああああ。城山先生――」
その代わりに城山匠が金管最低音となるであろう音を、ガンガンバリバリ出しているのだ。
そのことに、身体がうずうずする。
「なんでー。なんでトロンボーンの三番にあんなに出番があって、チューバには全く出番がないのー。どうしてー」
「そういう楽譜になってるから、仕方ないんじゃないの。ていうかさっきからあんた、本気でうるさいわよ!?」
「だってー。先生が俺の分まで吹いてるように感じるんだもんー」
トロンボーンにしては低いであろう音域を、城山は今もとてつもない出力で出している。
よくもまあ、あんなに吹かなかった直後に、ぱっといきなり最大音量が出せるものだ。
そしてそれは、別にプロの先生だからできている、というわけでもなくて――他のトロンボーンやトランペットなどの金管楽器類も、休んでは最大出力、休んでは最大出力といった風に、そういった吹き方をするのが普通のようだった。
そしてまた、城山が今吹いているのも、ほとんどチューバでやってもいいような低音域で――
しかしその隣に座っているそのチューバの人間は、やはりまるで動く気配がないのである。
「あああ、手伝いたい! 今すぐ楽器を持って舞台に飛び乗って、城山匠を手伝いたい……!!」
「いいから黙って聞いてなさい、あんたは!?」
「はい……」
光莉に怒られてしまったので、なんとか内なる衝動を抑えて、演奏を聞く方に専念することにした。
金管群はなるべく、視界に入れないようにして――やはりせっかくのオーケストラなのだから、普段触れる機会のない弦楽器をもう少し聴いておくべきだろう。
そう思って、バイオリンの方を見てみれば――
今まで管楽器ばかり見ていたせいで気づかなかったが、最前列バイオリンの一番外側、いわゆる首席バイオリンの位置に座っている人物が目に入ってきた。
その人は髭もじゃで、もみあげまでもっさりした、熊みたいなおじさんだ。
「……」
あれが、バイオリンという
そうは思うのだが、その熊――ではない。バイオリン奏者は、自身のゴツイ指を悠々自在に扱って繊細な動きをこなしている。
そして、それ以上に鍵太郎が目を引かれたのは――
彼の
あれはどういう風にやっているんだろう、と見ていて思う。
特に力を入れて弾いている風ではない。
けれどもそこに込められた彼のパワーが――迸ってそこに現れているようで。
弓が光の軌跡を描くように、力を伴って見えるのだ。
それは初めて生のバイオリン演奏を聞く鍵太郎にも、はっきりわかる『すごさ』だった。
そんな彼の目の錯覚すら覚えそうなくらいの動きは、確実に――周りの奏者にも影響を及ぼしていて。
『奏者側の指揮者』はこの人なんじゃないかと思うくらい、それに合わせて他のバイオリンも弓を動かしている。
首席奏者なのだから当たり前だといえば、そうかもしれない。
けれども、吹奏楽とはまた違ったステージで演奏をまとめ上げていく彼は――鍵太郎にとって今日一番の『カルチャーショック』だった。
自分が吹いていなければ、他の人がそれをやっている。
当然といえば当然だ。
そうしなければ、こんな大人数の演奏というのは成り立たない。
しかしそれを――こんなにも『自分以外の誰か』に預けてもいいというのは。
これまでずっと自分がやらなければと思っていた鍵太郎にとって、すっと肩の荷が下りるような発見でもあった。
自分が役に立たないからとか、怖いから誰かに任せてしまいたいとか、そういうことではなくて。
信頼できる誰かに任せられるというのが、こんなに安心できる演奏を生み出すものなのか――と。
その熊みたいなバイオリン奏者を見て。
鍵太郎はようやく素直な気持ちで、オーケストラを聴けるようになった。
いつもと違う響きに、耳を傾けて――
この『新世界』の先で、一体自分は何ができるだろうかと思う。
###
初めてのオーケストラ、そして初めての二人だけのお出かけ、というのは。
光莉にとって、大変な緊張を伴うものだった。
「……」
なにしろ、二人っきりなのである。
そして、オーケストラなのである。
これまで部活で出かけて二人で行動することはあっても、最初から最後まで二人だけで出かけるというのは、そういえば初めてだった。
なのでこういった演奏会ということもあって、すごくドキドキしているのは自分でも分かっていて。
そのせいで服装選びにもすごく困ってしまって、結果履いてきてしまったスカートには、ちょっと後悔したりして――
けどこいつときたら全然いつも通りで、悩んでいたこっちが馬鹿みたいに思えてきてしまうからムカつくのだ。
「……」
今だって、こいつはこっちには全く興味がないといった感じで、食い入るように舞台上を見ている。
ちょっとはこっちも見なさいよ――と、さっきしゃべるなと言ってしまった手前、言えずにいながら。
光莉はまんじりともせず、鍵太郎の隣で同じく舞台を見つめていた。
もういい。
せっかく聞きに来たんだし、自分だってオーケストラを堪能して帰ろう。
そう思っていた、そのとき――
「……はぎれ」
と。
ふいに彼がつぶやいたのが聞こえて。
光莉は思わず、隣を見た。
そこでは、さっきからうるさかった馬鹿が、相変わらずの調子でステージをじっと見ているのだが――
「え?」
その眼差しと顔つきが、どこか少し、これまでとは違う気がして。
思わず、声に出してその疑念を吐き出してしまう。
するとそれが聞こえたのか、彼はこちらを振り返って、苦笑いをして言ってきた。
「……ああ、ごめん。オーケストラもいいけど、だったら吹奏楽には何があるかなって、今ちょっと考えててさ。やっぱり弦の響きには敵わないから、他のものを探して――迫力と歯切れだったら負けないかなって。そう思ったんだ」
「……そう」
その、解答になっていない解答に――
光莉は目をしばたたかせて、そのいつも通りの彼を見返した。
なんだったんだろう、今のは。
それを問い詰める暇もなく――また彼は、ステージへと真剣な表情を向けてしまう。
「……」
そういえば――部長になることが決まってからというもの、こいつは何だか難しい顔で、今みたいに考え込むことが多くなった。
思い返せばこいつは、この間もそうだったのだ。
選抜バンドの写真を見ていたときには妙に厳しい顔をして、あまつさえこちらにまで、その顔を向けてきたくらいだった。
そのときは、何だこいつはと思ったけれども。
さっきの顔は、そのときの表情にどこか通じるものがあったように思える。
「……」
なんなんだろうこいつは、と思う。
そんなひた向きで少し怖い顔をして、一体どこへ行ってしまうんだろう――と思う。
と、そこで――『このままツンツンしてたら、そのうちあいつ自身が千渡さんの手の届かないところに行っちまうんじゃないかって――おれはそう思うんだけどなあ』――という、かつてこいつの友人に言われた言葉が脳裏に蘇ってきて。
そのときは、意固地になって否定したそれだったが。
「『新世界より』――」
でも、こいつがどこか遠くに行こうとしているなら――共に遠くまで。
不安だけれども、その先についていきたいと、今なら思えるのだ。
###
「いやあ、いろんな意味ですごかったなあ」
演奏を聞き終えてから、光莉とホールのロビーに出て。
鍵太郎は伸びをして、真っ先にそんな感想を漏らしていた。
やはり、CDで聞くのと生で聴くのとはまた全然、感触が違う。
初めてのオーケストラで自分の楽器の出番はなかったが、それでも十分得るものはあった。
そう考えていると――なぜか光莉は「うん……」と、半ばぼんやりとしながら応えてきた。
「そうね。なんかこう……得るものはあったかもね」
「だよな。来てよかった」
なんだか様子がおかしい気もするのだが。
普段あまり素直にこちらの言うことに同調しない光莉だ。
彼女がそう言うのだから、ここに来たのはきっと、いいことなのだろう。
「――と、そういえば。城山先生は終わったら楽屋に来いって言ってたけど――」
そして、あの先生はこれが終わったら、舞台裏にも来なさいと言っていたのだ。
あのバイオリン奏者や、オーボエ奏者にも会えるかもしれない。
そうしたら少し話をしてみたい――そう思うのだが。
なにぶん初めて来るホールなので、どこからどう行けば楽屋に辿り着けるのかが分からなかった。
案内板とか、どこかにないだろうか。
そう思って、鍵太郎がきょろきょろしていると――
「なんだ。おまえら、シロヤマの知り合いか」
つり目で、小学生くらいの女の子が。
まるで物怖じせずこちらを見上げて、堂々と話しかけてきた。
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