第185話 努力と才能の間

 都賀つが楽器店で店員に出されたコーヒーには、ミルクと砂糖が添えられていた。

 対して、正面に座るこの楽器屋の店長にはそれがない。

 そのことについてなんとなく深読みしながら――湊鍵太郎みなとけんたろうは、今の自分の立場のことを考えていた。

 おそらく自分の方が普通なのだろうが、この店長の方はちょっと普通じゃない。

 そしてそんな鍵太郎の眼差しに気づいたのだろう。都賀はコーヒーを飲みながら、その視線に応えてくる。


「なんだい? 毒なんか入ってないから、普通に飲んでいいよ」

「いや……なんで貴方は、俺にここまでしてくれるんだろうと思って」


 先ほどこの人は、自分にもっと強くなるための方法を教えてくれると言った。

 それはいうなれば、先行投資のようなものだとも。

 対価は将来的に払ってもらえればそれでよくて、今はそのために恩を売っているのだという。

 実に商売人らしい、この人らしいやり方だ。

 けれど鍵太郎には、それだけではない気がした。


「なんで俺に対して、そこまでこだわるんだろうって思って。俺程度の人間なら、他にもたくさんいるでしょう。さっき都賀さんは投資だって言ってましたけど、そんな不確定な先物買いをする理由が、どこにあるんですか? 貴方から話を聞くだけ聞いて、俺がなにも返さない可能性だってありますよ」

「うーん、慎重だねえ。おまけに冷静ときた」

「いつだって冷静さはどこかに残しておきなさいと、先輩に言われたものですから」


 コーヒー好きのあの先輩のように、その場を全部見通せるわけではなかったが――

 それでも、前後の状況から鍵太郎は、ある程度の推測を立てていた。

 先行投資、青田買い。

 それも確かに、理由の一部ではあるのだろう。

 けれどもこの人を動かすのは、もっと違うもののように思えた。

 楽器屋の体裁を保ちながら、その奥にあるのは個人的な感情――

 そう、例えば。

 今、自分の部活で指揮を振ってくれている、あの外部講師の先生のこととか。


「……参ったね。そんなに顔に出てたかな」

「この間の都賀さん、すごい顔してました」


 先日、都賀が備品を納品しにきたとき、現在吹奏楽部の外部講師として来ている城山匠しろやまたくみの名前を聞いて、恐ろしいほど無表情になったことがあった。

 同じ音大出身だというこの二人であるが、なにか因縁があるのだろうか。

 そしてそれが、現在進行形で自分に関わってきているのだ。

 無理に聞きたいわけではないが、都賀と城山の関係についてはできれば知っておきたかった。

 その方が、これから話されることについて、さらに理解が深まりそうな気がしたからだ。

 そう言うと、都賀はコーヒーカップを持ったまま苦笑いする。


「そうだねえ……。じゃあそこまで辿り着いたご褒美に、少し昔話をしようか」


 あまり聞いていて、楽しくはないかもしれないけど――

 そう前置きをして、都賀は語りだした。


 楽器屋としてではなく、ただの一人の人間として。

 自分とあの指揮者の先生との間にあった、かつての物語を。



###



「僕と城山は、学生時代の同期でね」

「……そうなんですか」


 同じ音大出身だという二人だが、まさか学年まで一緒だとは思わなかった。

 しかしだからこそ、なにかあったのだろうか。鍵太郎がそんな感想を持っていると、都賀はそのまま続けてくる。


「僕はトロンボーン吹きだった。それでプロになりたいと思ってたんだ。実家なんか継ぎたくなかった。そんなものよりもっと大きなステージに立って、もっと大きな光を浴びたかった。そう思ってた」

「……意外ですね」


 今でこそ、こんな立派な楽器屋の、店長としている都賀であるが。

 まさかそんな過去があったとは思わなかった。そして楽器も、あの先生と同じトロンボーンだったとは――

 と、そう思ったとき、鍵太郎の中で一瞬で嫌な予感が膨れ上がって弾け飛んだ。

 つまり、それは――


「そう。けれど音大に入ってあいつの音を聞いたとき、僕は気づいたんだ。『ああ、本当にプロになるのは、こいつみたいなやつなんだ』って」

「……」


 淡々と自分の過去を語る都賀へと、鍵太郎はそれ以上なにも声をかけることができなかった。

 それはむしろ、この人を侮辱するような行いのように思えたからだ。

 近くを見るような遠くを見るような、そんな不思議な眼差しでもって、都賀は続ける。


「幸か不幸かそう判断できてしまうくらいの残念な才能と、聞けるだけの耳を僕は持っていた。無様だったね。この程度でプロになろうとか思ってた自分自身が。そして、あいつはずっと首席だったよ。同期の誰もが敵わなかった。それだけの圧倒的な才能と、それに伴った技術を持っていた。僕の同期にはあいつに心を折られて、プロになる道を諦めた人間が何人もいるよ。あいつ自身は、そのことに気づいてないけれど」

「気づかなくて、いいんじゃないですか。それは……」


 それを知ったら、あの先生はどれほど傷つくことだろう。

 彼のせいではないのはわかっている。

 それは周りが勝手に諦めて、勝手に自身の道を閉ざしただけだ。

 けれど、例えそれが自分のせいでないとわかってはいても――それでもあの先生は、誰かの将来を振り回してしまったことを悔やむことだろう。

 そういう人なのは知っている。

 そして、目の前の楽器屋も――


「そして僕はプロになる道を諦め、リペア科への転属を決意した。そういうわけだよ。その後はご覧の通りだ。僕はこうして実家を継いで、今ここにいる」

「……なんというか、軽々しく聞いていい話ではありませんでした。すみません……」


 この人もこうして過酷な世界で、辛酸を舐めてきている身だったのだ。

 それはこれまで、都賀の楽器屋としての顔しか知らなかった鍵太郎にとっては、衝撃的な話だった。

 努力と才能。

 それにどうしても埋まらない溝があることは、わかってはいるものの。

 ここまで大きな決断をしてしまった人が――こんなに身近にいるとは思わなかった。

 都賀自身の言った通り、これは全く、楽しい話などではなかった。

 訊いてしまったことを後悔していると、都賀はコーヒーを一口飲んで、しかし「いいんだ」と笑う。


「そのおかげで僕は、ひとつ大きなものを学ぶことができたんだからね。ま――だからといって負け犬に成り下がった気は、毛頭ないんだけど」

「……どういうことですか?」

「僕はその方法をきみに教えることによって、あいつに勝ちたい。そう思っているのかもしれない」


 むしろその方が大きいのかもしれないね――そう言って、都賀はコーヒーを一気に飲み干した。

 そうして見せた顔は、また楽器屋のそれに戻っている。


「どうかな? これで、僕がきみにこだわる理由は、なんとなく分かったと思うけど」

「十分すぎるほどよく分かりました……」

「そうかい。それはよかった。じゃあここからは――引き返せない第二ラウンドだ。準備はいいかな?」

「こんな話聞かされたら、それに乗らないわけにはいかないじゃないですか……」


 それこそもまた、この楽器屋の戦略だったのかもしれないが。

 鍵太郎がげんなりしていると、都賀は顧問の先生にするように、愛嬌たっぷりにウインクして言ってくる。


「でもそれが、そんな努力と才能の間にあるものを、埋めるための方法だって言ったら?」

「……くそ。聞けばいいんでしょう。聞けば」


 したたかに生きる楽器屋に、鍵太郎は半ばヤケクソになってそう答えた。

 せめても、ミルクと砂糖を入れてコーヒーを飲む。

 自分はそうでもしないと、まだまだ現実を飲み込めないお子様ではあるのだが――

 それでもこの先に進むには、そうするより他に手段がなさそうだったからだ。

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