第187話 『新世界より』
そのどこかで聞いたことのあるサウンドに、
何か楽しいことが始まるような気がして、心臓がドクドクとざわめくような、この感触。
これは。
「あ、そうだ」
この音は――
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「オーケストラの演奏会、ですか?」
もう少しで残暑も終わるであろう、そんな九月の末に。
鍵太郎は吹奏楽部の外部講師である
「そうなんだよ。今度僕がエキストラをやる、アマチュアオーケストラ団体さんの演奏会があってさ。ぜひ湊くんにも来てほしいんだ」
「へえ……」
渡されたそのチケットを、鍵太郎は不思議に思いながらもしげしげと見つめた。
そういえば、城山はこうして指揮者の仕事だけでなく、プロのトロンボーン奏者としてこういった依頼演奏もこなしているのだった。
先日、この先生ととある楽器屋との話を聞いたせいか、そのことを思うと少し複雑な気持ちにもなるのだが――
するとそこで吹奏楽部の顧問である、
「おい。なんでトラのおまえがチケットさばいてんだよ」
「い、いやあ。似て非なる他のジャンルの音楽に触れることも、彼にとっては勉強になると思いまして……」
なぜか目を逸らしながら言う城山のことを、顧問の先生はやはり不審に思ったらしい。
彼女はそのまま半眼になって、音大の後輩に詰問する。
「で? そのココロは?」
「どうも団員さんたちが演奏会の集客に苦戦しているようでして、見るに見かねて僕が何枚かチケットを預かってきたんです、はいぃぃ……」
仕事以外では頭が上がらない先輩に睨まれて、城山は正直なところを素直に白状した。
なるほど、と鍵太郎も納得する。自分や他の学校も集客には苦労していると思うが、大人の団体の演奏会でもそれは同じらしい。
そうなるとやはり、あの楽器屋の話していたことは本気で考えなければならないのか――と、鍵太郎が内心思っていると。
大人二人はそんな生徒をよそに、好き勝手に会話を始める。
「げ、芸術の秋ですよ。僕らにとって秋という季節は色々演奏会とかがあって、結構重要なのです」
「どうせそんなこったろうと思ったよ。けどまあ、それならいいさ。ちなみに、何やんだ?」
「ど、ドヴォルザークの『新世界より』を……」
「なんでその曲で湊を呼ぼうと思ったんだよ、おまえは」
オケの鑑賞はできても、それじゃ楽器的には全く勉強にならねーじゃねーか――と言う先生に、鍵太郎は首を傾げて本町に訊いた。
「どういうことですか? 勉強にならないって」
「あー、おまえ『新世界』って聞いてもピンと来ねえか。まあ、そりゃそうだよな」
曲をやってんのを実際見るか、話として知っとかなきゃわかんねえことだもんな。
そう言って、苦笑いする本町に――今度は城山がこちらに言ってくる。
「ほら。だったらやっぱり生で見てみた方が、カルチャーショックみたいな感じで勉強になりますよ」
「え? カルチャーショックを受けることになるんですか? 俺」
「まあ、それはそれでいい勉強かもしんねえけどよ……。んー、じゃあ。だったら――」
「それに! 曲のこともそうですが!」
何かを言いかけた本町に、珍しく強引にねじ込むように城山は言う。
びっくりする他の二人に、指揮者の先生は至極真剣な表情で訴えてきた。
「今回のメンバーさんたちはすごくいい人たちばかりなので、本番が終わって楽屋に来てお話するだけでも、すごくこれからのことについて参考になると思うんです。だからぜひ、湊くんには来てもらいたいなと」
「……そうか」
そんな後輩の様子に、感じるものがあったのだろう。
本町は城山の言葉にうなずき、「おい湊。都合がつくならその演奏会行ってやれ」と言ってくる。
「確かにこいつの言うとおり、他のジャンルの音楽を聞くこともいい勉強になる。オケの演奏会は始めてだろ? だったら、せっかくタダで聞ける機会だしな。行ってこい」
「わかりました」
顧問の先生の許可を得て、鍵太郎はいそいそとチケットを制服のポケットにしまった。というより当日は特に何も予定がなかったし、オーケストラの演奏会というのにも興味があるのだ。そうでなくてもその本番には行ってみるつもりだった。
それに、そのカルチャーショックとやらも気になる。
『新世界より』――一体どんな曲なんだろうと楽しみにしていると。
本町はそんな鍵太郎にもう一枚、追加でチケットを差し出してくる。
「でも、おまえひとりだけで勉強に行くっつーのも、部活としてはちょっと不恰好だからな。だから、もう一人と一緒に見聞を広げるつもりで『新世界』を見てこい。いいな?」
そして、顧問の先生が告げた名は――
###
「え? わ、私も行けって!?」
そう言って、仰天する
鍵太郎は、チケットを差し出しながら無言でうなずいた。
そういえば同い年の彼女は、自分と同じく次期副部長として、上の立場に立つ身でもあるのだ。
なら本町や城山の言うように、見聞を広げるつもりで演奏会に行った方がいいだろう。
まあ、二人で演奏会に行く、というシチュエーションは鍵太郎としてもどうかと思うのだが――しかし光莉はどうも過去にあったことのせいか、自分の可能性を、世界を小さく閉じる傾向がある。
それをどうにかしてやりたい、という気持ちの方が今は強かった。
しかし当の彼女は差し出されたチケットを、非常に困惑した様子で、顔を真っ赤にして見つめている。
「で、デート……。誰にも疑われないオフィシャルな理由で、文句のつけようもなく二人っきりでお出かけできる、またとない機会……」
「なんだ? また宮園出身の誰かがいそうだから嫌だとか言うんじゃないだろうな?」
なんだか煮詰まった調子で、ブツブツと話す光莉の言葉はよく聞こえなかったが――
それでも、鍵太郎はそれこそ以前のように、変装させてでも彼女のことを引っ張っていくつもりだった。
だがこちらの発言に、光莉は「ば、ばかっ!? 違うわよ!?」と言って、チケットをひったくる。
「行くわよ!? 行くに決まってるでしょ!? あんた何をトンチンカンなこと言ってんの!? バッカじゃないの!?」
「なんで先生に言われてチケットを渡しただけなのに、こんなに罵倒されなきゃならんのだ!?」
相変わらずの彼女の攻撃性に、これから二人でやっていけるのだろうかと、不安にもなるのだが――
しかし一応、罵られたことにも理由はあるらしい。
光莉は少しは落ち着きを取り戻した様子で、こちらにそれを説明してきた。
「オーケストラと吹奏楽っていうのはね、そもそもそんなに横のつながりはないのよ」
共通する楽器を使う部分がありつつも、交流自体はあまりない。
だからかつての中学の人間とは、ほとんど遭遇する可能性はないだろう――そうため息をつく同い年に、高校から吹奏楽を始めた鍵太郎は、そんなものかとうなずいた。
やはりそういった業界の知識的なものは、強豪校出身である彼女の方がはるかに多く持っている。
けれども、だからこそ今回の演奏会については光莉にも分からないことだらけらしい。
困ったようにチケットを見ながら、「私もオーケストラは、全然詳しくないのよね……」と言ってくる。
「大体オーケストラの演奏会って、何着てったらいいのかしら。なんかこう……フォーマルというか。そんな格好していった方がいいのかしら」
「まあ、なんか吹奏楽よりセレブっていうか、大人な感じはするけどさ……でも、普通でいいんじゃないか、普通で」
燕尾服やスーツで来いとは、さすがにあの指揮者の先生にも言われなかった。
だからそこまで、ドレスコードなんて気にしなくても大丈夫なのだろう。そう言う鍵太郎に、光莉は「い、いや……だから、普通って言っても色々あるのよ、こっちは……!」などとまたボソボソと言っている。
「ど、どういう系の服装でいくとか、どれに何を組み合わせたら、一番それっぽく見えるかとか……! い……色々あるのよ、色々ッ!?」
「はあ。なんか女子ってそういうの大変だな」
たまに女子部員たちの私服を見ることもあるのだが、いつもいつもよくもまあ、あんなにオシャレに着飾れるものだと恐れ入る。
ともあれ、彼女も問題なく演奏会には行けるようだった。
襟首を掴まれてがっくんがっくん揺さぶられていることは、とりあえず置いておいて――鍵太郎はそのことについて、ほっと一息つくのだった。
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「とりあえず、みんな格好は普通の感じだな」
そして、当日――
鍵太郎と光莉の二人は、演奏会の会場となるホールにやってきていた。
初めての場所だが、県内にあるのでなんとか電車で来ることができた。
見慣れないホールでなんだか少し緊張するが、今回は自分が演奏するのではない。単なる観客の一人だ。
そしてそのホールに入っていく他の観客も、そこまでしゃちほこばった装いでもない。
中には小ぎれいなものではあるが、ポロシャツのおじさんもいるくらいだ。
鍵太郎も鍵太郎で、そこまでいかないまでも少しきれい目の普段着、といった服装をしてきている。
そして、光莉はといえば――
「ぐ、ぐううう。こんなんだったら、もうちょっとかわいい格好してくるんだった……」
黒のロングスカートに白いブラウスという、おまえが演奏者かという格好だった。
どうも、オーケストライコールフォーマル、という図式からは脱却できなかったらしい。
「せっかくの……せっかくの機会なのに……」と彼女はなにやら嘆いている。しかしいつもぎゃあぎゃあ怒鳴ってくる光莉のロングスカートというのも新鮮に感じられて、意外とアリなんじゃないかとも鍵太郎は思ったのだが。
口に出したら殴られそうな予感がしたので、そう言うのは止めておいた。
「さて、じゃあ行くか」
開場の時間にはなっているので、鍵太郎は光莉にそう声をかけてホールへと向かう。
チケットの半券とパンフレットを受け取り、中に入る。
五月に行ったあの吹奏楽の強豪校の演奏会と違って、ロビーがごった返しているとか、そういったことはなかった。
非常に落ち着いていて、ゆったりとした雰囲気だ。
それは城山が言ったとおり集客に苦戦しているからなのか、それともオーケストラ自体がそういう落ち着いた文化を持っているからなのかは、判断できなかったが――客の年齢層が若干高いので、それもあるかもしれない。
そう考えると光莉がこういった服装を選んできた気持ちも、分からないでもなかった。
真面目で高尚で、音楽の授業で見るようなよく分からない芸術的だ何だと称される何かを、これから長時間聞くことになるのかもしれないのだ。
これが、先生の言っていたカルチャーショックなのだろうか。いや、城山は曲を聞いたときにそれを感じると言っていた。
なら、本当に先生が見せたいものはこの先にあるのだろう。
そう思って、大ホールの中に入る。
そこはコンクールの会場と同じように千人程度が入るような、そんな大きな造りだったが――座っているのはせいぜい半分といったところだろうか。
しかし、ということは席もほとんど選びたい放題ということでもある。どことなく不安げな光莉に「どこに座る?」と訊いて、鍵太郎は彼女と一緒に客席中央のやや右側、ステージからすると上手側に座った。
たぶん、光莉も光莉でこちらと似たような緊張感を覚えているのだろう。
なんだかまだ自分が来るべきではないような、場違いのところに来てしまったような感覚を。
キョロキョロと周囲を見回す同い年に、俺もこの間こんな感じだったのかなあと、最近大人たちに色々なところに引っ張りまわされたことを思い出して、鍵太郎は苦笑いした。
部長になることが決まってからというもの、今回のように外の世界に連れ出されることが多くなった。
それがいいことなのか悪いことなのかはよく分からないが――少なくとも意固地になって、その場所に留まっているよりはマシなのだろう。
そう考えて、椅子の並べられている舞台を見る。
『新世界より』。
その曲が演奏される舞台の楽器配置は、いつもの吹奏楽の見慣れた並びとかなり違っていた。
「つーか、コントラバス五台もあるのか……」
舞台の右側に弦の低音楽器、コントラバスのための専用の椅子が多数配置されていることに、鍵太郎はまず驚いた。
コントラバスといえば、吹奏楽だとあっても二本がせいぜいだ。
どうも編成についても、いつも見ているものとはだいぶ違うらしい。これから一体どんな音がするのか、想像がつかない――そう思っていると。
光莉がこちらのつぶやきを聞きつけたのか、小さな声で言ってくる。
「……前も言ったでしょ。オーケストラは吹奏楽と違って弦楽器が主体なんだって。だから弦バスだって多いわよ」
「そうなのか……」
その言葉にそういえばと思ってプログラムを見てみると、メンバー紹介の欄は確かにバイオリンやチェロといった、弦楽器の欄に名前が多くあった。
そしてトロンボーンのところには、もちろん城山匠の名前がある。
さらに、その下にある鍵太郎の担当するチューバの部分には、一人分の名前しか記されていなかった。
「一人で全部やるのか、大変だなあ」
冗談でも何でもなく、そんな正直な感想が鍵太郎の口から漏れた。
自分もいつも部活ではこの楽器を一人で吹いているが、あの運動量を一人でこなすのはやはり厳しいものがあると思う。
だがそうは言っても、コントラバスが五人もいるならだいぶ助かるだろう。そう考えながらプログラムをパラパラとめくっていると――
ベルが鳴って、演奏者たちが次々と舞台へと入ってきた。
「あ、城山先生」
その中に見慣れたあの先生の姿を見つけて、なんとなくほっとして手でも振りたい気分になる。
さすがにこの雰囲気の中ではそれもできなくて、心の中でそうするだけにしておくが。そしてそんな風に城山を見送っていると――彼は舞台のひな壇一番上、いつものトロンボーンの席についた。
さらにその隣に、チューバの奏者が座る。へー、一番上の段に座るのか――とそこも鍵太郎が不思議に思っていると。
どこからともなく音がし始めた。
これは、木管楽器。
オーボエの音だ。
舞台中央、ひな壇の一段目に、黒いドレスを着た長髪で妖艶な美女がいるのが見える。
彼女がチューニングのために、音を出しているらしい。そのオーボエの音に合わせて管楽器隊がまず音を出し、そしてバイオリンなどの弦たちも弓を弾き始めた。
「……あれ、この音」
そのどこかで聞いたことのあるサウンドに、鍵太郎はそれが一体、どこで聞いたものだったか記憶を探った。
何か楽しいことが始まるような気がして、心臓がドクドクとざわめくような、この感触。
これは。
「あ、そうだ」
この音は――
「プレステ3の起動音だ」
気づいてしまえばとても耳慣れたものであるそれに、鍵太郎は思わず笑みをこぼしていた。
あんなに遠くに感じていたはずのオーケストラが、それで一気に身近なものに思えてくるから可笑しなものだ。
まあ、ゲーム自体をあまりやらないらしい光莉は「は?」と言って、怪訝な顔をしていたが。
この辺は彼女の緊張をほぐすため、後で説明をした方がいいかもしれない。
「ああ――でもやっぱりどんな曲なのか、楽しみになってきたな」
しかしそれでも――『新世界より』と。
そう称された曲は、実はこんなにも案外身近にあるものから、聞こえてくるのかもしれなかった。
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